第四章 再見(1)
大陸の南西にあるウォーレ湖から大聖堂領を北上した一行は北方独立国群と国境を接する辺りにまで到った。現在地からさらに北上すると北方独立国群へ、西進すればどこの国にも属さないオラデルヘルという娯楽都市へと辿り着く。宿の室内で地図に見入っていたコアは外出していたマイルが戻って来たので顔を上げた。
「この近辺に情報はなさそうだ」
粗末なベッドに腰を下ろすなりマイルはため息まじりに告げた。煙管に火を入れながらコアは再び地図に目を落とす。
「オラデルヘルからそう距離もないのに、このばらつきは何だろうな」
大陸の北西に位置するポードレール湖に浮かぶオラデルヘル近辺では異常なまでに空飛ぶ艇の目撃情報があふれている。だが周囲の地域では、あまり目撃談がない。コアがその理由に思いを巡らせているとマイルが口を開いた。
「突然出現する、といった感じだな」
愚者の一人であるキールが乗っているとされる、空飛ぶ艇。航路を辿っているのか、それとも気まぐれに浮遊しているのか、詳しいことは何も判っていない。マイルと同じことを考えていたコアは煙を吐き出しながら空を仰いだ。
「そもそも、何で艇が飛べるんだ?」
「そういうことは愚者に聞け」
今更ながらの疑問は答えを求めたものではなかったが、マイルは冷たく言い放ち窓辺へ寄った。マイルの仕種は煙を嫌うものでありコアは明後日の方へ顔を傾ける。
「それと、余談だが」
マイルが話を再開させたのでコアは火を消してから振り向いた。
「何だよ?」
「お前、オラデルヘルの主人と知り合いだったよな? 最近、空飛ぶ艇を見に行こうと言う触れ込みで旅行まで組まれているらしい。無論、オラデルヘル主催だ」
あんぐりと口を開けたまま絶句して、それからコアは爆笑した。
「あー、腹痛ぇ」
「笑いごとじゃないぞ。主人は大聖堂の人間じゃないんだろ?」
笑い転げるコアを呆れ顔で見据え、マイルは懸念を示した。コアは引きつった頬を元に戻しながら軽く手を振って見せる。
「平気へいき。大聖堂もあの親子にゃ手出さないって」
「その根拠は?」
「本人に会わせてやるよ。きっと気が合うと思うぜ」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら不敵に笑うコアの表情を見たマイルはおもむろに眉をひそめた。
大陸の北西に位置するポードレール湖は南西のウォーレ湖に対して髑髏の右目と呼ばれている。この湖の東岸にはネオン、南岸にはウランという街があり、これらは共にオラデルヘルの傘下である。オラデルヘル傘下の街のうち一行はネオンを訪れ、昼間の静寂を目の当たりにしたリリィは眉根を寄せていた。
普通の街であれば太陽が昇っている昼は活気に溢れている。だがネオンには通りを行き交う人影もなく、街全体がひっそりと静まりかえっていた。
「ねえ、ここってどういう所なの?」
リリィはちょうど隣にいたマイルに尋ねたのだが、彼は微妙な笑みを浮かべただけで説明を加える気配はなかった。コアに訊いてくれとマイルが言うので、リリィはコアを振り返る。
「この街はな、盛り場だ」
その名称を聞いたことがなかったリリィは首を傾げた。
「盛り場って何?」
「盛り場ってのはな……おい、クロム」
突然、コアはクロムを振り返った。コアに名指しされたクロムは少し嫌そうな、マイルと似た表情を浮かべる。
「説明は任せたぞ。俺はちょっと行く所があるからよ」
一方的に言い置いたコアは勝手知ったる足取りで姿を消した。クロムがまだ妙な顔をしているのでリリィは眉根を寄せながら問う。
「そんなに言いにくいことなの?」
「あのですね……」
「いいよ、俺が説明する」
クロムを哀れに思ったのかマイルがため息混じりに容喙した。マイルはもう一度息を吐き、真顔でリリィを見据えてから口火を切る。
「娼婦、という言葉を聞いたことはあるか?」
「ないわ」
「……そうか。娼婦というのは体を売って生計を立てている女性のことだ」
「体を売るって?」
