第十二章 決断の時(3)
神殿内にある物は好きに使っていいとアストランティアに言われていたため、リリィは宛がわされた部屋でベッドに転がってみた。大きく取られた窓からは柔らかな夜の光が差し込んでおり、リリィはすぐに起き上がって視線を移す。窓の外では月光に照らされた庭園の花々が美しく色彩を変えていた。
ここは、かつて全知全能の神の居た場所である。リリィが知っているのはそのくらいで、この場所が大陸の何処に位置しているのかなどの情報は何も得ていなかった。聞いても分からないだろうと思ったリリィは、あえて尋ねなかったのである。
窓の外に広がる光景はリリィが今までに見てきたどの風景と比べても格別に美しい。まるで楽園のような華やかさである。だが以前まで目にしていた世界と同じようでありながら何かが違うと、リリィは改めて感じていた。
(……落ち着かない)
リリィがそう思ったのは決断を迫られているせいだけではなかった。生きている物の気配がない夜が、不気味なほど静かだったからである。
(何なの、ここ)
リリィがベッドの上で膝を抱えていると不意に、扉を叩く音がした。まさか訪ねて来る者があろうとは思いもしなかったリリィは過剰に体を震わせる。もう一度、はっきりと扉を叩く音がしたのでリリィはベッドから下りた。
「起きているか?」
木戸の外側から聞こえてきた声はリリィにも馴染み深い人物のものであった。扉を開けると石畳の廊下にはクロムが佇んでおり、リリィは眉根を寄せて見つめる。
「……何?」
「ご挨拶だな。心細いんじゃないかと心配してみたんだが」
「心配?」
リリィは一瞬呆気にとられ、それから次第におかしさがこみ上げてきた。クロムの口調や表情は正体が露見する前後ではまるで別人であるが、あながちすべてが演技だったわけではないのかもしれない。そう思うと体から余計な力が抜けていき、リリィは自然と笑みを浮かべた。
「それなら、話がしたいわ」
「ご随意に」
クロムが大袈裟な一礼をして見せたのでリリィは首を傾げる。
「ゴズイイって、どういう意味?」
「構わない、ってことだ」
「……ねえ、前と同じ感じに話してくれない? あまり難しい言葉を使われても分からないわ」
「了解。ま、座ろうぜ」
軽く笑って見せたクロムはリリィを促して室内へと戻った。リリィはベッドに腰を下ろし、クロムは窓辺へ寄る。
「明かりはいらないよな? いい月夜だ」
音のない夜でも風景を楽しんでいるかのように、クロムは窓を開けて腰を下ろす。窓枠に座って足をぶらつかせているクロムの仕種は子供のようであり、月明かりが照らし出している顔つきも以前より幼く感じられた。
「しかし、短い別れだったな」
クロムが呆れたように言ったのでリリィも苦笑した。クロムが愚者であることが判明して別れてから、まだあまり時間は経っていない。一緒に旅をしていたのがつい先日のような気がして、リリィは不思議な思いに襲われた。
「ラーミラさんが驚いていたわ」
共に過ごした時間が長い分、リリィは自然と話題を振ることが出来た。クロムは少し惜しむような表情を浮かべ、話に応じる。
「そうか。お元気か?」
助手だった頃の名残なのか、クロムの口調はラーミラを気遣っている。そのことが何処となく奇妙であり、リリィは笑って頷いた。
「もう一度会いたいと言ってたけど、無理なんでしょう?」
「難しいな」
「やっぱり、そうなんだ」
「リリィの決断次第だが、どっちに転んでももう会うことはないだろう」
ふと違和感を覚え、リリィは眉根を寄せた。リリィの異変に気がついたクロムはいたずら小僧のような笑みを浮かべる。
「リリィさん、またそう呼ぶか?」
クロムに違和感の正体を教えてもらったリリィは即座に首を振った。呼び方など、今更である。
「決断は下せそうか?」
クロムが何気なく本題を口にしたのでリリィも真顔に戻る。だが今は、リリィには首を振ることしか出来なかった。
「そうか。まあ、焦ることはないさ」
クロムは気楽に、そう言ってのける。悠長に構えているのはクロムもアストランティアも同じであり、疑念を抱いたリリィは独白のように問いを口にした。
