第十章 箱艇の番人(8)
砂漠は寒暖の差が激しく、日中は灼熱の太陽が温度を上げるが夜は防寒具なしではいられないほどに冷え込む。フィベ族の部落を後にした一行はオアシスを目指して西進していたが、砂漠の民は目がいいので移動は夜に限定して行っていた。必要以上に体力を消耗する日中は奇岩の影に身を隠し、月が昇るのを待つのである。そうして迎えた幾度目かの夜、リリィは奇岩の上に座って冷え冷えとした月明かりを浴びていた。冷たい色の月が赤茶けた大地を染め上げ、砂漠は色を変えている。風もなく、底冷えのする夜だった。
この砂の大地のどこかに、キールの元へ行くことが出来る何かがある。ボリスからその話を聞いた時、リリィの胸は喜びと興奮に支配された。だが現在は頭も冷えており、キールに会えるかもしれないという思いが実感を伴って迫ってきていた。
「リリィさん」
呼び声がしたのでリリィは顔を傾けた。奇岩の下にはクロムの姿があり、彼はリリィを見上げている。
「そろそろ出発するみたいです」
「分かった」
クロムに短く返した後、リリィは奇岩から飛び下りた。少し離れた別の奇岩の影にはコアとマイルがいて、彼らはすでにラクダに騎乗している。リリィもクロムを促してラクダに跨った。
「ボリスにもらった地図によると、あと二日ほどでオアシスが見えてくるはずだ」
コアの後ろに乗っているマイルが月明かりに地図を照らしながら言う。別れ際にボリスからもらった袋には砂漠では貴重な飲用水や食料、地図や薬草などが詰まっていた。特に地図は重宝しており、これがあるおかげで迷うことなく進めているのである。
「一戦交えないわけにはいかないよな。聖域ってくらいだから見張りとかもいるだろうし」
正面を見据えながら背後のマイルに応えているコアは真顔であった。ラクダを並走させていたリリィはコアの横顔を一瞥した後、視界一杯に広がっている砂の海に視線を転じる。ラクダを操ることに神経を集中しながらも、リリィは綱を握る手に力をこめていた。
戦いになれば迷わず敵を殺す。そのための準備をしてきたリリィは恐怖を感じてはおらず、手に力をこめたのも気負っただけであった。
(殺すわ。確実に)
砂と岩の大地を見つめているリリィは静かにそう、呟いた。
大聖堂の本拠は大陸の東北に位置する神山の八合目付近に存在しており、遺跡であった神殿を修繕して使用している。神殿から東に下った場所には幹部階級の者達が使用している宿舎があり、これは遺跡ではなく大聖堂という組織が整った後に新設されたものである。大聖堂の本拠地とは主体となる神殿とその周囲に広がる宿舎などの建物群を含めたものの呼称であった。
人気のない軍事部の宿舎を歩いていた黒髪の女は衛兵のいる部屋の前で足を止めた。軍服姿の女は大聖堂の軍事責任者であるヴァイスであり、彼女は敬礼している衛兵に声を投げる。
「囚人と話をする。下がりなさい」
扉の前に佇んでいた衛兵はヴァイスの命を受けて体を退けた。衛兵の姿が消えるのを確認してから、ヴァイスは扉を開ける。室内には拘束具を取り付けられ、猿轡を噛まされた少年の姿があり、彼はヴァイスに剣呑なまなざしを向けていた。
通常、宿舎に牢は設置されない。にもかかわらず少年がこの場に捕らわれているのは彼が特別な扱いを受けている証拠である。ヴァイスが特別な関心を注いでいる小柄な少年の名は、テルといった。テルは大聖堂の掲げる聖女であったアリストロメリアの傍仕えをしていた少年である。ヴァイスが聖女の存在を糾弾した時、テルはアリストロメリアを逃すために戦った。そして逃げ切れず、こうして捕らわれの身となっているのである。
ヴァイスは両手足を戒められて部屋の隅に転がっているテルに歩み寄った。テルは鋭い目つきでヴァイスを睨み見たが拘束されているため何も出来ない。ヴァイスはテルの小柄な体を難なく起こし、猿轡を外した。直後、テルが舌を噛み切ろうとしたのでヴァイスは手を伸ばして阻む。躊躇のない顎の力が加わり、テルに歯を突き立てられたヴァイスは痛みに顔を歪めた。
「自害など許さない」