「……つまりだな……、どう説明すればいいんだ?」
困り果てた表情をしたマイルはクロムを振り返る。クロムは大真面目な様子で口元に手を添えながら応じた。
「これは、人間がどのように子孫を残すかというところから説明をしないと解らないのでは?」
「……まいったな」
マイルは途方に暮れたように空を仰ぎ、クロムは腕組みをして考えこんでいる。男二人のそのような様子を見たリリィは不審に思いながらも追求を諦めた。
「いいわ、もう訊かないから」
「そうか。一般的に盛り場は常に人が集まる場所を指す。ここは、少し違うが」
それ以上を説明する言葉を持たないようでマイルは苦さを滲ませながら口を閉ざす。だがすぐに表情を切り替え、マイルは真顔に戻って話題を変えた。
「俺達は宿で待っていよう」
不可解さを残しながらもリリィは無言で頷いた。
オラデルヘル傘下の街であるネオンとウランはもともとは独立した二つの街であった。どちらも盛り場として生計を立てていたため、壮絶な客引き合戦が繰り広げられていたのはそう昔の話ではない。だが無意味な争いを続けて行くよりも確実に儲かると考えたある親子の手によって、二つの街は一つの大都市に生まれ変わった。ネオンは男性客専門、ウランは女性客専用と規則を作ったため争いも消え、現在では莫大な利益がオラデルヘルへと流れているのである。
コアは一人、昔馴染みに会うためにネオンで一番大きい屋敷にいた。
「客が来てるって言うから誰かと思えば……久しぶりだね、コア」
漆黒の薄布から美しい肢体を剥き出しに姿を現した女の名はネオン。街の名をそのまま源氏名とする彼女は一流の娼婦であり権力者でもある。色素の薄いブラウンの髪がかかる女の鎖骨から意思の強さを思わせる褐色の瞳へと視線を上げ、コアは笑顔で片手を振った。
「よお。久しぶり」
再会の挨拶を交わしながらもコアは傍へ寄って来たネオンがくわえていた葉巻を奪い取り、くわえる。コアが美味そうに煙を吐き出す様を見たネオンは顔を歪めて舌打ちをした。
「相変わらずヤな奴だね」
「煙は肌に悪いぜ。いつまでも美しくいてもらいという俺からの愛情表現だ」
「何言ってやがる。どうせ自分が吸いたいだけだろ」
「あらま。バレバレっすか」
「狸っぷりも相変わらずだね」
大きく開いたドレスの胸元から葉巻の替えを取り出し、ネオンはため息をつきながら火をつけた。二人分の煙で瞬く間に室内が白く染まっていく。
「で? 何か用なんだろ?」
豪奢なソファに腰を下ろし、組んだ美脚の辺りにまで葉巻を下げながらネオンは片手で髪を掻き上げた。深く吸い込んだ紫煙を吐き出してから、コアは口を開く。
「別に? 久しぶりに来たから寄ってみただけ」
「そんなくっだらない理由でアタシの貴重な夜を台無しにしようってのかい?」
「荒稼ぎしてんだろ? 一晩くらいいいじゃねーか」
「アタシは高いよ。そうだね、今までのツケもせっかくだから払ってもらおうか」
「げっ、そんな昔のことは忘れろよ」
「何言ってんだい。どーせこれが目当てで来たんだろ?」
呆れたように言ったネオンは立ち上がり、葉巻を片手にコアの傍へと寄った。ネオンに咬まれたコアの首にはべっとりと、彼女の口紅の色が残る。
「悪いな」
ネオンを遠ざけたコアは笑いながら立ち上がった。ネオンは忌々しそうに顔を歪め、再び脚を組んで座りなおす。
「ホント、これだけのために来やがったんだね。イヤな奴」
「まあ、そう言うなって。今度は美味い酒でも持って来るよ」
「ねえ」
「ん?」
ネオンの声音が甘いものに変わったので立ち去ろうとしていたコアは振り返った。娼婦らしい艶めいた表情で、ネオンはコアを見つめる。
「久しぶりにどう? ジジイの相手ばっかりで飽きちゃった」
短いドレスの裾を細い指でたくし上げ、元から開いている胸元をさらに開きながらネオンはコアを誘う。だがコアはキョトンとした表情で首をひねった。
「クレルがいるだろ?」
