第三章 流刑地の閑人(14)
ウォーレ湖東岸でリリィと再会したコアとマイルは南岸にあるビオリバーの町へと戻って来た。そこで一人待たされていたクロムはコアから話を聞いて目を見開いた。
「信じられませんね。あの湖に落ちて戻って来るなんて」
クロムの反応はありきたりであり、コアは煙管に火を入れてから空を仰いだ。
「まさに奇跡ってやつだな。あの娘が戻って来た時、光が溢れたんだ」
「突然発光するなんて……何でしょうね? 何か、特別な力が働いたのでしょうか」
「そうだな……。まあ、詳しい話はアイツが落ち着いてから聞けばいい」
リリィが行方不明になっている間に何を体験したのか、様々に憶測を巡らせたところで現実味は皆無である。しかし想像は止まず、以前酒場で耳にしたような女をリリィも見たのかとコアは煙をくゆらせながら思った。
(……ダメだ、興奮してやがる)
気持ちを落ち着かせるために煙を呑んでみても興奮は醒めず、コアは息を吐く。直接現場を見ていないクロムは半信半疑なのか冷静であり、コアは一瞥したのち入れたばかりの火を消した。
「一杯やりに行くぞ。ちょっと付き合え」
「えっ……今から、ですか?」
間もなく朝を迎えるのでクロムは嫌そうな表情をしたがコアは無視した。半ば引きずられるように歩き出しながらクロムはコアを仰ぐ。
「マイルさんはいいんですか?」
「ほっといてやれ」
コアは素っ気無く言い、クロムと共に宿を後にした。
ウォーレ湖南岸の町であるビオリバーでも耳を澄ますと歌声が聞こえてくる。明け行く空をぼんやりと見上げながら、マイルは昔のことを思い出していた。
マイルと緑青は同郷である。そのため子供の頃はよく一緒に悪さをし、共に叱られていた。武勇伝のような悪行の数々が脳裏を去来し、マイルは口元を歪める。
「……耒」
同じく同郷である少年の名を、マイルは呼んだ。常にマイルの影として付き添っている耒は足音を立てずに姿を現す。しかしお互いに交わす言葉はなかった。
しばらくは無言でいたが黙っていても仕方がなく、マイルは短く息を吐いてから口火を切った。
「これが、時代の流れというやつなのか?」
「わかりません。けれど、抗いたいですね」
「……そうだな。だが、終わったことだ」
己に言い聞かせたマイルの言葉は虚しく消えて行った。もう誰を責めても何を悔やんでも、死んだ人間は戻っては来ないのである。
耒と目を合わせられないままにマイルは話を続けた。
「耒、老人達の傍にいてやってくれないか?」
「……命令ならば、そうします」
「赤月帝国は耒にとっても祖国みたいなものだろう?」
「確かにそうですが……僕は、あなたに着いて行くと決めたんです」
耒の口調は決意を滲ませた強いものであった。マイルは自嘲に顔を歪め、しかしすぐに表情を消し耒を振り返る。
「望みを、絶えさせないでほしい。耒がもう大丈夫だと判断したら戻って来るといい」
「……わかりました」
耒はまだ躊躇いを覗かせていたが食い下がることはしなかった。やるせなさを漂わせながら去って行く耒の小柄な姿を見送り、マイルは再び天を仰ぐ。
耒を行かせたのは単に一人になりたかっただけかもしれない。埋められない喪失感を抱きながらマイルは胸中でそう、呟いた。
寝返りを打った拍子に何かがぶつかり、その感覚でリリィは目を覚ました。頬に触れる布の感触と開いた目に映った景色から、リリィは横たわっていることを察した。
(……何処?)