「あの人は時間に意味がないって言ってたけど……あれ、どういう意味だったのかしら」
「ああ、俺たちの体には時間が流れてないからだろ」
クロムがあっさりと答えたのでリリィは驚きながら視線を傾ける。
「歳をとらない、ってこと?」
「そ。だけど不死ではない」
「……よく、分からないわ」
「そうだな……説明しても理解出来ないだろうな」
クロムが考えこみながら放った一言がリリィの癪に障った。侮辱されたような気がしたリリィは不服に唇を尖らせる。
「それ、バカだって言ってる?」
「違うって。現在を生きている人間には理解出来ないことなんだよ」
「コアやマイルでも分からないの?」
「解らないな。なんたって俺も、未だによく解ってないから」
「……それって」
「俺がバカなんじゃないぜ。生きてきた時代が違いすぎるんだ」
クロムは真面目な表情でそう言ったのだが、リリィには意味を汲むことが出来なかった。クロムは思案するように視線を泳がせ、頭を掻きながら口火を切る。
「例えば……そうだなぁ。ちょっと俺が人間だった頃の話するから、聞いてろ」
リリィが頷くとクロムは思い出すようにしながら話を始めた。
「もう今から何年前だとか、そんなことは忘れてしまうくらいの大昔だ。俺が人間だった頃、まだ神がいた。戦争っていう大掛かりな争いはなくて、誰もが神を崇めて暮らしていたよ」
「それって、いいことなんじゃないの?」
「いいか悪いかは別として人間同士が殺しあうことはなかったな。けど、それでも人間は死ぬ」
「歳をとる、ってこと?」
「もちろん老化が進めば人間は死ぬ。でも、それ以外でも人間は死ぬだろ? 落雷とか、洪水とか、飢饉とか」
クロムの話を咀嚼しながらリリィは慎重に頷いた。リリィの理解が追いついていることを確認しながらクロムは話を進める。
「今は、洪水を防ぐために堤防を作る。飢饉を防ぐために農業も進歩する。落雷は……まだ無理か」
「えっと、つまり?」
「つまり、神はそういうことの一切を禁じたんだよ。洪水が起きれば死ねばいい。飢饉が起これば死ねばいい、ってな。そして自分の意思に従わない人間を殺してきた。これが、俺が生きていた時代だ」
クロムはそこで話を切ったがリリィはどう反応を示していいのか分からなかった。リリィが無言でいると再びクロムが口を開く。
「想像つかないだろ? でも、それが当たり前なんだ。実際にその時代を生きている者にしか解らないことは、どうしてもある」
「それは、何となく分かるような気がするわ。それで、何の話をしてたんだっけ?」
「つまりだな、俺もリリィと同じなんだよ。神に殺されるところだったのをアストランティアに助けてもらった。それでこの不老の体を与えられたけど、その原理を理解するにはアストランティアとは生きてきた時代が違いすぎるんだ」
「えっと……つまり、アストランティアって人がクロムよりずっと長く生きてるってこと?」
「そういうこと。この歳をとらない体がどういう理屈になっているのかはアストランティアしか知らないってことだ。そういうことは、結構あるぜ」
話題に上ったので、リリィは自然とアストランティアの姿を思い浮かべていた。リリィにはまだ、アストランティアという人物が把握しきれていない。そのせいなのかもしれないが、リリィはアストランティアからある種の畏怖を与えられていた。
「アストランティアって、どういう人なの?」
「神を殺した者」
クロムの答えは単純なものであり、だからこそリリィには反応のしようがなかった。リリィが閉口するとクロムが言葉を次ぐ。
「詳しい経緯とか、そういうことは知らないぜ。だけど、アストランティアは人間を哀れんでくれたんだ」
「仲間同士でも知らないことって多いのね」
「仲間っていうより、俺達はただの運命共同体だ。キールがそんなようなことを言っていたと思ったが、覚えてないか?」
クロムに問われたリリィは記憶を探ってみたが思い当たるようなことはなかった。リリィが首を振るとクロムは言及せず、話を続ける。