クレルとはオラデルヘルの主人であるライトハウスの息子の名である。ライトハウス親子と親交のあるコアは息子がそろそろ女遊びを始める年齢だと思ったのだが、ネオンは首を振って立ち上がった。
「あいつらはネオンの女には手を出さない。奴らにとっては商品だからね」
「へえ、商魂たくましいことだな」
「だからさ、安くしとくよ」
白く細いネオンの手足が佇むコアの体に絡む。形のいいネオンの唇が耳元で囁く低めの声は魅力的ではあったがコアは苦笑した。
「悪いな。そーゆーのはやめにしたんだ」
コアに引き剥がされたネオンは途端に艶やかさを消し、忌々しそうに舌打ちをする。ネオンの機嫌を損ねたことを察したコアは別れの挨拶もそこそこに退出した。
「さっさと帰れ!」
ネオンの怒声と共に背にしている扉の向こう側で何かが割れる音がしたのでコアは肩を竦めながら煙をくゆらせた。
人も、街も、ネオンの夜はきらびやかに装う。通りには客引きの娼婦と快楽を求めて彷徨う獣のような男達が戯れており、マイルはカーテンを引いて窓辺を離れた。
「ウランに宿をとった方が良かったか?」
マイルに同意を求められたクロムは困ったように苦笑した。リリィは別室に宿泊しておりコアはまだ戻って来ていない。
「値段も変わりませんし、同じことでしょう。リリィさんのことを考えればこっちの方がましだと思いますよ」
クロムの意見を聞いたマイルは昼間の出来事を思い返した。
マイルはリリィの実年齢を知らないが、おそらく十代後半であろうと思っていた。そのくらいの年頃ならば色恋沙汰の一つや二つあってもおかしくなさそうなものではあるがリリィの経歴を想像すれば、無理もないことのようにも思われる。
きっと、リリィは余裕のない生き方をしてきたのだろう。そう思い肩を竦めたマイルはふと、遅ればせながらクロムの異常さに気がついた。
「この街は初めてじゃないのか?」
こういうことに免疫があるようには見えなかったがクロムは堂々としている。場慣れしているのかとマイルが意外に思っているとクロムは苦笑した。
「博士に幾度か、連れて来られたことがあります」
なるほど、とマイルは深く頷いた。
ネオンの夜を窓辺から眺めていたリリィは男達が言い淀んだ理由を理解したような気がしていた。夜の街に蠢く人々の姿は生理的な嫌悪感を覚醒させ、リリィはカーテンを引いて窓辺を離れた。
(……最低)
無性に腹が立ち、リリィは無駄に豪奢なベッドに転がる。一人用にしては広すぎるその場所は極上に柔らかかったが、リリィにはそのことすら癪に障った。
寝転んでみたものの落ち着かず、リリィは再び起き上がる。室内には高級そうな調度品ばかりが並べられ、金色の輝きはリリィに圧迫感を与えていた。
(どれもこれも……)
ネオンの街へ消えて行った男の顔を思い浮かべた時、リリィは沸騰しそうな怒りを感じた。発散させないことには気持ちが鎮まりそうになかったのでリリィはベッドを下り、壁に拳を叩きつける。すぐに痛みが染みてきて、リリィは後悔した。
ひどい嫌悪感と苛立ちに見舞われているというだけで、リリィには嫌な気分の正体が分らなかった。分らないことがさらに苛立ちを助長させ、リリィは息を吐きながらベッドに腰を下ろす。
(何なのよ)
不機嫌の理由に少なからずコアが関わっていることをリリィは察していた。なのでコアが嫌な奴だからという結論を強引に導き出し、リリィは凹みもしなかった壁を睨みつける。
「荒れてるな」
不意に声をかけられたリリィは睨んだまま顔を傾けた。いつの間にか扉が開いており、そこにはマイルが佇んでいる。
「ノックしたんだが聞こえなかったみたいだな」
「……何?」
醜態を見られたことを苦く思うあまりリリィの口調は素っ気ないものになった。だがマイルは気にした素振りを見せず本題を口にする。
「周辺の聞きこみをしようと思うんだが一緒に行かないか? あまり、この街にいたくないだろう?」
マイルの申し出はありがたく、リリィはすぐさま頷いた。
「行く。ここイヤ」
一刻も早くこの場を去りたかったリリィは躊躇わず荷物に手を伸ばした。




