第三章 流刑地の閑人(9)
間もなく夜を迎える川べりを下流へ向けて歩きながらコアは水面に目を注いでいた。しかし落日と共に格段に狭まったコアの視野には人影のようなものは映らない。
ウォーレ湖の北を流れる川に落ちた後、コアはクロムの救出に成功した。だがリリィの姿は見当たらず、服を乾かす間も惜しんで捜索を続けているのである。
(まいったな。何処まで流されたんだ?)
完全に日が暮れてしまえば捜索を続けることが出来ないので悠長に頭を掻きながらもコアは焦りを覚えていた。
川の流れは比較的穏やかである。それでもなかなか発見出来ないということは沈んでしまった可能性も高い。だが爆発に巻きこまれていれば確実に命を落としていたのでコアは己の選択が誤っていたとは思わなかった。しかし、初めからリリィとクロムを置いてコアが単独で行動していれば避けられた事態であることも確かである。
(……まずいな)
もしリリィが死んでいればコアの過失は多大である。まずモルドに二度と顔向け出来なくなり、マイルには愛想を尽かされ、カレンというリリィの友人にはそれこそ殺されるであろう。
コアが血の気の引く思いを味わっているとクロムが冷静に声を上げた。
「誰かが火を焚いてますね」
コアは川面から視線を転じ、クロムが顔を向けている方を顧みた。そこにはクロムの言う通り、小さな灯りが窺える。
「偵察隊を出されたかもしれないな。ちょっと待ってろ」
クロムをその場に残し、コアは足音を殺しながら進んだ。しかし案ずる必要はなく、火の側には緑青とリリィがいるだけであった。
「後ろを向け。この娘に失礼だ」
コアの姿を一瞥した緑青は驚いた様子もなく言い置き、再びリリィに視線を転じる。手当てのためかリリィは肌をさらけ出しており、コアは素直に従った。
「せっかく離れた場所に来たのに、お前に見られたんじゃこの娘も可哀相にな」
緑青が独白のように放った言葉を耳にしたコアは苦笑する。
「子供の体なんか見たって何とも思わねーよ」
「遊び人の科白だな」
「おいおい、よせよ」
「もう少し慎重に行動しろ。水から引き上げた直後は息が止まっていたぞ」
軽口を終わらせた緑青の言葉にコアはぞっとした。運良く助け出されていなければ、今頃リリィは死んでいたであろう。
(……脆いな)
苦く、コアは息を吐く。そして少し、認識の甘さを反省した。
「もういいぞ」
緑青の言葉を受けたコアは真顔をつくって振り返る。リリィは緑青の仕事着を身につけており、その白さが顔色の悪さを助長させていた。だがリリィの容態とは別のところに引っかかりを覚えたコアは軽く眉をひそめる。
「大事な物なんだろ、いいのか?」
白装束は白影の里の戦力である証であり、闇討ちでさえ彼らは着用する。コアの問いかけに緑青は口元だけで笑った。
「形振り構っていられないんだ」
「……そうか」
誇りそのものである白装束をも捨て、緑青は戦おうとしている。その悲壮な覚悟をコアは少し、哀しいと思った。
「打ち身がひどい。薬はぬっておいたがしばらくは安静にさせることだ」
緑青に頷き、コアはリリィの傍へ寄る。リリィは目を閉ざしたままぴくりとも動かなかった。顔を上げ、コアは緑青に問う。
「一度も意識は戻ってないのか?」
「ああ。無理もない」
「そうか……」
「マイルが怒っていたな」
「は?」
唐突な緑青の言葉に驚いたコアは瞠目した。コアの反応がおかしかったようで緑青が低く笑い声を零す。
「お前、殴られるかもな。覚悟しておいた方がいい」
「……マジで? ってかアイツ、どうしたんだ?」
「変わったみたいだな、少し」
呟く緑青の顔が焚き火の小さな灯火に揺れる。コアは眉根を寄せながら腕を組んだ。
「説教がそんなに堪えたのか?」
「説教?」
独白を聞きつけた緑青が興味深げに窺うのでコアはリリィに目を移した。
「この娘っこに説教されたんだよ。意地を張るな、ってさ」
「なるほど。それでか」
柔らかな笑み浮かべてリリィを一瞥した後、緑青は立ち上がった。
「向こうにマイル達を待たせてある」
「ちょっと連れに声かてくるわ。先、行っててくれ」
緑青に束の間の別れを告げ、コアは元来た道を引き返した。
リリィの手当てのために少し離れた場所へ行っていた緑青が戻って来た頃には日が暮れていた。ウォーレ湖から立ち込めた霧が周囲を覆っているため作戦は延期である。
「コアに会ったぞ」
リリィを火の傍に横たわらせた緑青が平然と言う。マイルは怒りを堪え、平然を装って頷いた。
「そうか。今は?」
「連れを呼びに行くと言っていたな」
「連れ?」
マイルが眉根を寄せると霧の中からコアとクロムが現れた。
「よお。悪かったな」
たいして悪びれた素振りもなくコアが言い放つのでマイルは渋面をつくった。