「俺達にとってはアストランティアの下す決断がすべてだ。ただ、それだけの関係なんだよ」
「どうして? 助けてもらったから?」
「それも、ある。だけど、少なくとも俺は……」
流れのままに話を続けていたクロムはふと、言葉を断った。リリィは続きが気になったが、クロムはこの話は終わりだとばかりに微笑む。
「アストランティアのことが知りたければクリプトンにも話を聞いてみたらいい。俺よりは知っているだろう」
「クリプトン? 誰?」
「少年の姿をしている者がいただろう?」
「ああ、ラズル卿の所で会った……」
「俺より博学だ。優しいから、訊けば色々教えてくれるだろう」
クリプトンの話をする時のクロムはいつになく柔らかな口調だったのでリリィは首を傾げた。
「友達なの?」
「ん? まあな」
「へえ……」
ただの運命共同体なのだと言いながら、そうした人間的な繋がりがある者がいるということにリリィは不思議な安堵感を覚えた。クロムとクリプトンが培ってきたであろう歳月に思いを馳せ、リリィは思ったままを口にする。
「でも、ずいぶん歳が離れてるみたいね」
「見た目はな、仕方ない。でも生きた長さは同じだぜ」
「……また、よく分からないことを言うのね」
「俺の方が人間だった月日が長かった、ってことだ。照れくさいからこの話は終わり」
「もっと聞きたい」
「ダメ。他の話にしろ」
クロムが即座に拒否したのでリリィは渋々話題を変えた。
「じゃあ、他の人たちのこと聞かせて」
「他の連中ねぇ……」
「キールは? 仲、よさそうだったけど」
「バカ言え。仲なんか良くない」
「そう? 友達みたいに見えた」
「どうだかな。大体、あいつと会ったのはあれが三回目だ」
「たったそれだけ?」
またしても意外な事実が判明したことにリリィは驚きを隠せなかった。クロムは表情を変えず、淡々と話を続ける。
「キールはだいぶ昔から居たみたいだけどな。詳しいことは知らない」
「そういえば、どうしてキールはいないの?」
「……あいつは、先に逝った」
「……え?」
クロムの呟きを聞き取れなかったリリィは問い返したが答えてはもらえなかった。クロムは表情を消してしまい、窓枠から飛び下りる。
「セレンとキールは俺達と同じ境遇だったらしい。アリストロメリアとスズのことは何も知らない。アストランティアも何も言わなかったから、おそらく初めから共にいたんだろう。知ってるのは、そのくらいだ」
クロムが捲くし立てるように喋ったのでリリィは呆気にとられながら聞いていた。話を終えたらしいクロムはリリィに皮肉げな笑みを投げかける。
「まあ、ゆっくり考えるんだな。俺達は歳をとらないけどお前はあっという間にばあさんだ」
「……ちょっと!」
聞き捨てならない科白を耳にしたリリィは勢い良く立ち上がった。クロムはすでに歩き出しており、リリィは慌てて言葉を次ぐ。
「冗談じゃないわよ! 誰が……」
「リリィ」
「えっ? はい」
不意に名を呼ばれたリリィは出かかっていた文句を呑み込んでしまった。クロムはリリィの反応に笑いながら振り向く。
「正直、意外だった。人間、変われば変わるもんだな」
「……何が?」
「アストランティアの問い、即答すると思ってた。神なんかいらない、って」
クロムが不意に真面目な話題を持ち出したのでリリィは閉口した。救ってくれない神などいらない、それがリリィの持論である。だが世界を放浪する中で、リリィは神が必要な者達を目の当たりにした。そしてアストランティアが尋ねているのは人間に神が必要であるか否か、なのである。
室内はしばし静寂に包まれていたが、やがてクロムが再度口火を切った。
「永久という時間は心を麻痺させる。俺達はもう、変われないんだ。お前を見ていると少し昔が懐かしい」
「……クロム……」
「人間でなくなることを望んだわけじゃない。だけど選んだのは俺自身だ。後悔は、していないよ」
おやすみと囁き、クロムは静かに去って行く。窓から差し込んだ月の光が照らす扉を見つめたまま、リリィはしばらくその場に立ち尽くしていた。




