第三章 流刑地の閑人(8)
霧深いビオリバーの町でコアは地図を眺めながら煙をくゆらせていた。
ウォーレ湖の東岸で繰り広げられているのは大聖堂の内乱であり、赤月帝国で白影の里が滅びたことは調べずともコアの耳に届いていた。コアがマイルを通して伝えた戦術を緑青が実行するかはともかくとして、そろそろ勝敗は決するはずである。見届けておくのも悪くないと思い、コアは腰を上げた。
「よし、出掛けるぞ」
コアが告げるとリリィとクロムは同時に振り返った。
「何? 突然」
リリィが訝しげな表情をしたのでコアは笑みを浮かべて答えた。
「こっちに来てからろくに運動もしてないだろ? 少し体を動かしてもらう」
コアが何をしようとしているのか察したらしくリリィの顔が歪む。クロムも顔を引きつらせながら口を開いた。
「戦場に出向くんですか?」
「どこもかしこも戦場だ。少し慣れておけ」
場慣れというものはいかなる場合であっても不必要なことはない。いざという時のためにもリリィとクロムには戦場を見せておいた方がいいとコアは目論んでいた。
コアの意図するところは伝わったようであったがリリィとクロムは硬直したまま、しばらく動きを止めていた。
明け方、霧深いウォーレ湖の畔に耒が姿を現した。人伝に報告は受けていたが本人に会うのは久しぶりであり、マイルは硬い表情のまま耒を迎えた。
「国内の様子はどうだ?」
「白影の里の壊滅で国民は衝撃を受けています。男達でさえ、戦う意志を失ってしまったようです」
赤月帝国の軍事を担ってきた白影の里は対国王戦における国民の拠り所であった。それが壮絶な姿を晒して最期を遂げれば戦意を喪失してしまうのは無理もない話であると、マイルは冷静に受け止める。
「老人達はどうしてる?」
「今はまだ国民に働きかけていますが、効果はないようです」
「そうか。まあ、しばらくは何を言っても無駄だろう」
無駄だと解っていても新王と国民の間に信頼関係が芽生えてしまってからでは遅いのである。サイゲートは手遅れにならぬうちにと必死になのだろうが国民はもう動けないであろう。そのことが分かるだけにマイルはため息をつきたかったが堪え、話を続けた。
「逃げられなくなってしまえばそれこそ全て終わりだ。そう、老人達に伝えてくれ」
「己の身が今の状況においてどれほど重要なものか、老師は解っていると思いますが」
「さすがは先の大戦の英雄、といったところか」
口うるさいサイゲートの顔を思い浮かべ、マイルは皮肉に口元を歪めた。
サイゲートは先の大聖堂との戦を経験している貴重な人物である。親身に世話をすることから国民の信頼も篤く白影の里を失った現在、赤月帝国にとって欠かせない人物となっている。勇敢なことは彼の特性である。だが使いどころを違えてもらっては困ると、マイルは耒を見据えた。
「いくら解っていても体の方は年寄りなんだ」
「……怒られますよ。でも、心に留めておきます」
笑みを見せ、耒は踵を返す。小柄な耒の姿が霧に紛れてしまうまで見送り、マイルは緑青の元へ戻った。
「耒は何だって?」
顔を合わせるなり緑青がそう尋ねたのでマイルは苦笑した。質の落ちた白影の里の者より現在では耒の方が優秀な間者であるかもしれない。
「老人達は無事だそうだ。まだ国内で粘っているらしい」
「心強いことだな。だが無駄だろう」
「ああ。効果はないようだ」
今は何を言っても聞き入れないかもしれないがこの戦に勝利すれば、少しは風向きも変わるであろう。希望的観測ではあるがマイルも緑青もそう思うしかなかった。
緑青が地図に目を落としたのでマイルも従った。
「とりあえず、第一陣を向かわせた」
水攻めの場合、相手が武装していた方が効果的である。川の流れを変える前に幾度か奇襲を仕掛け警戒させた後に水攻めを行う、マイルの戦術を聞き入れた緑青はそういった計画を立てていた。
「うまく、いくといいな」
ここから先は緑青の仕事でありマイルに出来ることは何もない。せめて祈るだけでもという気持ちをこめ、マイルはそう独白をした。
忙しなくビオリバーの町を出発し、リリィは息を切らせながら先を行くコアを睨みつけていた。
コアは戦場であるウォーレ湖の東岸を大きく迂回して北上した。しばらくは大陸を縦断している川に沿って進んでいたがやがて西に進路を変え、現在は東に川を臨みながら足場の悪い岩山を歩いていた。コアには容赦というものがなく、移動は昼夜問わずの強行軍である。まともな休息ももらえず歩き続けたリリィの体はとっくに悲鳴を上げていた。
(これが運動、ね)
悪態をつくくらいしか疲労を紛らわせる術がなく、リリィは胸中で毒づく。体力づくりにと朝方走っていたことがどれほど無意味であるのか、リリィは平然と先頭を行くコアを見てつくづく思い知らされていた。
「よし、休憩」
コアがようやくその科白を吐いたのは太陽が沈み始めた頃合であった。リリィはすぐさま膝をつき、クロムも倒れるように腰を下ろす。