「ラーミラさんも一緒なのか?」
「いや。こいつだけ貰ってきた」
コアはクロムが同行することとなった経緯を簡潔に説明し、その後敵陣の様子と爆発に至るまでを語った。
「やってくれるぜ。けっこう距離は置いてたんだけどな」
ため息混じりに頭を掻くコアから視線を転じ、マイルは無言で話を聞いている緑青を一瞥した。意図を汲んだように緑青が頷いたのでマイルは再びコアへ向かう。
「それは、おそらく王妃だ」
「へえ。あれが……ね」
「顔は確認したんだろ? 大聖堂の人間だったのか?」
「いろいろ所属が分かれてんだよ。俺は見たことない奴だった」
「そうか。コア、ちょっと来い」
緑青にも聞かせなければならない話が終わったところでマイルは立ち上がる。コアは途端に渋い表情をつくり、しかし文句は言わずに従った。
「……怒ってるのか?」
火を焚いていた場所から遠ざかり緑青の姿が見えなくなったところでコアが声を発する。コアの態度はいつになく控えめではあったがマイルは無表情のまま振り返った。
「ああ」
マイルが短い返答で怒りを表すとコアは口を噤んだ。皮肉をたっぷり含ませ、マイルは口元を歪める。
「お前のせいで作戦は一時中断、しかも捜索隊を出されただろう。こちらがどういう動きに出ようとしているのかも全て読まれたかもしれない」
反論もせずコアが黙って聞いていたのでマイルは雑言を続けた。
「大事な預かり物とはよく言えたものだ。たまたま緑青が見つけてくれたからいいようなものの、あのまま流されていたら確実に死んでいたぞ」
そのことはコアも一度は考えたであろうが今回のことは反省するだけでは足りない。マイルは荒々しくコアの胸倉を掴み上げた。
「もう少し後先考えて行動しろ」
大人しく身を委ねているコアは、しかしまっすぐに視線をぶつけてきた。そのまなざしは強気であったが傲慢さは感じなかったのでマイルは手を離す。
「お前もさすがに懲りただろうからこれ以上は言わない。緑青に感謝するんだな」
「……ああ」
「言っておくが、恩返しのつもりで手を出したりするなよ。これは赤月帝国と大聖堂の戦いなんだからな」
マイルが釘を刺すとコアは真顔に戻った。
「ダメか?」
「駄目だ」
考えていたらしいコアにマイルはきっぱりと拒絶を示した。見付からないようにやればいいなどという次元の話ではないのである。
コアは完全に諦めた様子ではなかったがひとまず頷いて見せた。
「リリィが目覚め次第、俺達は仕事に戻る」
「あの子を殺す気か、お前?」
「安静に、か。じゃあ、どうすればいいんだ?」
「落ち着ける場所でしばらく休ませてやれ」
「……わかった」
煮え切らないコアの返事を聞き流し、マイルは踵を返した。
自分の呻き声でリリィは目を覚ました。全身が鉛のように重く動かなかったが開けた視界には知った人物の姿が映っていた。
「気がついたか」
この相手には、いつかも同じ科白を言われたような気がする。そう思いながらリリィは緑青を見つめた。
「調子はどうだ?」
「……体、動かないんだけど」
リリィが不服をそのまま口にすると緑青は笑ったようであった。
「体は二、三日もすれば動くようになる。それだけ文句が言えれば大丈夫だろう」
「それ、ちっとも大丈夫って言わないんじゃないの?」
「全身をひどく打ったそうです。仕方ないですよ」
不意に第三者の声が降ってきたのでリリィは顔を傾けた。焚き火を前にクロムが座しており、リリィは眉根を寄せる。
「クロム?」
「覚えてますか? 川に落ちたんですよ」
「ああ……」
クロムに曖昧に頷きながらリリィは顔を戻す。目を閉ざすと次第に腹が立ってきたのでリリィは歯噛みしながら瞼を押し上げた。
「コアは?」
「マイルさんと話をしに行っています」
「どうりで。妙な組み合わせだと思った」
行き場のないリリィの皮肉を浴びたクロムと緑青は苦笑のように息を零す。リリィは苛立ったが彼らが悪い訳ではないので押し黙る。リリィが沸々と湧いてくる怒りを感じているとやがて張本人が姿を現した。
「よお。目が覚めたか」
コアが悪びれた素振りもなく声をかけてきたのでリリィは反射的に上体を起こした。
「あんたねえ!」
リリィに怒気をぶつけられたコアは目を見張る。リリィは構わずコアの胸倉を掴み上げた。
「お、おお、それだけ元気なら大丈夫そうだな」
「大丈夫じゃないわよ!!」
怒りに任せて叫んだ途端、リリィは目眩に襲われた。己の意思ではどうにもならず、体が傾く。
「無茶するな」
目の焦点が合った時、リリィにはマイルの顔が見えた。マイルはゆっくりと、リリィの体を横たわらせる。
「これ、本当に絶対安静なのか?」
「そのはずだが……」
コアと緑青の呆れたような声が聞こえてきたがリリィには再び体を起こす気力はなかった。




