第三章 流刑地の閑人(6)
日中でも深い霧がたちこめるウォーレ湖は朝ともなると一寸先も見えない状態となる。湖に落ちないよう足元に気を配りながら、マイルは東南の湖畔で歩みを止めた。
東の湖畔では赤月帝国の国王軍が宿営している。濃霧とはいえ歩哨がいてもおかしくない距離なので、マイルは慎重に背後を振り返った。
「足元に気をつけろよ。湖に落ちた死体は上がらないぞ」
まだ人影は見えないが届いたのはおよそ軍人とは思われない軽い調子でありマイルは短く息を吐いた。霧の内部では唐突に出現したように見える人物へ向け、マイルは非難を込めた視線を投げかける。
「すごい霧だな。これじゃ調査船を出せないのも頷ける」
湿気を含んだ錆色の髪を掻き上げながら、コアはマイルの隣に並ぶ。コアの口調が常と変わらないものであったのでマイルは冷徹に返した。
「ここに来るのは初めてか?」
「いんや。前はこれほどひどくなかったけどな」
「……何をしに来た?」
「陸の孤島の調査」
沖であろう方角を眺めながらのコアの科白を、マイルはまともに受け取らなかった。白々しいにも程があるがコアは平然と続ける。
「リリィが歌声を聞いたって言うんだが、お前も聞いたか?」
「ああ。夜になると沖から聞こえてくる」
「陸の孤島の愚者が歌ってんのかね?」
「さあな。沖はあの通り霧まみれだ。あれは昼も晴れない」
「幾つか目撃情報を辿ってみたんだけど、てんでダメだな。この際、沖へ船を出す方法を考えた方がいいくらいだ」
「やめておけ。死ぬぞ」
「怖いねぇ。ついでにえらく弱気だな」
「……白影の里が消える」
マイルが本題を切り出すとコアもおどけた調子を改めた。真剣に耳を傾けている気配を察し、マイルは一つ息を吐いてから話を続ける。
「ここも長くは続かないだろう」
「押されてんのか?」
「敵は湖を背に陣を組んだまま微動だにしない」
「長期戦覚悟ってことか」
「悪いことに輸送路を断っても敵の食料は尽きない。国王が帰還した今、残存している兵は多くないうえ国王軍のすぐ後ろには豊富な食料庫があるからな。対する白影の里は国からの補給もままならない。攻めるしかないんだ」
「いつだ?」
「明日にでも、そう言っていた」
決死戦という言葉を思い描きマイルは胸苦しくなった。しかしコアは冷静に、感慨もなく口を開く。
「一つ、いいこと教えてやるよ。ここにいる大聖堂の兵は各地から集められた選りすぐりだ。だが所詮は俄仕込みの集団、一度混乱させちまえば崩すのは容易い」
コアはかつて大聖堂の軍事部に所属していたことがある。その彼が言うのであれば情報の信憑性は厚い。だがマイルは首を振った。
「白影の里にはもう、ほとんど戦力がない。そして、時間もない」
「時間がないと思いこんでるだけだろ? ったく、お前も緑青もらしくない」
がりがりと頭を掻くコアを、マイルは真顔のまま振り返った。
「俺は軍人じゃない。その辺りのことは頭が回らないんだ」
「いいか、頭数なんかなくたって出来る事はいくらでもあるんだよ。もっとよく地図を見ろ。風が使えなくたって奴らの背後に最大の武器があるだろ」
国王軍の背後にあるものは……そう、マイルは思考を巡らせた。
(……水?)
コアはおそらく白影の里の現状を把握している。その上での苦言をどう解釈したものか、マイルはさらに思案した。
(人手もない、船で背後を突くでもない。だとすれば……)
一つだけ思い当たることがあり、マイルは非難の視線をコアへ送った。
先の戦の折、大聖堂は赤月帝国唯一の水源に毒を混入することで赤月帝国を服従させた。その時のように湖に毒を入れろということであれば信じがたい暴言である。マイルはそう思ったがコアは世間話のような口調で話を始めた。
「東岸の林は随分焼けちまったらしいな。上手から大水でも出れば大地も潤うんじゃないか?」
「……大水?」
「連中、さぞかし水泳がしたいようだぜ」
コアの言葉はあまりに抽象的でありマイルには理解が及ばなかった。もう一度地図を見るよう促したのち、コアは何事もなかったかのように去って行く。
(……地図?)
