第三章 流刑地の閑人(10)
ウォーレ湖北の崖上からコアとマイルは眼下を見ていた。この場所は国王軍に爆破された地点なので周囲には岩が転がっており足場が悪い。
ウォーレの畔は夜になれば霧に覆われる。崖上はそれほどでもないが眼下の風景は濃霧に覆われており、国王軍の様子を詳細に観察することは出来ない。だが篝火だけは点在しているのが見てとれた。
「あの篝火が囮でないといいがな」
あからさまに嫌味であることを口調で示し、マイルは隣に立つコアへ視線を転じた。マイルの皮肉を受け流したコアは淡々と応じる。
「もう何日もここで向き合ってたんだろ? 夜になれば霧が出ることも分ってるはずだし、まず移動しねえよ」
コアの予測を聞いたマイルは腕を組みながら考えを巡らせた。
鍛えられた者達であろうとも大勢が移動するにはそれなりの時間を要する。移動途中で夜になることは避けるはずであるので撤退するのであれば明日以降とするであろう。なにより、残留している国王軍はこの場にいる白影の里の者を殲滅することが目的なのである。火器を使わせないためにも風上から動くことはないであろう。
「爆破されたおかげで岩が削れてる。道はつくりやすそうだぜ」
コアの声がしたのでマイルは思考を中断させ視線を転じた。爆破されたと思しき場所は岩が砕けて低くなっており、作戦に使用する火薬も量を減らすことが出来そうである。コアの所業が生んだ予期せぬ幸運を喜ぶべきなのかとマイルは眉根を寄せた。
「どのみち霧が晴れなければ何も出来ない。戻るぞ」
冷ややかに言い置き、マイルは足元に気を配りながら踵を返した。
不意に覚醒したリリィは瞼を上げた。目に映った霞んだ風景は屋外のものであり、リリィはゆっくりと上体を起こす。
「起きられるのか」
声をかけられたのでリリィはぼんやりと視線を傾けた。焚き火の側には緑青の姿があり、リリィは目を瞬かせる。
「痛みはないか?」
「ああ……うん、大丈夫みたい」
指や腕を動かして確認をするリリィを見た緑青は呆れたような顔をした。
「薬が効きやすい体質なのかもしれないな」
相槌を打ちながらリリィは体勢を立て直した。足を折って座りなおしてからリリィは緑青を見つめる。
「また、助けてもらったのね。ありがとう」
リリィが畏まると緑青は小さく笑みを浮かべた。
「親切で助けた訳じゃない。気にするな」
「……そうね」
少なくとも一度目は、誘拐されたのである。そのことを思い返したリリィは素直に頷いたのだが緑青は吹き出した。
「マイルに説教をしたと聞いたが、目に浮かぶな」
「別に、説教したつもりは……」
「ありがとう。これで心おきなく戦える」
緑青の口調は軽やかであったがひっかかりを覚えたリリィは眉根を寄せた。
「心おきなくって、どういう意味?」
緑青は答えず、手折った枝を火に投げる。沈黙が訪れたのでリリィは改めて周囲の状況を確認した。
「……他の人たちは?」
眠りに落ちる前のリリィの記憶では、コアやマイルを含め数人がいた。だが今は、丸まって眠っているクロムの姿があるのみであった。
「コアとマイルは偵察だ。すぐ戻って来るだろう」
答えたきり緑青は再び口を閉ざす。小さな火に揺れる緑青の顔を見たリリィの胸はざわついた。
「……ねえ、」
「何だ?」
呼び声に応えた緑青は真顔であった。付き合いが短いのでリリィには平素というものが分らないが、緑青の様子は静かすぎる印象を与える。具体的な言葉にはならなかったがマイルが懸念を抱いているのは彼のそういった表情なのではないかと、リリィは思った。
「戦、やめられないの?」
刹那、緑青は剣呑な瞳をリリィに向けた。だが緑青はすぐ視線を逸らしたのでリリィは真っ直ぐに見据えたまま話を続ける。
「緑青が戦ってるのは国のためなんでしょう? でも、それってそんなに大事なことなの? あなたが死んだら悲しむ人がすぐ傍にいるじゃない」
「言いたいことは分る。だが戦をやめる訳にはいかない」
「どうして? マイルより国の方が大切なの? 友達なんじゃないの?」
「命を賭して戦うことが選んだ道だからだ。例えこの戦で命を落とそうとも、悔いはない」
「……死にに行くっていうこと?」
緑青は答えなかった。沈黙を肯定と受け取ったリリィは語気を荒げる。
「やめてよ! 冗談じゃないわ!!」
死ぬことを厭わないと言ってのけた緑青には他人を思いやる心が欠けている。そのことがリリィには許せなかった。
「大切な人にいなくなられる側の身にもなりなさいよ! マイルの気持ちも考えろ!!」
緑青を思い止まらせようとリリィは率直な言葉を重ねた。座していた緑青は音もなく立ち上がり突如、リリィの首に手をかける。頚動脈を指で圧迫されたリリィは顔を歪め、呻き声をもらした。
「すまないが眠っていてくれ」
リリィが囁きのような声を聞いた頃には緑青の冷徹な真顔は霞んでいた。緑青のやり方をリリィは卑怯だと思ったが意識が途切れたため言葉にはならなかった。
斥候を終えたコアとマイルは火を焚いている場所へと戻った。そこには緑青の姿しかなく、コアは首を傾げた。
「他の連中はどうした?」
「別働隊への指示にやった」
その後は爆破予定地で合流するのだと緑青は言う。火の側に腰を下ろし、コアは見てきたままを報告した。
「一応注意して見てみたが斥候が出てる感じはなかったな。まあ出てたとしても、この霧じゃ足止めくらってるだろ」
「……戦歴の差、か」
緑青が呆れたように零したのでコアは口元だけで笑った。
大聖堂の軍人から成る国王軍は精兵ではあるが隠密行動には向かない。そういった意味でコアが異質であると、緑青は言ったのである。
「ま、後はお前さん次第だな」
「十分だ。ここからは俺達だけでいい」
感謝を示しつつもはっきりと、緑青は拒絶した。コアはマイルを振り返り判断を委ねる。迷いを見せながらもマイルは頷いて見せた。
緑青はマイルの肩に手を置き、その後霧の中へ消えて行った。静寂を取り戻した川辺では水音が静かに響き、コアはマイルに顔を向ける。
「いいのか?」
「俺は赤月帝国の人間じゃない。内乱に口を出すのもここが限界だ」
マイルの口調は平素に戻っていたが、それは装っているに過ぎなかった。コアは小さくため息を吐き、横たわるリリィを顎で示す。
「また、怒られるぜ」
リリィを一瞥した後、マイルは諦めたように首を振る。
「もう、十分だ」
マイルが緑青と同じ科白を口にしたのでコアは返す言葉を失って黙りこんだ。




