第十章 箱艇の番人(13)
砂漠の地下から脱してリリィが初めて目にしたものは、虚空に浮かんでいる大きな月であった。黄色の満月は煌々たる光を放っており、一行の前に広がっている荒廃した街並みを照らしている。天から視線を移したリリィは周囲の風景を一瞥してから、地下から上ってきた階段を振り返った。
地上へと通じる道は荒廃した都市の通路にあたる部分に繋がっていた。階段を塞いでいた物の正体は通路に敷き詰められている石であり、整然とした通路には一箇所だけ四角く穴が空いている。穴の脇にはクロムを除く全員で取り除いた四角い石が捨て置かれていて、リリィがそちらに目を向けているとコアとバルバラが話を始めた。
「見覚えがあるか?」
「見覚えも何も、ここは聖域だ」
コアの問いに答えた後、バルバラは難しい表情をして後にしてきた階段を振り返る。リリィはバルバラの動きを目で追っていたが、クロムに声をかけられたので視線を転じた。
「持っていてもらってもいいですか?」
クロムが松明を二本とも差し出してきたのでリリィは頷いて受け取った。両手が自由になったクロムはさっそく荷物を放り出し、先程入手した本を開く。興味を引かれたリリィはしばらくしてからクロムに話しかけた。
「何て書いてあるの?」
「アラドル=ディ=オーク。人名のようですね」
「アラドル=ディ=オークだと?」
バルバラが驚いたように容喙したのでリリィとクロムはそちらに顔を傾けた。バルバラはつかつかとクロムに歩み寄り、本をひったくる。それきり、バルバラは動きを止めた。
「何だ?」
バルバラの背後から本を覗き込んだコアが問う。バルバラはしばらく無言で本を睨み付けていたが、やがて答えを口にした。
「アラドル=ディ=オークは開祖の名だ。私には読めないが、この本に書かれている文字は我らが使っているものとどことなく似ている」
「開祖ってことは、例の箱艇に行ったっていう若者か!」
コアが興奮気味な声を発したのでリリィも目を見開いた。
「クロム、続きを読んで!」
リリィまでもが声を張り上げたのでバルバラは眉根を寄せる。だが彼女にも読めない代物であるので、バルバラは大人しくクロムに本を渡した。本を受け取ったクロムは解読を再開する。
「私は不慮の出来事により空を飛ぶ艇へ行った。艇の甲板には一人の青年の姿があった。彼は私の問いかけに対し、自分はキールという名でここは空を飛ぶ艇の上なのだと言った」
クロムが読み上げた内容は、まさしくリリィが求めていた情報であった。一行は今まで数多くの情報に触れてきたが直接キールと対面した者の話はこれが初めてである。キールと対面した者の情報と各地で得た情報が重なったことにリリィは言い知れぬ感激を覚えたのだが、バルバラが険しい表情で解読の腰を折った。
「待て、神はキールという名なのか? それは間違いのないことなのか?」
「はい。空を飛ぶ艇に乗っている者の名はキールであると、確かに書いてあります」
クロムのはっきりとした返答を受けたバルバラは脱力したように膝を折る。バルバラの変化が唐突だったのでリリィは驚いたが、次第に事態を呑み込んでいった。クロムが手にしている本に書かれている内容はリリィにとっては有益なものでも、バルバラにしてみれば今まで信じてきたものが全て否定されたことになるのである。
「……あの、言いにくいことなんですが」
重苦しい沈黙が流れる中、クロムが再び口を開いた。コアが続けろと言ったのでクロムは話を続ける。
「キールは、自分は神ではないと言ったそうです。そう、書かれています」
「……えらいことが書かれてるもんだな」
クロムの言葉を聞いたコアは呆れ気味に独白し、それから放心しているバルバラに顔を傾けた。
「何がどうねじくれて今の状態になったかは分からんが、見なかったことにしちまえよ」
軽い調子で諭すコアに、バルバラは怒りを孕んだ目を向ける。バルバラに謂れのない憤りを向けられたコアは肩を竦めて苦笑した。
「この本は俺たちが持っていく。こいつがなきゃ本当のことなんて誰にも分かりゃしねーよ。後はお前一人が胸の中にしまっておけば、砂漠の民は今まで通りの生活を送ることが出来るってわけだ」
「私に、神を冒涜しろと言っているのか」
砂漠の民が信じていた神などいない、そのことが証明されてしまって尚バルバラは己が信じる神を否定しようとしない。コアを睨んでいるバルバラの姿が紙一重のところで誇りを守ろうとしているように思え、リリィは悲哀を抱いた。しかしコアは、バルバラにあっさりと頷いて見せる。
「そうだ。お前一人が神を冒涜することで他の者の信仰が守られる」
コアが言ったような考えは頭の片隅にもなかったようで、バルバラは瞠目した。バルバラが絶句したのを見て取ったコアはさらに話を続ける。
「お前は酋長になるんだろ? だったら信仰を守るのもお前の役目だ。打ちのめされてる暇はないはずだぜ?」
