第三章 流刑地の閑人(4)
赤月帝国の王城に潜入していた耒が明け方近くに戻って来たので一睡もしなかったマイルは目をこすりながら迎えた。
「老師に会ってきました」
耒の大胆な行動に眠気も吹き飛び、マイルは目を瞬かせる。
「また、危ない真似をしたな」
「この夜しか潜入する機会はないと思いましたから。明日からは今まで以上に警備が厳しくなるでしょう」
「そうだな。それで、老人は何て?」
「自分を助け出そうなどという気は起こすな、と言われました。それから、前国王レクス殿と第一王子アーロン殿は既に抹殺された後のようです」
「……そうか」
苦く呟き、マイルは眼下に見える王城に視線を転じた。
前国王か第一王子、そのどちらかが生きていれば元の体制に戻すことも可能であったかもしれない。だが、その望みは絶たれた。ならば現行政権を打倒したとしても誰が王になるのか。どのみち赤月帝国には平穏な道は残されていないようである。
だがあることに思い当たり、マイルは耒に顔を向けた。
「姫君達の行方は?」
「不明です。ですが抹殺されたという話は聞いていません」
「何処かに幽閉されているか、匿われているのかもしれないな」
前国王レクスには第一王子アーロンの他に二人の姫御子が、すでに没した前王弟ユリウスには現国王クローゼの下に妹姫がいる。彼女達のうち一人でも生き延びていればまだ、望みはある。
赤月帝国は原則として男王を立ててきたが女王との共同統治の時代もあった。姫が無事ならばその時のように、外から王子を迎えればいいのである。
「調べてみます」
マイルの意図を汲み、耒が頷く。その話題は終わらせ、マイルは話を元に戻した。
「吹聴の目的は老人とワイト、クラリスの捕縛にあったということだな」
「お二人が無事だったのは幸いでした」
「そうとばかりも言えないだろう。ワイトはあの調子だし、老人もそう簡単に出てこられるとは思えない」
「やはり一度、緑青殿に会われた方が良いのではありませんか?」
耒の口から出た名に、マイルは体を硬くした。だがすぐに嘆息し、マイルは白影の里がある方角へ視線を傾ける。
「……緑青は里に戻っているのか?」
「いえ、戦はまだ続いています」
「国王は戻って来ただろう。誰が指揮をとっている?」
「若い女が指揮官として残ったようです。確認は取れていませんが、妃ではないでしょうか」
耒の推測を聞き、マイルは胸中にやるせなさが漂ったことを感じた。
もともと赤月帝国の軍隊の役割は白影の里が担ってきた。今、国王に就いている兵は全て大聖堂からの援助品であり、それを女手一つで束ねるとなれば……。
「正室は大聖堂の人間かもしれないな」
「そう考えるのが自然ですね」
陰謀の臭いを嗅ぎ取ったマイルは苦く、首を振った。平静のように見せているが耒も辟易している。
「国王が戻ったからには城は安定を取り戻すでしょう。警備が厳しくなるのは避けられません」
「一度、白影の里の棟梁に会ってから緑青の元へ行く」
「わかりました」
耒が頷いて姿を消し、一人になったマイルは朝の空気に薄れてきた赤い月を見上げた。
赤月帝国は大聖堂領の南東に位置している。そして緑青率いる白影の里の主戦力は大聖堂領の南西に位置する陸の孤島付近で戦争を続けており、その間にはだいぶ距離がある。先にどちらへ行くべきか、地図に見入りながらコアは考えにふけっていた。
赤月帝国王は、現在は国に戻っているという。戦線に残っているのは若い女だという指揮官と、大聖堂の兵がごくわずか。白影の里の戦力も激減し、戦を続けているのはやはり少数だということをコアは把握していた。
マイルは、おそらく赤月帝国にいるであろう。だが行くのであれば陸の孤島の方が先である。キールの目撃情報を渡り歩いていたら偶然戦乱に巻き込まれたという筋書きがあるので、先に赤月帝国へ行ってしまっては矛盾が生じてしまう。白々しい言い訳だがないよりはマシだと、コアは嘆息した。
(今、下手な動きをする訳にはいかないからな)
争いの内容が大聖堂の内乱である以上、コアが表立って動くことは避けなければならない。コアは地図に意識を戻し、経路を決した。
(真っ直ぐ西へ、最短距離を行くか)
陸の孤島に関する報告は既にラーミラがしているので疑わしい場所へ調査に出向くことには何も問題はない。一息ついたらそのまま北上し、オラデルヘルへ行ってみるのもいい。その頃までには一度大聖堂の方にも顔を出しておきたいところだと、コアは様々な思惑を巡らせながら地図を畳んだ。
機密保持のため白影の里は外部からの侵入者を厳しく選定する。マイルは情報屋としての腕を買われ特例のような形で侵入を許されていたが、必要以上には訪れないようにしていた。特例というものは僻みや妬みの対象となりやすい代物であり、それは白影の里においても例外ではないからである。