まだ覚めきれぬ頭を抱え、リリィは上体を起こして周囲を見回す。しかし頭がひどく重く、またズキズキと痛みまで伴っていたのでリリィはすぐさまベッドに逆戻りした。
目が腫れぼったかったので指で触れようとして、リリィは動きを止めた。何かがひどく臭っている。
(この臭い……)
嗅覚が記憶を呼び覚まし、リリィは慌てて体を起こしたのち自分の形を確認した。白装束からは着替えさせられているが体に染み付いた死臭はとれていない。
手にしていたはずの首飾りがないことに気がついたリリィは慌ててベッドを探った。見当たらなかったのでベッドから飛び降り、リリィはシーツを引き剥がす。床が音を立てたので視線を移すと、そこには木彫りの首飾りが転がっていた。
首飾りを手にしたリリィは急いで扉へと向かった。そこへ入室を知らせる音もなく扉が開いたのでリリィはおもむろに体をつぶけてしまった。
「何やってんだ、お前?」
侵入して来たのはコアであり驚いたような表情をしていたがリリィは構わず胸倉を掴み上げた。
「マイルは! マイルは何処!?」
「なっ、何だ? マイルがどうしたって?」
すぐに話が通じないことにリリィは苛立った。力任せにコアを揺さぶりながらリリィはもう一度同じ科白をくり返す。
「だから! マイルは何処にいるの!?」
「昨夜は戻って来なかったな。何処にいるかは知らない」
返答を聞き、リリィはコアを押しのけた。しかしすれ違いざまに腕を捕まれ、リリィはコアを振り返る。
「何を興奮してるのか知らないが落ち着けや」
「マイルに渡す物があるのよ!」
リリィが怒鳴りつけるとコアは眉根を寄せた。
「心配しなくても戻って来るだろ。お前は一応怪我人? なんだから無茶するな」
言うと同時にコアはリリィを担ぐ。コアの振る舞いは横暴であり、リリィは悲鳴を上げた。
「ちょ、放してよ!!」
「ぎゃーぎゃーうるせえ。怪我人は怪我人らしく大人しくしてろ」
言葉のわりにコアの扱いは手荒であり、リリィはベッドへ放り投げられた。強か顔を打ち、リリィは呻きながら体を起こす。
「ほら見ろ」
当然だと言わんばかりの口調で言い、コアは枕元に椅子を運んできて腰を下ろした。
「で? 何だってそんなに慌ててんだ?」
「だから、渡す物があるって言ってるでしょ」
「渡す物ってのは一体何だ?」
「……預かり物よ」
「ふうん」
それ以上追求するつもりもないようでコアは言葉を切った。少し頭の冷えたリリィも大人しく座りなおす。その後奇妙な沈黙が、流れた。
「……何? 言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」
コアの様子がおかしかったのでリリィは単刀直入に尋ねた。するとコアは突然頭を下げ、驚いたリリィは目を見開く。
「悪かった」
率直に詫びるコアは彼らしくなく、リリィは眉根を寄せる。しかし頭を上げたコアの表情はいつになく真剣なものであった。リリィが返す言葉を失って口を噤むと再び、気まずい沈黙が流れる。
「……異様な空気だな」
開け放たれたままの扉の方から声が湧いたのでリリィはホッとして視線を傾けた。そこにはマイルとクロムが訝しそうな表情をして佇んでおり、リリィは慌ててベッドを下りる。
「マイル……」
「何だ?」
問い返されると言葉が続かず、リリィは黙りこむ。そのまま沈黙が続いたので見かねたコアが容喙した。
「お前さんに渡したい物があるんだと」
「渡したい物?」
コアを一瞥したのちマイルはリリィへ視線を傾ける。リリィはおずおずと、手を開いて首飾りを差し出した。
「……これは?」
問うマイルの声音は強張っていた。伝えなければならない義務感からリリィは意を決して口を開く。
「緑青が、これをマイルにって……」
「……そうか」
