第三章 流刑地の閑人(12)
歌声が耳についてリリィは覚醒した。ウォーレ湖へ着いてから空耳のように聞こえていた声が、現在ははっきり言葉として聞き取ることが出来る。だが言葉として発音されているというだけでリリィにはその意味までは分らなかった。
(何がそんなに悲しいの?)
ぼんやりと、リリィは胸中で呟いた。言葉の意味は分らずとも声音が嘆きに満ちているのである。
目を開けたリリィの視界には青い空が映った。鮮明な風景を見るのが久しぶりのような気がして、リリィは体を起こしてみる。
(……何処?)
沖の方は霧が濃く、何も見えない。遠くから視線を戻したリリィは息を呑んだ。
白い砂と透明な水を赤く染め、うつ伏せに倒れている人間。背中には大きく裂けた傷があり、肉が左右に開いていた。
「……緑青?」
リリィの方に向けられている顔は緑青のものであった。その顔は白く、固く閉ざされた目はリリィが名を呼んでも開くことはなかった。リリィはにじり寄り、緑青の肩に手を伸ばす。
「……ねえ、」
緑青の体は硬直していた。リリィは慌てて手を引き、後ずさる。
リリィは呆然と、距離を保ったまま見つめることしか出来なかった。彼女が緑青の死を理解したのは、もう少し後の出来事であった。
つい先日まで戦場であったウォーレ湖の東岸でマイルは霧のかかった沖を見つめていた。
緑青とリリィがウォーレ湖に姿を消した後、マイルとコアは白影の里の者達に撤退を告げた。赤月帝国へ戻ることは出来ないので彼らは誼のあるフリングスへ行くことになるであろう。姿は見せなかったが耒も来ていたようなので、マイルは赤月帝国を脱したサイゲートに後事を任せることにしたのであった。
国王軍の姿もなくなった現在、戦場の混乱は過去のものとなった。深い霧に包まれた湖も静寂を取り戻しつつある。
「緑青が流されたか」
背後から声がかかったのでマイルは振り返った。佇んでいたのは見知った老人であり、彼はゆっくりとマイルの隣に並ぶ。飄々とした老人の態度はひどく落ち着いたものであり、マイルは頼もしさとやるせなさを覚えながら口を開いた。
「老師……」
「お前にそう呼ばれるのは久しぶりだな」
穏やかに笑ったサイゲートは湖へ視線を転じる。マイルは老人の横顔を一瞥し、深く息を吐いた。
沈んで行方を見失ったら戻って来ないと言われるウォーレ湖。呑み込まれたリリィと緑青の生還はもう、望めないかもしれない。頭にちらつく考えが感傷を抱かせようとしており、マイルは気分を変えるためにサイゲートに話しかけた。
「これから、どうするつもりですか?」
「そうだな。しばらく国内には戻れまい」
それでもワイトやクラリスと共に工作活動を続けるつもりだと、サイゲートは言った。
大聖堂の兵もほとんどが撤退し、赤月帝国内に残っているのはわずかだという。国王は戻った妃と共に民政に力を注ぎ始めたと、マイルはすでに報告を受けていた。
「これで、赤月帝国は安定するでしょうね」
皮肉な気持ちが顔にも表れ、マイルは口元を歪める。サイゲートは静かに息を吐いた。
「白影の里も、すでにない。だが我らは一時全てを失っただけだ。時が来れば後に英雄と呼ばれる者が再び現れるだろう」
「あなたのような、ですか?」
サイゲートが祖国のために決起したのはまだ少年の頃であった。そのことを昔語りとして聞いているマイルは時代が流れれば若い力が取り戻してくれるだろうかと、未来へ思いを馳せる。
サイゲートは自嘲気味な声で答えた。
「俺は英雄などではない。自分の国すら、護れなかったのだからな」
「貴方は英雄ですよ。少なくとも、ワイトやクラリスのように貴方を慕って戦った者達にとっては」
サイゲートが笑みを零したような呼気を感じたのでマイルは横目で隣に並ぶ老人を見た。まるで年寄りのような穏やかな笑みを浮かべ、サイゲートはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺を老人だと馬鹿にするお前がそんなことを言うとはな。長生きはするもんだ」
マイルはサイゲートに向き直り力強く呼びかけた。
「生きてください。これからも」
それが、これからの支えになっていく。新しい力が生まれるまでは。マイルはそう、信じたかった。
静かに頷いたサイゲートが焼け野原へと姿を消す。何処からか見ていたらしく入れ替わりにコアが姿を現した。
「誰だ?」
サイゲートが去った後を振り返りながらのコアの問いにマイルは湖へ視線を転じながら答えた。
「サイゲートという老人だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
「先の大戦の英雄か……」
コアは敬意を秘めた口調で独白した。霧深い幻想的な光景を目の当たりにしていると胸裏に哀愁が漂い、マイルは昔話を思い出していた。