マイルは首をひねりながらも急いで踵を返した。
ウォーレ湖南岸の町、ビオリバーの宿屋で朝を迎えたリリィはクロムと二人で遅めの朝食を取っていた。この町は南方諸国連合の領土であるが交易が盛んな土地であり様々な場所から人が集まって来る。
「商人に国境はないんですよ」
クロムの話を聞きながらリリィは曖昧に相槌を打った。ふと逸らした視線の先には活気があり、リリィは物思いにふける。
(荒野の人たちも、こんな風に暮らせたらいいのに)
荒野に住む人々から笑顔を奪ったのは戦争である。そう考えると怒りが湧いてきて、リリィは話を逸らした。
「ところで、オラデルヘルって何処にあるの?」
急に話題を変えたリリィを訝ることもなくクロムは説明をした。
「ウォーレ湖が左目と呼ばれているのは知ってますよね? オラデルヘルは右目に浮かぶ娯楽施設です」
「娯楽施設?」
「人々が楽しむための場、のような意味合いですかね。なかなか行く機会はないと思いますけど」
「どうして?」
「裕福な人向けの場所ですから。お客さんの大半はどこかの国の貴族や王族ですね」
「……なんだか、」
眉根を寄せ、リリィは言葉を途切れさせる。しかし胸中ではいい身分ねと毒づいた。
コアから得た情報に基づき地図を見返したとき初めて、マイルは得心した。そしてコアの意図を理解してすぐ急襲は待ってくれと緑青に言い置き、マイルは裏づけのためウォール湖畔を奔走したのである。白影の里の陣営に戻って来た時には三日ばかりが経過していたのでマイルは報告の前に頭を下げた。
「遅くなった。すまない」
「いや。それより、どうだった?」
平素は冷静な緑青の声もわずかに上ずっておりマイルは手早く地図を広げた。
ウォーレ湖の北にはウォーレ湖に流れ込んでいない独立した川が存在する。この川はウォーレ湖より高地を流れており、やがて大陸を縦断している川へと注いでいる。この川の流れを火器で変えることによって低地に布陣している国王軍を押し流せと、コアは言っていたのであった。
「地形は地図の通りだ。川幅もそれほど広くはないし、火器を使えば道をつくることは容易いだろう」
実際に現場を見てきたマイルの報告を聞いた緑青は唸りながら腕を組んだ。
高地を流れる川の道筋を変え水攻めをする、一見単純に思える作戦であるがこれは地形を熟知していないと思いつかない発想である。この戦は国王軍にとっても白影の里にとっても外征であり、双方ともに土地勘がない。地図は見ていても国王軍には未だ水攻めをされるという危機感はないであろう。それは国王軍と対峙している緑青が水攻めという選択肢を持たなかったことからも明らかである。
「人手をかけない水攻めか。コアとは恐ろしい人間だな」
一体どれほどの戦地を転々としたのだと、緑青は零す。戦慄を覚えているのはマイルも同じことであったが平静を努めながら話を続けた。
「流れを変えればこの辺りも水に没する。作戦自体よりも負傷者を移動させる方が手間がかかるかもしれないが……どうだ?」
緑青は腕を組んだ格好のまま閉口した。目を閉ざして思案している緑青の横顔を見つめながらマイルも口を噤む。
赤月帝国が再び戦う意志を取り戻すためにも負ける訳にはいかない重要な戦である、いくら誼があるとはいえ落ち度があれば緑青は頷かないであろう。何よりも部外者の立てた作戦に沿うということは、それなりの覚悟をしなければならない。だが決死戦を挑むよりは遥かにましであると、マイルは無言の内に語りかけた。
白影の里の棟梁は、死を決してしまった。だが緑青には別の道があるはずだとマイルは強く願っていた。
(お前が生きて、希望を繋ぐんだ)
それは、赤月帝国のためというよりは私情の叫びであった。だからこそ口に出すことが出来ず、マイルは祈るような気持ちで緑青の決断を待った。
「内通者を始末しよう」
沈黙の後、緑青は短く言った。諦めからか目を瞑っていた内通者の始末をするということはマイルの立てた作戦を受け入れると言ったも同じである。
「……ありがとう」
安堵したマイルの口からはため息のような言葉が零れた。気が抜けて脱力しそうになる膝を叱咤しながらマイルは緑青に微笑みかける。
「礼を言うのはこちらの方だ。ありがとう、マイル」
笑みを見せた緑青はすでに悲壮感を払拭している。その表情に希望の光を見たマイルは力強く頷き返した。
 




