第三章 流刑地の閑人(13)
緑青の遺体を白い砂浜に埋葬したリリィは改めて周囲を見回した。
水際に体を向けて望めば、その先は深い霧に包まれている。顧みると一転して、鬱蒼と茂る緑が広がっていた。目的地も定まらないまま未知の森へ足を踏み入れることは恐怖であったがリリィはなかなか動かない膝を叩いて解し、顔を上げた。
(……行こう)
この場所に居てもどうにもならないのであれば動くしかない。そう覚悟を決め、リリィは森へと足を踏み入れた。
いざ侵入してみると森の内部は予想に反して明るかった。背の高い木々が並んでいるがそれほど葉が茂ってはおらず、陽光が柔らかに射し込んでいる。しかしいつ、何が出てくるとも知れないのでリリィは気を緩めずに歩を進めた。
(何処に行ったんだろう……)
方角など初めから分からないリリィは森へ侵入してからはひたすら真っ直ぐ進んだ。しかし周囲の景色は変わらず、白いローブを纏った女も見当たらない。動物の気配を感じることも恐怖だが鳥の鳴き声すら聞こえないことは薄気味が悪く、リリィは絶えず辺りを見回しながら進んだ。
(帰らなきゃ)
緑青に託された物を、マイルに届けなければならない。その一念のみを支えにリリィは機械的に足を動かした。
道なき道を進むうちに見えてきたのは重みに耐えかねたように頭を垂れた樹木であった。近寄って見ると垂れ下がった樹に覆われるように空洞があり、リリィは眉根を寄せる。
(洞窟?)
自然に湧いてきた呟きに違和感を覚え、リリィは全体像を仰いだ。薄日の差す緑に溶けこむように佇んでいる姿は、天然の洞窟というよりは人工物に近い。
(これ、遺跡?)
ハッとして、リリィは急いで側へ寄った。蔦や苔が茂っているのは石を積み重ねた壁であり、明らかに天然のものではない。
(こんな所に人間が作ったものがあるなんて……)
まるで誘うように、内部から歌声が聞こえてきた。リリィは怯んだ心を叱咤するために一歩を踏み出し、そのまま歩き出す。
内部へ侵入して見ると完全に人工の建物である様相を呈していた。古びた石畳を進みながら壁に目を向ければ雨風に晒された石が奥へと続いている。だがその佇まいはどう見ても廃虚であった。およそ人間が住んでいるとは思われない場所に違いはなかったが、歌声は奥から聞こえてくる。
あの女が何者であれ今は彼女に頼るしかないリリィは無心で歩を進めた。しばらく進むとまばゆいばかりの光が射し込んでおり、リリィは目を細める。光に慣らすために幾度か瞬きをくり返すと、リリィの目に飛びこんできたものは超俗のような光景であった。
天井があったであろう部分は崩れ、頭上からは真っ直ぐに陽光が射し込んでいる。開けた空間には天井を突き破って降ってきたかのような巨石があり、女はその上に座していた。遠くから微かに届く水音が甘美な歌声と混ざり合い、リリィは恍惚の境地へと導かれるようであった。
神の存在を、リリィは信じていない。だがその光景は、あまりにも神々しかった。
「砂浜にいた娘か。何用だ?」
亜麻色の髪を陽光に煌かせた女は振り向きもせず、抑揚のない声で問いかける。我に返ったリリィは気圧されそうな心を奮い立たせて口を開いた。
「ここが何処なのか知りたいの」
リリィに面を向けてきた女は無表情であった。その表情は柔らかな歌声とは裏腹であり、そのことが彼女の美しさを際立てている。
「ここは陸の孤島と呼ばれる場所だ」
あっさり放たれた女の言葉にリリィは瞠目した。女はリリィの驚きなど構わず、話を続ける。
「名は何と云う?」
「えっ、あ、リリィ……です」
驚きの余韻を引きずりながらリリィはどもりがちに答えた。女は光のなかで微笑み、形の良い唇を開く。
「可笑しな娘だな。先程までの勢いはどうした?」
冷徹な無表情とは別人のような女の微笑みはリリィに戸惑いを抱かせた。直視することが恐ろしくなり目を伏せようとしたことに気付き、リリィは体を硬くしながら応じる。
「あの、貴女、名前は?」
「私か。私はセレンという」
セレンはリリィに視線を留めたまま転じようともしなかった。リリィは躊躇いながら彼女の名を声に乗せてみる。
「セレン……は、ここで何をしているの?」
「見ての通り何もしてはいない。歌っているだけだ」
気まぐれのようなセレンの歌声が光のなかに満ちる。ウォーレ湖畔で聞いていた時に感じたことが言葉となって、リリィの唇から零れ落ちた。
「悲しい歌ね」
歌声がやみ、セレンはリリィに視線を傾ける。リリィが真っ直ぐに受け止めるとセレンは仄かな笑みを口元に浮かべて話を始めた。
「娘、お前はこの島が霧に覆われる以前、どのような目的で使われていたか知っているか?」
「……知らない」
「そうか。ここは罪を咎められた人間が流され、辿り着いた島だ。罪人は獄へ堕とされ獄で一生を終える。島は嘆き、深い霧で覆うことによりこれ以上の死を免れたいと願ったのだ」
