第十二章 決断の時(6)
かつて神が居た「楽園」は、現在人間が生活をしている世界に唯一の大陸には存在していなかった。楽園は大陸から遥か彼方の上空に浮遊しているのである。そのため大地はある地点を境に途切れているのだが楽園は広大であるため、人間の足でもって果てを見に行くことは難しいのであった。楽園の中央には数多の石柱に支えられている石造りの神殿がある。この神殿の中央部にはある部屋があり、そこには機械群が設置されている。白銀の冷たい輝きを放つ機械は大規模な天変地異を起こすものから監視映像まで、様々な用途で使用されるものがあった。だがこの場所の機械は唯一無二のものであり、世界に残存している『機械』とは種類の違うものなのである。
機械のひしめく部屋には金髪の青年と、ウェーブがかったブラウンの髪をした見目七、八歳と思しき少女が向かい合って佇んでいた。少女の目を覆うように手をかざしていた青年は動作を終えた後、後退して距離をとる。少女はゆっくりと目を開き、その新緑色の瞳に青年の姿を映した。金髪の青年の名はアストランティアといい、彼は愚者の筆頭である。そしてアストランティアと対峙する少女は名をスズといい、彼女は全知全能の神の娘であった。
本来の人格を取り戻したスズは、アストランティアに剣呑なまなざしを向けた。その瞳に宿している感情は憎悪以外の何物でもなく、スズはアストランティアを激しく憎んでいる。彼らは互いに無言を貫いており、室内には殺気立った沈黙が流れた。交わす言葉さえいらない理由はスズがアストランティアを許すことはなく、アストランティアもまた譲るつもりがないことを、お互いに知っているためである。スズの憎悪を一身に受けているアストランティアは、ゼウスが最期に残した言葉を思い出していた。
『スズを、頼む』
死に際、ゼウスはアストランティアにそう囁いたのである。それ以来、アストランティアは考え続けてきた。だがどれほどの歳月を経ても、アストランティアにはゼウスの真意が理解出来なかったのである。頼むとは、どういう意味であったのか。
「……死んで」
静寂を破ってぽつりと、スズが呟いた。ゼウスが死んだ時から何一つ変わらない、呪いの言葉を。アストランティアはスズの呪詛を真っ向から受け止め、会話に応じた。
「私が死ねば、気が済むのか?」
「済む訳ないでしょ。でも、あんたの顔は二度と見たくない」
忌々しげに吐き捨てたスズへ向け、アストランティアはさらなる問いを投げかける。
「私が死んだ後、どうするつもりだ?」
「私が神になるわ」
スズの答えは迷いのない即答であった。せめて、ゼウスの遺志を継ぐ。スズがそのような決意を抱いたのは彼女が神の娘であるが故である。そのことは理解していたが、アストランティアは小さく首を振った。
「貴女では無理だ」
スズにはゼウスが見ていた底のない闇が見えていない。不完全な複製であるスズに、ゼウスが成し遂げられなかったことを果たせるはずがないのである。
アストランティアがスズの決意を否定した刹那、スズが抱えていた縫い包みが腸を散らせた。白い綿が中空に舞い、無残な姿となった縫い包みはスズの足元に放り出される。視線を床に落としていたアストランティアは頬に痛みを感じて手を当てた。指先にべっとりと付着した己の血液を一瞥し、アストランティアはスズへと視線を傾ける。
「そのまま死んでよ」
スズが静かに放った言葉は、死の宣告であった。怒りや哀しみが混ざり合った、それでいてどのような感情をも消している無表情でスズは口元を歪める。
「こうやって、パパを殺したんでしょう? あんたも苦しみながら死んでよ」
愚者の体は不老ではあるが不死ではない。細胞分裂の止まった体に自然治癒の能力はなく、小さな傷であっても放っておけば死に至るのである。その時、アストランティアの脳裏には神を名乗った男の安らかな死に顔が浮かんでいた。だがまだ逝くわけにはいかないと、アストランティアは短く息を吐き出したのであった。
クリプトンと別れた後、リリィは考え事をしながら神殿内を歩いていた。拠点としている部屋へ戻るつもりだったのだが気がつけば迷子になっており、リリィは途方に暮れながら足を止める。しかし幸いにも人の声が聞こえてきたので、リリィはそちらへと歩を進めた。
扉のない入口をくぐり、リリィは神殿の中央にある部屋へ足を踏み入れた。そこで異様な光景を目にしたリリィは息を呑んで立ち尽くす。
(なに、これ)
石の姿が見えない壁は白銀の物体で覆われている。規模は違うが、リリィは室内で目にしたものと似た物を幾度か目撃したことがあった。
(これ、もしかして……)