一年に一度訪れることがあるかないか。そのような場所を短期間のうちに二度も訪れることになり、マイルは深くため息を呑みこんだ。
白影の里の様子は以前訪れた時と変わらず、表面上は穏やかさを保っている。だが大人達は疲れ果て、子供達も肚を決めている様子が窺えた。その空気はまさに、決死と言うに相応しい。
棟梁の屋敷に通されたマイルは静寂の中を座して待った。この屋敷の静謐は平素と変わりがなく、まるで時が止まっているかのようであった。
「待たせたな」
ほとんど空気を動かさない足取りで目前に座した老人を、マイルはじっと見つめた。鋭い眼光が威圧的な彼は名を海雲といい、白影の里の棟梁を務めている。そしてまた、緑青が慕ってやまない人物でもあった。
一礼し、マイルは口を開いた。
「お久しぶりです」
声は驚くほど通り、また静寂に消えて行く。押し潰されそうな静けさのなか、マイルは核心から話を始めた。
「国王はすでに帰還しています。これ以上の遠征は無意味です」
海雲はしばらくの沈黙を経て、頷いて見せた。
「解っている。しかし退けぬ」
「何故ですか? 今は不利な遠征を続けるより態勢を立て直し、反撃の機会を窺う方がよっぽど得策です」
「それも解っている。だが、出来ぬ」
「その理由を教えていただけませんか?」
海雲は口を噤み、それきり石像のように動かなくなった。しばらく待ってみたが無意味なようだったので、再びマイルから口火を切る。
「よそ者に極秘情報を流すことがどれだけ危険か、承知しています。しかし何も知らなくては、俺は白影の里のために動けません」
「……お前が敵にならないことは知っている」
「ならば話して下さい。このまま大聖堂の思惑通りに事が運ぶのは御免です」
マイルの強い語気に絆されたのか海雲は小さく息を吐いた。それから、ゆっくりと重い口を割る。
「王位が現国王に奪取されてから我々は考えられる限りの事をしてきた。しかしそのどれもが効果を成さなかった。王位継承の資格を持つ王家の者達は抹殺され、遺された血は現国王だけなのだ」
「血がなんです。腐った血なら排除してしまえばいい」
「聞け。民衆の心も、もはや傾き始めている」
マイルは驚愕し、目を見開いた。眉一つ動かさず淡々と、海雲は言葉を次ぐ。
「我ら赤月帝国の国民は先の大聖堂との戦で思い出したくもない敗北を味わった。家を失い、家族を殺され、生き残った者達も必死で生をつないできた」
「ですがそれはもう、過去の話でしょう? 実際に立ち上がろうと奮起した者もいます」
「一部の者達だけであろう? その者達もまた、過去の恐怖が蘇り自ら行動に移せないでいる」
「しかし、それでも街では前国王奪還が強く囁かれたではありませんか」
「囁いただけだ。誰も実行に移していない。そして、前国王もすでに亡い」
海雲の口調は冷めきっていてマイルは焦りを感じた。自然と早口になりながらマイルは異議を申し立てる。
「それは老師達が抑えていただけです。その抑えがなければ民は決起していたでしょう」
「この国の何処にそれほどの戦力がある? 我が里は初戦でほぼ壊滅状態にあり、まともに戦える人間など数える程度にしか残されていない」
「確かに軍の力は強大ですが本当に恐ろしいのは国民です。いくら王とはいえ己の国の民が認めなければ王などではありません」
「その民衆が新しい王を受け入れ始めているのだ。戦争はもうこりごりだとな」
「そんな話は耳に入りませんでした」
街で見た人々は皆、血気盛んに国民の開戦を視野に入れていた。長きに渡る大聖堂との確執がそのような形で終わりを迎えるなどと、彼は本当に考えているのだろうか。そうマイルは憤慨したが、海雲は諦めたように首を振った。
「女子供を中心に水面下で囁かれている話だ。男達にはまだ徹底抗戦の考えが根付いている者もいるが、それも時間の問題だろう。もう、時代が流れたのだ」
「何故そのように決め付けるのです? 貴方らしくもない! ならば戦おうとする男達や今も第一線で血を流しているこの里の者達はどうなるのです!?」
「皆が皆、力を持っている訳ではない。志を持っている訳ではない。だが戦おうという意志のある者を止めることは、誰にも出来ないのだ」
(里を壊滅させるつもりか!)
思わず叫びかけた科白を、マイルは胸中に押し留める。海雲の動かない表情に募っていた怒りは次第に切なさに代わり、マイルは静かに問いかけた。
「一つだけお訊きします。貴方には戦う意志がお有りですか?」
「里のことは緑青に一任してある。俺も、考えは同じだ」
「それを聞いて安心しました。耒を残して行きます、うまくやって下さい」
立ち上がり、マイルは早々に棟梁の屋敷を後にした。
白影の里が歴史から姿を消す。それだけはもう、逃れ様がない出来事でしかなかった。