赤月帝国が大聖堂の侵略に晒されたとき国民をまとめあげ果敢に戦った人物、それがサイゲートである。敗戦の後も親身に国民の面倒を看ていたことから彼に対する信頼は篤い。今回の内乱では懸命に赤月帝国を護ってきた人物が国を追われることになったのである。時代の流れをやるせなく思いながらマイルは希望をこめて口火を切った。
「きっとまた、新しい時代が来る。その時には誰からも関与を受けずに済む世の中であってほしいな」
「同感だ」
コアの口調は常の軽いものであった。そのくらいが彼らしいとマイルは笑ったがあることを思い出し、真顔に戻ってコアを振り返る。
「そういえば、平気なのか? 大聖堂の兵を殺したりして」
コアはマイルを横目に見た後、平然として答えた。
「あの混乱だ、誰がやったかなんて判りゃしねーよ」
「そうか。すまなかったな」
「いや。俺の方こそ反省すべき点が多い」
淡々とながらもコアが謝辞を述べることは珍しく、マイルは少し驚いた。直視してはならないような気がしたのでマイルはすぐさまコアから視線を外し沖へ転じる。
リリィと緑青が戻ってくるのか、それは誰にも判らない。だが待つのをやめることは希望を捨てることであり、マイルはこの場を離れる気にはなれなかった。
白い砂浜の上でリリィは緑青の死体に縋っていた。すでに死体からは強烈な腐敗の臭いが漂っており血の臭さも判らなくなっていたが、リリィは手放すことが出来なかった。
死体に縋ったところで状況が変わるはずもない、そう理解していながらもリリィには他に為す術がなかったのである。涙も枯れ、叫ぶ気力も失せた結果であった。
「娘、いつまでそうしているつもりだ?」
不意に人の声がしたのでリリィは重い頭を持ち上げた。目眩がするほどの眩しい陽光の下、屹然と佇んでいたのは白い肌の女。亜麻色の長い髪と青い瞳が印象的な女は人間の死にも憔悴しているリリィにも驚いた様子もなく言葉を続ける。
「縋っていても死んだ者は戻って来ない。理解していながらそうしていることに何の意味がある?」
厳しい女の声は美しく透きとおっており、リリィはぼんやりと愚者の歌声を思い返していた。リリィの反応は気にせず、女は一方的に話を続ける。
「お前が縛り付けているから、その者の魂が何処へ行くことも出来ないでいる。肉体が死しても留まらなければならぬことを不憫には思わないのか?」
「え……?」
わずかに開いたリリィの唇からは意思とは関係なく声が零れた。女はゆっくりと、細い腕を持ち上げる。彼女が指した先は緑青の胸元であった。
「それをマイルという者に返してくれと言っている。それだけでいいのだと」
思考が麻痺しているリリィは言われるがままに緑青の胸元を探った。緑青の首からは細い紐が続いており、手繰り寄せたリリィは見覚えのある木彫りの首飾りを目にした。
「これ……」
それは白影の里へ出向いた時、マイルが緑青に渡していた物であった。血に汚れた首飾りをリリィが呆然と眺めていると再び女が口を開いた。
「魂が抜けた。それはもう肉の塊にすぎない。砂にでも埋めてやるといいだろう」
リリィには理解の及ばない言葉を残し、女は歩き去って行く。リリィは我に返ることも出来ず女の後ろ姿を見送った。
ウォーレ湖の畔では昼夜を問わず気まぐれに歌が流れてくる。風向きの関係なのか、それは南岸よりも東岸の方がはっきりと聞き取ることが出来た。何かを嘆くような女の歌声はアリストロメリアを連想させ、コアは小さく頭を振った。
(……ダメだな)
それは今、考えるべき事柄ではない。それよりも今は存分に反省しなければならないと思い、コアはがりがりと頭を掻いた。
(オッサンに……報告しなきゃならんかもな)
モルドからリリィを託された時、生命の保証はするとコアは大見得を切った。それを、己の軽はずみな行動で死なせてしまったかもしれないことを思えば恥にもほどがある。
(そうだよな、アイツはそういう奴だった)
まだわずかな時間しか共にしていないがコアはリリィの性格を把握したつもりであった。リリィは幾度か緑青に助けられており、恩を感じないはずはなかったのである。その恩人が自ら死にに行くような真似を黙って見過ごせるほど、リリィは大人ではなかった。よくよく考えてみればいくらでも制する機会はあったはずであるが全ては後の祭りである。
コアが判断を誤った結果、緑青まで巻き込んで最悪の事態に陥っているのである。マイルも責める言葉は吐かないが本当は罵倒したいことくらいコアには分っていた。
(やっぱ、子供の意見は素直に聞いちゃいけねーな)
煙管に火を入れようとしても湿っているため点かず、コアは仕方なくため息のみを吐き出す。生きて戻って来たならもう少し優しくやるかと、コアは一人呟いてみた。