長々と説明がなくともリリィが意図するところは伝わったようでマイルはありがとうとだけ言った。コアは受け取った首飾りに目を落とすマイルからリリィへ視線を転じる。
「訊きたいことがあるんだが、いいか?」
リリィが頷いたのを見たコアは本題を口にした。
「陸の孤島へは、行ったのか?」
「行った、みたい。女の人に会った」
「愚者、か」
「はっきりそうだとは言わなかった。でも、たぶん」
リリィが肯定すると一同は驚いた表情をした。その余韻を引きずりながらコアが急くように言葉を重ねる。
「覚えてる分、全部聞かせてくれ」
コアに頷いたのち息を吐き、リリィはマイルを見た。セレンのことを語るには緑青の末路から話さなければならないのである。
「気がついた時、もう緑青は生きていなかった。どうしていいか分らなくて流れ着いた場所にいたんだけど、そこにその人は現れたの。セレンと名乗っていたわ」
後にセレンから聞いた緑青の本音を、リリィはそのまま伝えた。マイルは伏目がちに話を聞いていたがやがて、力なく項垂れる。マイルから視線を逸らせ、リリィは話を続けた。
「陸の孤島は昔、流れ着いた罪人を閉じこめる牢獄があったとも言ってた。島がそれを嘆いて、深い霧で覆うことによってそれ以上の死を免れようとしたらしいの」
「その辺は情報通りだな。しかし、島が嘆く? まるで生き物のような物言いだな」
独白したコアは考えを巡らせるように視線を空へ留める。コアが顔を戻すのを待ってからリリィは話を続けた。
「人間は救いを求めるときに神を生み出すって言ってた。あとは、人間は弱い生き物だって……」
「愚者は神じゃない、ってことを強調してんのかね。見た目はどんな感じだったんだ?」
リリィは陸の孤島で見たセレンの姿を思い浮かべた。
セレンは亜麻色の長い髪を陽光に煌かせ、瞳の色は澄んだ水のようであった。彼女が全身から漂わせる空気には人間とは思えない超俗さがあったが情がないわけでもない。性根の優しさを窺わせる彼女は神と言うよりはむしろ……。
「人間、みたいだった」
「人間、か……」
直接対峙していないコアには想像がつかないようでお手上げだと言うように肩を竦める。リリィもうまく説明が出来なかったのでセレンから聞いた話を続けた。
「彼らを求め続ける限り、再会することがあるかもしれないって言ってた。でもその時、何か大きな決断をしなければならないらしいの。その覚悟があるのかって訊かれた」
「決断? どんな?」
「そこまでは教えてくれなかった。たぶん、自分で考えろってことだと思う」
「……新たな発見だな。他の愚者の居場所とかは聞けなかったのか?」
リリィは無言で首を振った。
「そうか。黙示録を持ってるキールに逢えれば手っ取り早いんだがまあ、仕方ない」
余裕がなかったんだろうと言うコアにリリィは苦い表情を浮かべた。
セレンと出遭ったのがコアかマイルであればもう少し情報を引き出せていたかもしれない。そう思うとリリィの心は失意に沈んだ。
「とりあえず、俺達は今まで通りのことをしてりゃいいってことだよな?」
コアの問いにリリィは曖昧に頷いた。話が一段落したところで無表情に戻ったマイルが容喙する。
「今後はどうするんだ?」
「陸の孤島はもういいだろ。実在してることが判れば十分だ。それに、もう行けるとは思えないしな」
コアの見解を聞いたリリィは無言で同意した。あの場所はそっとしておいた方がいいと、実際に陸の孤島を見てきたリリィは思ったのである。
「また目撃情報を頼りに漂う日々の始まりだ。今後はクロムがいるから遺跡をじっくり回ってみてもいい」
コアが振り返ったのでそれまで一言も挟まず話を聞いていたクロムが口を開いた。
「オラデルヘルに行ってみますか?」
「そうだな。南はラーミラに任せて、俺達は北を行くか」
コアの一声で方針が決まり、その場は散会となった。




