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第三章 流刑地の閑人(7)

 白装束に身を固めた海雲(かいうん)は自宅の縁側に座していた。覆面をしていない彼の顔には険しさがあり何人であろうとも近寄りがたい重厚さを漂わせている。

 赤月帝国の由来ともなった紅い月は、今宵も虚空に浮かんでいる。己の命運を賭す戦を前に海雲は平和を奪われた遠い日の出来事を思い返していた。

 戦に破れ、赤月帝国が大聖堂(ルシード)の属国となってから五十年余り。長かった闘いの日々は時代の波に押され終焉を迎えようとしている。だが存在理由も大切な人も失った現在、海雲には悪いことではないように思われた。

 しかし彼は諦めて身を委ねた訳ではない。友の言ったように老いても成せる何かがあるはずだと、海雲は静かな心で閉ざしていた双眸を開いた。

「……来て、くれたのだな」

 すぐ傍らに佇む白い人影に向け、海雲は語りかける。その女は陶器のような白い肌に絹糸のような金の髪、透きとおった水のような碧眼という五十年前と変わらぬ姿で佇んでいた。

 顔を傾けた海雲へ、女も表情のない面を向ける。白雪のような女の顔は深い嘆きを湛えており、それは五十年という歳月を経てもなお海雲には理解の及ばぬ代物であった。彼女に伝えなければならない答えのため、海雲はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「あの日、お前は言ったな。俺も友も、死へ向かう流れに逆らうことが出来ないと」

 大聖堂との戦の折、海雲は当時の第一王位継承者と共に和解交渉のため敵地へ赴いた。だが彼女の予言通り、王子は死へ向かう流れに逆らうことが出来なかった。唯一の男児を失ってしまった赤月帝国はその後、西の大国フリングスから王子をお迎えして王家の血筋を保ったのである。

 何故、己だけ生き長らえたのか。何故、次々と大切な人が逝くのを見送らねばならなかったのか。友であった王子を失った時から、海雲は考え続けてきた。

人間(ひと)は誰しもいつか死ぬ。求めていた答えはそんな当たり前のことだったのだ。だが何かが俺を生き長らえさせたと言うのなら、それは今、この瞬間のために」

 どのように語りかけたところで女の表情は動かない。だが彼女の無表情の下には深い哀れみがあることを、海雲は感じていた。

 顔を戻した海雲は一度、ゆっくりと瞼を下ろす。変わらぬ静寂だけが一時、時間を止めているようであった。

 かつて、白影の里は赤月帝国の軍事を一手に担ってきた。だが迫りくる国王軍を退ける力はもう失われている。再起の可能性に縋るのであれば亡命するしかないが年老いた海雲にはそれほどの時間は残されていない。

(屈しは、しない)

 目を見開き、海雲は女の姿を焼き付けた。死しても尚、忘れないために。己の生きた証を、女の瞳にも焼き付けておくために。

「例えお前が神と呼ばれる存在であろうと、俺は救いを求めない」

 永遠を生きる女には人間(ひと)の世の愚かさなど見慣れたものであるだろう。彼女には一人の人間の死など露ほどの価値もなく、だが静かに悼んでくれるに違いない。

「見るがいい。これが白影の里の棟梁として生きた、俺の最期の戦だ」

 遠いあの日に涙を流してくれて、ありがとう。その言葉は告げずに海雲は短刀を抜いて立ち上がった。









 ウォーレ湖にほど近いビオリバーの町では夜になると霧が深くなる。外出するのはやめた方がいいとクロムに言われたのでリリィは窓から外を眺めていた。何処からともなく今宵も、歌声が聞こえてくる。

(何がそんなに哀しいの?)

 リリィが顔も分からぬ歌い手に尋ねてしまうほど、その音色は澄んでいた。

 霧が拡散した月光を浴びながらリリィは天を仰ぐ。歌声はまだ聞こえてきていて、感傷的な気分になったリリィは意味のないため息をついてみた。

 視界の片隅に影を捉えたような気がしたリリィは何気なく視線を傾ける。宿の裏手に佇んでいたのはコアであり、彼はリリィに気がついて顔を上げた。

「よお。いい月夜だな」

 コアはビオリバーの町に着くなり姿をくらませていた。何処で何をしてきたのか疑問はあったがリリィは別の返事を投げかける。

「月は嫌いなんじゃなかったの?」

「あんまり好きじゃないかもな。キレイだとは思うけど」

 一度応じたきりコアは黙り込んだ。コアの煙管から立ち上る煙が濃霧に溶けていったのでリリィは再び天を仰ぐ。朧な月が虚空に浮かんでいた。

(星、見えないな……)

 平坦な地で深い霧がかかっていたら何を目印に方向を定めるのか。マイルが戻って来たら聞こうと思い、リリィは窓を閉じた。









 ウォーレ湖の畔では、夜な夜な歌声が響いている。風に乗って届く女の声に感傷を抱きながらマイルは緊迫した空気の内に身を置いていた。

「予定通り行う」

 緑青(ろくしょう)の言葉を、その場にいた誰もが沈黙したまま受け入れた。堅い表情のまま一人、また一人と去って行く。最後の人影が消えるまで見送ってからマイルは緑青の傍へ寄った。

「少し、飲まないか?」

 緑青の誘いにマイルは頷いた。隠しておいた最後の一本だという酒を開け、お互い言葉もなく杯を重ねる。

「……里が落ちたらしい」

 先刻受けたばかりの報告をマイルが口にした時には、すでに瓶の半分以上が空になっていた。緑青も短く頷いただけで、また杯を重ねる。

 主戦力が出払っているにもかかわらず白影の里は最後まで抵抗を続けたが結果は、初めから判りきっていた。生命ある者は殺し尽くされ血の海のなか生き残った者は一人もいなかった。棟梁である海雲(かいうん)の首は市中に晒され、彼岸の森も焼かれ、この場にいる者達は還る場所を失ってしまったのである。

「老師達は無事なのか?」

 緑青は常と変わらぬ口ぶりで問う。マイルもまた、胸裏に渦巻く感情を押し殺して頷いた。

(るい)がついてる」

「そうだったな」

 この戦に勝てば希望は見えてくる。今はそう思うしかなく、マイルは静かに杯を置いた。

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