リリィにはセレンの言葉の意味が分らなかった。だが疑問を口にすることはせず、リリィは歌うように滑らかなセレンの声に耳を澄ます。
「獄に落ち、死に等しい苦痛を得た咎人は救いを求めた。人間は救いを求めるとき神を生み出す。人間とは弱い生き物だ」
「……貴女は、愚者?」
独白のように零れたリリィの言葉は届いたようではあったがセレンは何も言わなかった。しかしそれが答えであるように、リリィは感じた。
冷徹に思える無表情に戻ったセレンは再び抑揚のない声音で話を続けた。
「定められし死から逃れたいと、お前は願った。故に無傷でこの島に流れ着いたのであろうな」
セレンの言葉は意外なものであり、リリィは困惑しながら問いかけた。
「……緑青は?」
「あの者は定められし死を願った。生きることを望まない者は自ずと死へ導かれるものだ」
「何故? どうして緑青は……」
「あの者は故郷を失った。大切な、唯一で多くのものを失った。己に従いし者達のために生き長らえていたが、本当は絶望していたのだと。同じように逝けるのならば悔いはない、成すべきことは全て終わったと、そう言っていた」
詳しい事情を知らずともリリィは緑青に絶望を見た。だからこそ戦場に行くのを止めようとして、出来なかったのである。
胸に苦い思いが広がり、リリィは顔を歪める。セレンはリリィを宥めるように表情を和らげ緑青の代弁を続けた。
「お前が気にすることではない。ただ一つ気がかりなことが残っており、それをお前に成し遂げて欲しいとあの者は言っていた」
「……それが、この首飾り?」
右手に握っていたままの首飾りを一瞥した後、リリィは顔を上げた。セレンはゆっくりと頷いて見せる。
「お前は我らを強く求めた。故に私は姿を現した。我らを追い求める限り、再び相見えることもあるだろう。だが再会を果たしたのならば、その時お前は決断を下さなければならない」
「決断?」
「それは、とても重い。見たところ年端もゆかぬようだが、その覚悟は持っているか?」
セレンの表情は険しいものになっていた。しかしその言葉自体は優しさのように思え、リリィは考えこむ。
彼女の言う決断が何を意味するのか、リリィには分るはずもない。だが真実を知るために超えなければならないものであるのならば頷くしかなく、リリィはセレンを見上げて決意を示した。
リリィの意志を見届けたセレンは老齢の者のように穏やかな表情を浮かべた。
「私が言えるのはここまでだ。送ってやろう、帰るがいい」
「……ありがとう」
心の底から湧いてきた感謝を言葉に託し、リリィは眩い光に包まれ目を閉ざした。
ウォーレ湖畔で待ち続けるだけの日々が、すでに五日を超えていた。漂流物すら何もない暮れ行く湖面を見つめ、マイルは重く息を吐く。
行方を見失ったら決して戻って来ることがないと言われているウォーレ湖。初めのうちはどこかで期待を抱いていたが五日も経てば諦めが脳裏をよぎり始める。そろそろ見切りをつけなければならないと理性が囁いていたがマイルの足は根のように、地に張り付いていた。
「駄目元で船を出してみるか?」
隣に佇んでいるコアが発言をしたのでマイルは静かに首を振った。
「呑まれたら帰れなくなる」
「だけどよ、このままこうしてる訳にもいかないだろ?」
コアが口にしたことは正論であった。待ち続けることはそろそろ限界である。
目を閉じ、ゆっくりと息を吐き終えてからマイルは再び瞼を上げた。マイルは覚悟を決めるためにコアを振り返り、しかし言葉を発することは出来なかった。白い光が唐突に溢れ、マイルとコアの目を焼いたのである。
「何だ!?」
コアの慌てた声が間近で聞こえたがマイルはその姿を捉えることが出来なかった。歴戦の猛者であるコアですら対処する暇もないほどの、あまりに突然の出来事であった。
これが敵襲なら間違いなく命を落としていただろうが何事もなく、やがて光は和らいでいった。元の明るさに戻った風景に目を慣らすため、マイルは瞬きをくり返す。次第に感覚を取り戻した目が映したのはコアではない人影であり、マイルは目を凝らした。
「……リリィ?」
コアの呆けたような声を聞いたマイルは出現した者の傍に寄って顔を確認する。平素は一つに結んでいる髪が解けていたが佇んでいたのは確かにリリィであった。
「ビオリバーへ戻ろう」
コアを振り返り、マイルはすぐさま提案した。無言を貫いているリリィの様子は平常であるはずがない。
コアが頷いたので移動しようとするとリリィがマイルの腕を引いて制した。
「ごめんなさい」
突然、リリィは火が点いたように泣き出した。マイルは「ごめんなさい」の意味を捉え損ねてあ然としたがすぐに察し、周囲を窺ってからリリィに視線を留める。
「……緑青は、一緒じゃないのか?」
リリィは泣きじゃくっていて話が出来る状態ではなかった。肝が潰されそうな圧迫感を振り払い、マイルは言葉を選んで尋ねる。
「緑青は、死んだのか?」
涙に濡れながらリリィが微かに頷いた。




