第十二章 決断の時(2)
『時間に意味はない。答えが出るまで待っている』
アストランティアにそう言われてからリリィは一人で考え続けていた。どれほどの時が経ったのかリリィには知る由もなかったが、現在の太陽は真上で輝いている。悶々と自問自答を繰り返していても答えを出せる見込みもなく、誰かと話をしたいと思ったリリィは宛がわされた部屋を後にして神殿も出た。
石造りの巨大な建造物である神殿を出ると四方には広大な庭園が続いている。見渡す限り人影はなく、リリィは当てもなく歩き始めた。美しく咲き乱れている花々の間を縫って歩いていると歌が聞こえてきたので、足元に注意を払っていたリリィは歩みを止めて顔を上げる。
(この歌声……)
アルトの歌声は、リリィがウォーレ湖の畔で幾度となく耳にしたものである。陸の孤島へ行った時と同じように歌声に導かれて庭園を進み、リリィは声の主を見つけた。庭園の内部に存在する切り取られた空間には真っ白な椅子とテーブルが置いてあり、その場所だけ屋根に覆われている。おそらく腰を落ち着けて花を愛でるための場所に、亜麻色の髪をした女は一人で座していた。
リリィはしばらくセレンの長い髪が風に揺れているのを見つめていたが、程なくして歌が止んだ。
「リリィ、といったか?」
「えっ? はい」
セレンはリリィに背を向けたままである。にもかかわらず不意に名を呼ばれたのでリリィは上擦った声で答えた。セレンはリリィを振り返り、愉快そうな笑みを浮かべる。
「やはり可笑しな娘だ。初めて言葉を交わした時の勢いはどこへ行った?」
セレンに笑いながら問われたリリィはばつが悪い思いをしながら目を伏せた。穏やかな表情をしているセレンを直視出来ないまま、リリィは話を切り出す。
「あの、少し話をしたいんだけど……」
「ならば椅子へ掛けるといい」
セレンは即座に、また気さくに応じた。リリィは躊躇いながらもセレンの対面にある空席に腰を下ろす。まるで貴族の屋敷のような庭園で向かい合って話をするという構図が、リリィにはひどく奇妙なものに思えた。リリィが居心地の悪さを感じていることを知ってか知らずか、セレンは笑みを収めてから言葉を紡ぐ。
「陸の孤島で私が言ったことを覚えているか?」
セレンの問いかけに対し、リリィは伏し目がちに頷いた。セレンとの出会いは苦い記憶と共にリリィの胸に刻まれており、忘れようとしても忘れられないほど鮮烈なものだったのである。
大陸の南西に位置するウォーレ湖へ赴いた時、リリィは初めて「死」というものに直面した。自分のせいで他者を殺してしまったという罪悪感に苛まれ、また帰る術も分からず途方に暮れていたリリィを救ってくれたのは間違いなくセレンなのである。時間の経過と共に少しずつ薄れてきてしまっていた罪悪感が生々しく蘇ってきたのでリリィは感傷に落ちこんだ。リリィの心中を憚ってなのかセレンはしばらく無言でいたが、やがて調子を変えることなく話を再開させた。
「あの時の決意は変わらなかったのだな」
リリィにはセレンに返す言葉がなく、曖昧に頷くことも出来なかった。リリィから反応がないためか、セレンはさらに言葉を次ぐ。
「恐ろしいか? 人間の行く末を委ねられたことが」
怖くないと言えば嘘になってしまうため、リリィは素直に頷く。しかし人間の行く末を委ねられたことに些かの理不尽さを感じていることも確かであった。
愚者を追うことは決断を迫られることを伴うのだと、セレンは事前に警告をしてくれた。自分の願望だけを叶え、セレンの警告を聞かなかったことにするのは無責任だと思うのでリリィは今もこの場所にいるのである。しかしそれでも、人間の行く末を決めろと言われることには納得がいなかった。リリィがそうした思いを包み隠さず語ると、セレンは微かに唇の端を引く。
「正直だな。だが残念ながら、私には何も言うことはない」
助け舟は出せないとセレンに拒絶されてしまったリリィは仕方なく話題を変えた。
「ねえ、愚者って全員がもともと神さまだったわけじゃないんでしょう? セレンは?」
この疑問に答えるためにはセレンが自身の過去を明かさなければならない。リリィは半ば以上答えてもらえないかもしれないと思っていたが、セレンは微塵の躊躇もなく答えを口にした。
「かつて、人間だった」
「……そうなんだ。どうして、愚者になろうと思ったの?」
「望んでなった訳ではない。だがアストランティアに会わなければ私は殺されていただろうな」
「どうして?」
「私の母親が魔女と呼ばれる存在だったからだ」
「マジョ……って何?」
耳慣れない単語の意味が分からず、リリィは首を傾げる。セレンはリリィから視線を外し、遠くを見つめながら説明を始めた。
「現在の世界には存在しないが遥か昔、魔術というものが栄えた時代があったのだ。戦争の道具だと言えば解かり易いか?」
セレンの話に出てきた「魔術」という単語にも覚えがなかったが、リリィはそのことには言及しなかった。それよりも話の後半が気になったリリィは顔を歪めながら口を開く。
「あまり、いい物ではないのね」
「そうだな。魔術とは人間の暗闇を映し出す鏡のようなものなのかもしれない。人間は己にないものを恐れ、理解出来ないものを排除しようとする。戦争が終わると魔女狩りというものが始まった。そして私の母親は火にくべられて死んだ」
自身の理解が及ばないものを排除しようとする。それはグザグ砂漠へ行った時、リリィが身をもって経験したことであった。自分に分からないことに理解を示そうとすることは、とても難しいことなのである。
セレンは遠い目をしたまま、淡々と話を続けた。
「私も追われる身となり、様々な場所を転々とした。そのうちにアストランティアと会い、私の体は人間ではなくなったのだ」
「じゃあ、アストランティアっていう人が神さまだったの?」
「神ではない、そうアストランティアは言っていたがな」
アストランティアの名が話題に上るとセレンは懐かしむような笑みを零した。だがセレンの表情も言葉も、リリィには理解の及ばない代物である。
「……よく、分からないわ」
「知りたければ他の者達にも聞いてみるといい」
そう言ったきり、セレンは口を噤んでしまった。リリィもそれ以上は聞けずに礼を言って立ち上がる。セレンが再び歌い出したのでリリィはそっと、その場を後にした。