コアが持ち出した『酋長』という言葉に反応したバルバラの表情は瞬く間に変化した。打ちひしがれていた弱々しさが消え、バルバラは気力を取り戻した顔つきで立ち上がる。バルバラの様子を見守っていたリリィは改めて、彼女にすまないことをしたと思っていた。
「女であることを捨ててまで、お前は酋長になりたかったんじゃないのか? 俺の経験によると、そういった奴は必ず強い信念を持ってる」
「黙れ。私は女であることを捨てたわけじゃない」
強気な態度に戻ったバルバラはコアの慰めを突っぱねて膝についた砂を払う。バルバラの顔にはもう迷いが見えず、彼女は真っ直ぐにコアを見た。
「女であっても有能な者はいる。そういった者達に光を当ててやるためにも、私は酋長にならなければならないのだ」
「いいんじゃねーの? 世の中には世界を又に掛けて活躍してる女もいることだしな。お前も立派な酋長になれよ」
「余計なお世話だ」
バルバラはそっぽを向いたが、その横顔はどこか晴れ晴れとしていた。去って行こうとしている気配を察したリリィは思わず、バルバラの腕を掴んで引き止める。
「ひどいことを言ったわ。ごめんなさい」
自分の気持ちに整理のつかなかったリリィは今一度、バルバラに頭を下げた。しかしバルバラはリリィの手を振り払い、何も言わずに走り去って行く。バルバラの軽い足音が遠ざかるのを聞いていたリリィは泣きたい気持ちになった。
「許すわけにはいかねーんだよ」
頭を叩かれると同時にコアが声がしたのでリリィは目元を拭ってから顔を上げた。慎みのない笑みを浮かべているコアはバルバラが去った方角を見据えながら言葉を続ける。
「お前を許しちまったらあいつの心が折れちまう。ギリギリのとこでそれでもプライドをとるってんだからな、大した奴だぜ」
「でも、許してもらえなくて当然だわ」
唇を引き結び、リリィは気持ちを切り替えることにした。もう少しで、ずっと求めていたものに出会えるかもしれないのである。いつまでも沈んではいられないと、リリィは真っ直ぐにコアを見返した。リリィのまなざしを受け止めたコアは頷いて見せ、それまで無言でいたマイルに話しかける。
「結局のところ、宗教ってのは利用されやすい代物だったってことだな」
マイルは肯定するように嘆息したが、リリィにはコアの言っていることが分からなかった。リリィが首を傾げたのを見止めたマイルが説明のために口を開く。
「全ては憶測でしかないがおそらく、酋長の座を巡る争いが過去にあったんだろう。その時、自分達に都合のいいように作り出された神がバルバラの言っていたものになると考えれば納得は出来る」
「真実は歴史の闇に葬られることが多いからな。うやむやになって、争いだけが後に残っちまうもんだ」
マイルとコアからそれぞれ意見を聞いたリリィは複雑な気持ちになった。後の残るものが争いのみであることは哀しかったが、リリィにはもう争いを否定することは出来ない。そこには必ず、争わなければならない理由があるからである。
「ま、俺たちにとっちゃしょせん他人事だ。深く考えすぎるな」
すっぱりと切り捨て、コアは話を終わらせる。旅を初めてすぐの頃はコアの淡白さが癪に障ることも多かったが今ではその冷淡とも思えるところに救われている自分がいることに、リリィは初めて気がついた。だがコアの言動は依然として不謹慎なものも多く、リリィは曖昧に頷く。
「約束も果たしたことだし、調査を始めようぜ」
コアは気分を変えるように廃墟を見渡して言った。約束という単語にひっかかったリリィは首を捻る。
「約束?」
「アチェロとカルメロにな、バルバラをこらしめてやるって約束したんだよ。こらしめてやったよな?」
コアが真顔のまま振り返ったのでリリィは吹き出した。だからあんなに子供達が懐いていたのかと思い返し、リリィは微笑ましい気持ちになる。だが和んだのは一時のことであり、マイルとクロムの会話を耳にしたリリィは真顔に戻った。
「箱艇へ行く手掛かりになりそうなことは書いてないか?」
「この遺跡の何処かから行ったのは確かなようですが、詳しいことは書いてませんね」
「そうか……」
クロムから有益な情報を得られなかったマイルは小さく息を吐く。それはつまり広大な遺跡を当てもなく歩かなければならないということであり、リリィも軽く眉根を寄せた。
「……でも、いつものことよね」
北方独立国群で都市型の遺跡を探索した時も当てもなく、歩き続けた。さらには世界を巡った旅路そのものが放浪と言っても過言ではない。世界に比べれば目前に広がる光景は狭いものであり、まして今回はそれまでとは違って期待の持てる探索なのである。リリィがそう告げるとコアがニヤリと笑った。
「その通りだ。ってことで、さっそく歩き回ってみようぜ」
荷物を担いだコアは意気揚々と歩き出す。座り込んで本を開いていたクロムも立ち上がって砂を払った。
「もう松明はいらないだろう。月明かりで十分だ」
マイルがそう言ったので火を消し、松明を荷物にしまってからリリィも歩き出した。




