第十二章 決断の時(1)
清涼な風が吹いていた。冷ややかな風は西から東へと抜けており、その地に佇んでいる少女のイエローブラウンの髪を揺らしている。目を閉ざしている少女が感じているもの、それは清らかな空気に似つかわしくない荒野の気配であった。
「目を、開けてみるといい」
男の声に導かれ、少女はゆっくりと目を開ける。少女の緑色の瞳に映し出されたものは荒野ではなかったが、錆びれた楽園であった。
その場所でまず目につく物は、幾本もの石柱に支えられた神殿のような建造物である。そして建造物の四方には広大な庭園が続いており、色とりどりの花が咲き乱れていた。だが風は蜜の香りを乗せてはおらず、鳥の囀りも虫の音も聞こえてはこない。この場所では何かが虚しく色彩を失っている。そう感じた少女――リリィは、泳がせていた視線を金髪の青年に留めた。己の呼吸が最大の音であるような静寂の中、リリィは口火を切る。
「ここは何処?」
「かつて、神の居た所だ」
リリィの問いに答えた者は金髪に碧眼という容貌をした、二十代後半と思しき若さを残す青年である。リリィはこの青年の意思により、自分がこの地に連れられて来たことを知っていた。青年の傍には五つの人影があり、リリィは一人一人の顔を確認した後、再び金髪の青年に視線を留める。
「あなたは、誰?」
「私の名はアストランティアという」
抑揚のない声で青年が答えた名に、リリィは聞き覚えがあった。アストランティアという名の者は愚者の筆頭である。そしてアストランティアの傍らにいる者達も皆、人間ではなかった。
アストランティアの隣には東の大国大聖堂の聖女とされていたアリストロメリアが一切の表情を消して佇んでいる。その背後にはリリィが陸の孤島で出会ったセレン、そして共に旅をしてきたクロムの姿がある。クロムの横にいる少年には見覚えがなかったが、リリィは虚ろな目をして佇んでいる少女には覚えがあった。緩いウェーブのかかったブラウンの髪に新緑色の瞳、上質なワンピースを身に纏った少女は動物の姿を模した縫い物を抱いている。それはリリィがミラーの町で出会った、幻かと思われた妙な迷子であった。
「皆、一度は会ったことのある者達だろう?」
アストランティアが問いを発したのでリリィは視線を戻して小さく首を振った。
「あの人は、知らない」
リリィはクロムの隣にいる、焦茶色の短髪に緑の瞳をした少年を指した。するとすかさず、クロムが口を開く。
「ラズル卿の領地で俺が呼び止めていたのを覚えてないか?」
クロムにそう説明されたリリィは、西の大国フリングスを訪れた時のことを思い返した。クロムが街中で友人だという人物と出会ったことに驚いていたことは覚えていたが、その時のリリィには余裕がなかったため顔までは確認していなかったのである。少年の顔を見据えても記憶と合致させることは難しいと思ったリリィはクロムに頷き返し、それから視線を外した。
「キールは?」
愚者は七人いるはずなのだが、彼らが一堂に会している席にキールの姿だけがない。そのことを不審に思ったリリィは何気なく問いを発したのだが、アストランティアが小さく首を振った。
「彼は来ない」
そう答えたアストランティアは恐ろしいまでの無表情であった。アストランティアの声音に冷ややかさを感じたリリィは微かに眉根を寄せたがすぐ、真顔に戻る。
「それで、何のつもり?」
愚者とは絶対的な力を有していた唯一神を殺した者達である。だが面識のある者が多いことが幸いし、リリィは恐怖を感じてはいなかった。リリィが平静な対応をしたことが意外であったのかアストランティアがふと、口元を緩める。だがそれは一瞬のことであり、アストランティアはすぐに元の無表情へと戻った。
「わざわざ足労願ったのは他でもない。私の問いに答えていただきたいからだ」
アストランティアの申し出は唐突であり、リリィは眉根を寄せながら先を促す。
「何?」
「人間に、神は必要だろうか?」
アストランティアの問いがあまりに飛躍したものだったのでリリィはぽかんと口を開けた。だがアストランティアはひどく真面目な表情でリリィの答えを待っている。視線を痛いほど感じたリリィは我に返り、困惑しながら言葉を紡いだ。
「それ、どういう意味?」
リリィの様子は意に介せず、アストランティアは淡々と真意を語る。
「そのまま受け取ってくれて構わない。必要ならば我らが神になろう。不必要ならば、消えよう」
「ちょっと待ってよ。それじゃまるで……」
「人間の行く末を君が決めることになる」
抗議として言いたかったことをアストランティアに代弁されたリリィはあ然とした。リリィが言葉を失ったことで、その場に静寂が訪れる。
(何? 何が起きてるの?)