テルはヴァイスの行動を予想していなかったようで呆気にとられている。顎の力が緩んだので、ヴァイスはテルの口から手を引き抜いた。唾液と己の血液に汚れた手に軍服のポケットから取り出した布を巻きつけてから、ヴァイスはテルと目線を合わせる。
「私がここへ来たのはあなたと話をするためよ。答えなくてもいいから私の話を聞いていて」
もはやテルには自害をしようという気は失せているようであった。呆然としているテルの顔つきからそのことを確認したヴァイスは話を始める。
「肉親に会いたいという気持ちはない?」
それまで呆けていたテルはヴァイスの一言に困惑を露わにした。テルの反応は予想の範疇であり、ヴァイスは口元に笑みを浮かべる。
テルは孤児である。おそらくは両親の顔も知らず、彼は幼い頃から戦場に立ってきた。そしてその功が認められ、彼は一時期南方の貴族の養子となっていたことまであったのである。だがテルの養父は政争に破れ、殺された。一族郎党処刑という重罪の中でテルは逃げ延び、再び戦場を彷徨う孤児となったのである。そういった経緯を、ヴァイスは具に把握していた。
「あなたの事情を知ってから、あなたの本当の両親を探したの。きっと、会いたいだろうと思って」
そう告げて、ヴァイスはテルの顔色を窺った。突然の出来事に対処できていない様子のテルは呆気にとられている。もう少し押しが必要だと思い、ヴァイスは話を続けた。
「あなたのご両親は南方の農民だった。貧しさに喘いでいたわ。あなたを捨てたのも愛情がなかったからではなく、食い扶持を減らすために仕方なくしたことだったのよ」
そこまで話して口を噤み、ヴァイスはテルからの反応を待った。テルはしばらく無言でいたが、やがて頭の整理がついたのか次第に青褪めていく。テルに必死の形相を向けられた時、ヴァイスは彼を選んだことは正解だったと思った。
「あなたが望むのであれば、会わせてあげるわ。けれど無償というわけにはいかないわね」
「何が望みですか?」
テルは急いて問いを口にした。断れば彼の両親がどうなるか、テルには分かっているようである。そしてそれこそがヴァイスの求めていた反応であった。
「聖女を殺しなさい」
真顔に戻ったヴァイスが真意を告げるとテルの表情が凍った。だがテルは頭の回転が早い少年なので、すぐに己の置かれている状況を察したようである。テルが唇を引き結んで苦悶の表情を浮かべたので、ヴァイスは声音を柔らかくして言葉を紡いだ。
「血の繋がりはこの世で唯一つ確かなものよ。あなたが無条件に愛し、受け入れてくれる温かな存在よりも信義を選ぶというのであればそれでも構わない。でもその場合、あなたにとって肉親の存在など取るに足らないものということになるわね。取るに足らない存在なんてどうなっても構わない、そうでしょう?」
テルは答えず、ただ懇願の意を表していた。しゃがみこんでいたヴァイスは立ち上がり、冷ややかにテルを見下ろす。
「選びなさい。あなたが、自分の意思で」
抜き放った剣でテルを拘束している縄を切った後、ヴァイスは踵を返した。自由になったにもかかわらず、テルは逃げ出そうという素振りを見せない。例え今、この場でヴァイスを盾にしようとも無駄であることをテルはよく分かっていたのであった。何事もなく簡易牢を後にしたヴァイスは扉を振り返って微笑む。
ヴァイスには家族の尊さというものが理解出来なかったが、一般的には血の繋がりに縛られる者は少なくないのである。家族を亡くすという経験が辛いことなのであれば利用出来るのではないかと思い、ヴァイスはテルに目をつけていたのであった。果たして、テルの反応はヴァイスが期待していた以上のものだった。それまで仕えていた者を殺すという交換条件はテルに葛藤を抱かせたようだが、それも時間の問題である。彼は必ず血の繋がりに絆される、ヴァイスはそう確信していた。
表情を消したヴァイスは神殺しを己に押し付けようとした老人達の顔を思い浮かべた。彼らはヴァイスを利用したつもりなのであろうが、ヴァイスは弄される立場に甘んじるような愚鈍ではないのである。自然と笑い声が零れたので口元を覆い、ヴァイスは宿舎の廊下を歩き出した。