「だらしねえな。これしきのことでへばるなよ」
眉根を寄せながら言ってのけ、コアはどこかへ行ってしまった。
(……アンタがおかしいのよ……)
膝をつくなり地に伏してしまったリリィは本気でそう思った。コアを見ていると人間には体力の限界というものがないのではないかと錯覚を起こしてしまいそうである。
「……博士よりすごい人、初めて見ました……」
苦しそうに喘ぎながらも言わずにいられないといった口調でクロムが零す。リリィはもう、頷くことすら出来なかった。
北に件の川、南に国王軍の拠点という目的地に達したのでコアは周囲を窺った。緑青がマイルから聞いた作戦を入れたのであればこの辺りが爆破予定地であろうが、まだ人影は見当たらない。
(まだ来てねえのか……)
緑青は十中八九、マイルの提案を受け入れる。そうコアは読んでいたのでまだ到着していないのだと結論づけた。耳を澄ましてみても川の音しか聞こえなかったのでコアは国王軍の様子を窺うべく崖端に向かった。
国王軍はウォーレ湖を背に扇状に広がった陣形を組んでいた。湖に近い狭まった後方には指揮官がいると思われる本営があり、コアは目を凝らす。大聖堂の軍服を纏った若い女の姿がコアの目に留まった。
(……見ない顔だな)
大聖堂の軍事部は能力主義であり女が在籍していることもある。コアが目にした女は腰まである黒い髪が印象的であり、一度でも見たことがあれば忘れないであろう。ましてコアは軍事部に籍を置いていたこともあるので戦が巧い者ならば尚更である。
コアが調査部に転向してから採用された者なのかもしれないと思いを巡らせていると不意に、女が顔を上げた。女の黒い瞳は射抜くようにこちらを見据えており、コアは舌打ちをして踵を返す。距離は置いているが逃げた方がいい、そう察したコアが転がっているリリィとクロムに声を掛けようとした刹那、空を切る音と共に矢が飛んできた。
「何!?」
リリィが叫ぶように声を上げ、身を起こす。コアは姿勢を低くしてリリィに近寄り、その頭を下げさせた。
「見付かった。移動するぞ」
短く告げ、コアは有無を言わせず歩き出す。切迫した空気を察したリリィとクロムは慌ててコアの後を追った。
「見付かったって、誰に?」
「大聖堂の奴。えらく目がいいぜ」
リリィに答えながらコアはさらに歩を早める。平静を装っていたが久しぶりの緊迫感がコアの血を躍らせていた。
(あの若さでこの俺に喧嘩を売るとはな。いい度胸だ)
敵ならば、コアは女であろうと容赦はしない。だが今は手を出す訳にいかないのでコアは黙々と歩いた。しかしいくらも進まないうちに風に乗ったかすかな臭いが鼻につき、コアは慌てて振り返る。
「伏せろ!!」
怒声を上げるとともにコアはリリィとクロムを押し倒した。後方では岩が轟音を響かせ砕け飛ぶ。粉塵が舞うなかコアは舌打ちをしながら起き上がった。
「おい、俺が悪かった。今から川に落ちるけど死ぬんじゃねーぞ」
先に謝っておいてからコアは放心状態のリリィとクロムを崖端から突き落とした。ウォーレ湖の北を流れる川は水深があるので死ぬことはないであろうと計算をしつつ、コアは粉塵で見えない国王軍を顧みる。
「覚えてやがれ」
吐き捨てた後、コアも川へ飛び込んだ。
第三次の奇襲隊を国王軍の陣営に向かわせてからマイルは緑青と里の者数人と共に爆破予定地へと向かっていた。この小隊は水攻めの後、崖を下って残党狩りへ向かうこととなる。
突然轟音が鳴り響いたのは、件の川を東に臨みながら西進している最中の出来事であった。マイルが息を呑む間に緊迫感が漂ったが何事もなく、やがて緑青が表情を改める。
「……川上からだな」
緑青が川上へ視線を転じたのでマイルも追った。しばらくすると上流から何かが流れてくるのが窺えたのでマイルは目を凝らす。
「人、か。助けてやれ」
漂う物体が何かを確認した緑青が部下に指示を出す。緑青の部下が川へ飛び込んだのでマイルたちは崖を下って後を追った。
到着と同時に助け出された人物を見たマイルは瞠目した。岸へ上げられた人物はイエローブラウンの髪をした見慣れた少女であり、マイルは呆然と立ち尽くす。
「息が止まっているな」
リリィの状態を確認した緑青が人工呼吸を開始した。マイルは錆色の髪をした男の顔を思い浮かべ必死で目眩を堪える。
「火を」
緑青の冷静な声で我に返ったマイルは横たわるリリィを覗きこんだ。膝立ちになっていた緑青が立ち上がり、静かに口火を切る。
「水に落ちてすぐ気を失ったんだろう、ほとんど水は飲んでいなかった。ただ、体温が低下している。打ち身もひどいな」
「……すまない」
押し潰されそうな罪悪感を抱え、マイルは目を伏せる。だが緑青は明るい声音で応じた。
「お節介な奴のことだ、来ているだろうと思っていた」
緑青は気にするなと言ったがマイルは申し訳なさに顔が上げられなかった。