混乱に陥った思考を制御するため、リリィは必死の思いで考えを巡らせた。だがいくら平静を努めようとしても冷静にはなれず、リリィは要領を得ないままアストランティアに視線を移す。
「何で私、なの?」
「我ら七人、全てに会うことが出来た初めての人間だからだ」
アストランティアの言葉を聞いた時、リリィはようやく納得のいく事柄を見つけた。大陸の南西に位置するウォーレ湖でセレンと遭遇した時、リリィは決断を下す覚悟があるかと問われたのである。
(……あれ、こういう意味だったのね)
キールに会いたい、ひいては故郷を失わなければならなかった真実を知りたいという一心でリリィはセレンの問いに頷いて見せた。軽率な心持ちではなかったが浅慮であったことは否めず、リリィは苦い気持ちで唇を噛みしめる。体が震え出したことに気がつき、リリィはさらに拳を握った。
(どうしよう。どう、答えればいいの?)
人間に神が必要か否か。それはリリィの一存で決めていい類のものではない。だがアストランティアはリリィのみをこの場へ連れて来た。その意味するところはリリィにも分かっているのである。理解しているからこそリリィは逃げ出したかったが、足に力をこめてその場に踏み留まった。
リリィは旅に出る前に後戻りが出来ないことを覚悟していた。そして今の状況は真実を追い求めた結果なのである。逃げ出すことは許されないと思い、リリィは思い切っていつの間にか伏せていた顔を上げる。だがアストランティアの真っ直ぐな視線に晒され、リリィは怯まずにはいられなかった。
「……考えさせて」
それだけを告げることが現在の精一杯であり、リリィは再び目を伏せた。
南方の天気は変わりやすく、前触れもなく雨が降ることも珍しいことではない。大陸の南東端、人里から離れた深い森の小道を歩いていたコアはスコールに見舞われ、ずぶ濡れになりながら目的地へと辿り着いた。コアの眼前にあるものは四方を森と外壁に囲まれた屋敷である。顔見知りの門番もスコールに濡れており、コアは苦笑を交わしてから外壁の内部へと足を踏み入れる。風雨を凌ぐことができる場所で上衣を脱ぎ捨て、コアは前髪を掻き上げながら息を吐いた。南方の雨は降っても気温を下げず、ただ多湿になるだけなので息苦しい不快感が残るのである。
(寒い方がまだマシだな)
アリストロメリアが快適に過ごすためにはやはり、住居を移した方がいい。そんなことを考えながら、コアは水が滴る上衣を絞ってから肩にかけた。屋敷の中へ入ろうとしてコアはふと、外壁の内側にある庭に真っ赤な大輪の花が咲いているのに目を留める。空を仰ぐとちょうどスコールが上がったので、コアは花を一輪もいでから屋敷の中へ入った。
横長の屋敷を西に向かって進んでいたコアは、前方から知った姿がやって来たので足を止めた。軽く片手を上げ、コアは栗毛の髪をした青年を迎える。
「よくここが分かったな」
コアの傍まで来た栗毛の青年――マイルは、無表情のまま歩みを止めた。マイルはコアが手にしている真っ赤な花を一瞥してから会話に応じる。
「ラーミラさんに連れて来てもらった」
「へえ。ラーミラもいるのか?」
「いや、ラーミラさんは大聖堂へ行っている」
「……何しに?」
コアは眉根を寄せて尋ねたがマイルは答えなかった。再会を果たした時からマイルはずっと無表情のままであり、コアは首を捻る。
「もしかして、怒ってたりするか?」
やむを得ない状況であったとはいえ、コアはマイルやリリィに断りもなく姿を消したのである。そのことを根に持っているのかとコアは疑ったのだが、マイルは息を吐いて首を振った。
「リリィが消えた」
「は?」
マイルが脈絡のない発言をしたのでコアは間の抜けた声を上げた。しかしマイルは真顔のままであり、コアもすぐに表情を改める。
「大聖堂へ行った、なんてことはないよな?」
大聖堂はリリィの仇である。そのためリリィが復讐を考えていないとは言い切れず、コアはその可能性を懸念したのであった。しかしマイルは首を振り、もう一度息を吐く。まったく話が見えないコアはおもむろに顔をしかめた。
「俺にも分かるように説明してくれよ。何があったんだ?」
コアが改まって問うと、マイルはしばらく伝えるべきことを整理している様子であった。やがて、マイルはコアを見据えて口火を切る。
「アストランティアという男が現れた。その男が聖女とリリィを連れて行ったんだ」
「何だって!?」
アリストロメリアもろとも、という部分にコアは驚愕した。手にしていた花を取り落としたコアは思わず、マイルの胸倉を掴み上げる。
「その男は何者だ! 何処に消えた!?」
コアに憤慨をぶつけられたマイルは、しかし至って冷静であった。マイルの冷ややかなまなざしに気がついたコアは舌打ちをしながら手を放す。
「悪い。ちゃんと聞くから詳しく話してくれ」
コアがきちんと謝罪すると、マイルは縒れた首元を正してから応えた。
「アストランティアという名に聞き覚えがあるだろう?」
マイルにそう告げられたコアは首を傾げながら記憶を探る。しばらくして、コアはその名に思い当たった。
「アストランティアって、おい……まさか……」
自身で導き出した答えにもかかわらず確信を抱くことが出来なかったコアは恐る恐る、マイルの顔色を窺う。マイルはコアに頷いて見せた後、リリィ達が消えた時の状況を説明した。
「アストランティアという青年も聖女も、愚者だ。そうとしか考えられない」
マイルの断定的な言葉を聞いたコアは絶句してその場に立ち尽くした。