捨山やグザグ砂漠で見た物と同じではないか。そう思ったリリィは白銀の物体に体が触れないよう気を配りながら奥へと進んだ。人のいる所まで歩を進めたリリィは、再び足を止める。白銀の物体に四方を囲まれた室内にはリリィに背を向けて佇んでいる金髪の青年と、その足元に倒れているブラウンの髪をした少女の姿があった。
「……人殺し」
石の床に血を広がらせている少女から吐き出されたのは、囁きにも似た冷たい恨みであった。驚くほど胸をえぐる響きが恐ろしく、リリィは反射的に腕を抱く。
「あんたなんか、死ねばいいのよ」
少女の意識はもう、はっきりしていないようであった。それでも尚、少女は舌ったらずに呪いの言葉を浴びせている。金髪の青年は何も言わず、ただ少女の死に行く様を見つめているようであった。
「あんた、なんか……」
少女が紡ぎかけていた言葉が不意に途絶えた。血溜まりの中、彼女は息絶えたのである。そして次の瞬間、リリィは悍ましい光景を見た。
少女の髪が消え、皮が消え、肉が消えて骨になる。骨が細かい砂のようになって消えてしまうまで、瞬きをする間の出来事であった。最後に主を失った服飾品が血溜まりに落ち、そこに辛うじて少女の存在があったことを証明している。頭が真っ白になったリリィはその場に呆然と立ち尽くしていた。金髪の青年――アストランティアが踵を返し、リリィの姿を認めて歩みを止める。
「……見ていたのか」
アストランティアが声を発したことでリリィは我に返った。アストランティアの頬からは鮮血が滴っており、リリィはおずおずと指を伸ばす。
「あの、ケガ……」
リリィに指摘されたアストランティアは自身の頬に手を当てた。その手が再び下ろされた時、アストランティアの頬からは傷も血液も消えていたのであった。
「これしきの傷でも放っておけば死に至る。だが治すことなど造作もない」
至極当たり前のことのように言ってのけたアストランティアを目の当たりにした時、リリィは初めて恐怖を自覚した。抗い難い衝動に駆られ、リリィは踵を返して走り出す。
(怖い!)
愚者は人間ではないのかもしれないが、彼らも傷を負えば血が流れる。痛みも、おそらく感じるのだろう。だがアストランティアは他者の命を奪っておきながら平然としていた。
(怖い、怖い!!)
自身が負った傷を瞬く間に治したアストランティアに、リリィは神の姿を見た気がしていた。残忍で絶対的な神の力が、リリィにはひどく恐ろしいものに映ったのである。
『神様が本当にいるのなら、どうして戦争なんて起きるの?』
神の存在など信じていなかった時、抱いていた疑問がリリィに重くのしかかる。神はあの力で全てをねじ伏せるのだ。
(……怖い)
神が必要であると言えば、クロムが言っていたように神は多くの人間を殺すだろう。だが必要ないと言ってしまえば、やはり多くの生命が人間によって奪われる。どちらにせよ、リリィには人間を殺す選択しかなかった。
(いや……)
争わずに生きられたら……それが幻想であることを、リリィはもう知っている。だからといって人間を殺したくはない。相反する思いが気を狂わせてしまいそうで、リリィは激しく頭を振った。
(どうして私が決めなくちゃいけないの!)
突然奪われた、平和な暮らし。突然奪われた、大切な人たち。リリィはただ、本当のことを知りたかっただけなのだ。それがこのような結果を招くとは、考えもしなかったのである。
何処をどう走って来たのか、リリィはいつの間にか土の上に倒れこんでいた。荒い呼吸ばかりに意識が集中し、リリィは起き上がれないまま拳を握る。
(……違う)
リリィの頬には柔らかな大地が触れている。だが感触はそのままに、この場所では土さえも死んでいた。
(帰りたい)
そう実感した時、リリィの頬には涙が伝っていた。だが不意に何かが体に触れ、リリィは反射的に起き上がる。リリィが涙を拭ってから振り払った腕の主を見据えると、そこにはアリストロメリアの姿があった。
「……ごめんなさい」
アリストロメリアは顔を歪ませ、リリィに頭を下げた。何故彼女に謝られるのか分からず、リリィは呆然と低頭しているアリストロメリアを見つめる。アリストロメリアは汚れるのも構わず膝をつき、リリィの肩にそっと手を置いた。触れている指からアリストロメリアの温かさを感じたリリィは我に返って話しかける。
「どうして、あなたが謝るの?」
リリィに疑問を投げかけられたアリストロメリアは目を伏せ、憂いを面に滲ませながら言葉を紡いだ。
「許されることではないけれど、あなたには謝らなければならないと思っていたわ」
「……どういうこと?」
「大聖堂は、私がつくったの」
予想だにしなかったアリストロメリアの告白を聞いたリリィは言葉を失って瞠目した。




