第九章 邂逅(14)
西の大国フリングスの貴族であるラズル卿が治める町は夜を迎え、昼間の喧騒が虚像のように静まりかえっている。ラズル卿が城主であるリゼット城も、その周囲に広がる城下町も至って平凡であるが、城下町に存在するある宿の一室だけが特異な空間と化していた。だがその事実は、余人が立ち入ることの出来ない部屋にいる二人の男以外には知る術さえない。蝋燭の淡い暖色が揺れるその部屋は、向かい合って腰を下ろしている彼らのためにだけ存在しているのであった。
二人の男のうちの一人は、見目が二十代前半と思しき青年である。青年は焦茶色をした少し長めの短髪にブラウンの瞳、質素な旅装という姿をしている。もう一人は、見目が十代後半と思しき少年である。少年は焦茶色をした短髪に緑の瞳という容貌であり、身なりは平服であるが大陸のどこの国のものとも微妙に違っていた。
「縁、だな」
優しい沈黙の後に口火を切った青年の独白には懐かしさが滲み出ていた。青年はこの広い世界で狙いもせず、再び少年と巡り合えたことを心から喜んでいるのである。
「お前の姿を見つけた時は死ぬほど驚いた」
「久しぶり、今はそんな言葉が相応しいのかな?」
青年に応じる少年の言葉にも、やはり懐かしさが滲んでいた。彼らは友であり、共に時劫の放浪者なのである。この町での対面は再会ではなく邂逅であり、共に過ごせる時間が束の間であることを心得ている青年は少年の少し困ったような微笑みに満足して話を始めた。
「人間の暮らしに戻るのも楽しいもんだな。俺と一緒にいた連中、見たか? あいつら俺たちを探してるんだぜ」
「そうなんだ」
「ばれるかばれないか、それも縁だな」
「あの頃とは全てが変わった。でも変わらないもののために、人間はまた同じ道を歩むのかな?」
「……人間に、何を思う。クリプトン?」
迷い続ける友人へ向け、青年は問いを投げかける。クリプトンと呼ばれた少年はただ、弱ったような笑みを浮かべただけであった。
クリプトンが探し求めている答えはどれだけの歳月を生きてみても見つけられないものなのかもしれない。そんなことを思いながら青年は席を立った。
「行くの?」
椅子に腰かけたままのクリプトンは青年を見上げながら訊ねた。青年はクリプトンの瞳を見つめ返し、笑みをつくる。
「ああ。そろそろ戻らないと連中、俺を置いて行くかもしれないからな」
「薄情だね」
「そのくらいの方が気兼ねしない」
「僕たちも、変わらないね」
少しだけ惜しむような顔を見せ、クリプトンは微笑む。クリプトンの言葉と共に過ごした日々を胸に刻みながら、青年はその場を立ち去った。
東の大国大聖堂の本拠地である神殿の奥の院をヴァイスは数十人の兵を従えて歩いていた。平素であれば奥の院での佩刀を許されていないが現在はヴァイスを含めて兵たちも剣を佩いており、そのため物々しい雰囲気が漂っている。だが奥の院はもともと人気がないので彼女たちが咎められることはなかった。また、例え咎める者があったとしてもヴァイスの姿を認めれば閉口するであろう。ヴァイスは大聖堂において、すでにそれほどの権力を手にしているのである。
聖女の私室から少し離れた場所で歩みを止め、ヴァイスは引き連れている兵を振り返った。調査部の有力者であるモルドが聖女に拝謁していることをヴァイスは承知済みであり、兵たちの足音を響かせないために距離を置いて立ち止まったのである。
「あなた達はここで待ちなさい。私が合図をしたら突入すること」
斬り合う音を合図とすることを言い置き、ヴァイスは一人で聖女の私室へ向かった。ヴァイスが室内に足を踏み入れた刹那、二つの鋭い視線が彼女の体を射抜く。
「これは、ヴァイス様。何か御用でしょうか?」
ヴァイスに剣呑な瞳を向けてきた一人である少年が険悪な笑顔をつくって儀礼的な言葉を紡いだ。小柄な少年の名はテルといい、彼は聖女の傍仕えをしている者である。そしてもう一人、室内には油断のならないまなざしをヴァイスに注いでいる人物がいる。ヴァイスはテルに一礼した後、アリストロメリアの傍にいるモルドを見据えた。
「エドワード様の弔問にお出でですか?」
「ああ。伝達に時間がかかったので随分と遅くなってしまったが、お悔やみを申し上げてきた」
椅子に腰掛けていたモルドはヴァイスに答えながらゆっくりと席を立つ。彼らの位置関係を把握したヴァイスは笑みを浮かべ、改めて聖女に視線を傾けた。アリストロメリアの冷徹とも思える無表情に変わりはない。彼女はまるで、これから起ることを承知しているかのように真っ直ぐヴァイスを見つめている。ヴァイスはアリストロメリアの碧眼を見つめ返し、目を細めながら語りかけた。
「人間の精神はすでに神の手を離れています。アリストロメリア様、人間には神など必要ないのですよ」
ヴァイスが唐突に不穏なことを口にしたのでテルとモルドは驚いたような表情をした。しかし、当のアリストロメリアは無感動な様相を崩さない。ヴァイスはアリストロメリアに優しく微笑み、剣を抜いた。
「あなたのような方は害悪です。消えてください」
ヴァイスがアリストロメリアに切っ先を向けると、抜き身の短刀を手にしたテルが間に割り込んだ。奥の院では武器の所持を許されていないがテルは短刀を隠し持っていたのである。だがそのようなことは想定の範囲内であり、ヴァイスは動揺することもなくテルに斬りかかった。
「アリストロメリア様、逃げてください!!」
ヴァイスの剣を受け止めたテルが背後を振り返らず叫ぶ。テルの声に反応したモルドがアリストロメリアの手を引き、窓の方へ走り出した。モルドが扉ではなく窓を目指した理由はヴァイスが扉の近くにいるからである。そこには予め警備を置かないよう手配していたのでヴァイスはモルドとアリストロメリアの姿が消えるまで見送った後、剣を突き合せている少年に視線を戻した。
「あの方は人間ではない。それなのに、あなたは庇おうというの?」
ヴァイスの問いには答えず、テルは剣を払った。ヴァイスは扉の側を離れ、テルの攻撃を避けながら聖女が放たれた窓辺へと誘導する。窓を背にして初めて、ヴァイスは攻撃に転じた。金属がぶつかり合う硬質な音が響き渡り、ヴァイスが上段から振り下ろした剣を受けたテルは顔を歪ませる。ヴァイスは艶やかな笑みを浮かべ、テルを地に平伏させるように力をこめた。
「あなたは逃さない」
ヴァイスが発した囁きに一時瞠目したテルはすぐに剣を払い、無人となった扉へ走る。だがその頃には兵たちが駆けつけており、抵抗も空しくテルは捕縛された。
「牢に繋いでおきなさい。決して、逃さぬように」
配下である兵に告げ、ヴァイスは押し開けられた窓に体重を預けた。兵に自由を奪われたテルの小柄な体が遠ざかるのを見送った後、ヴァイスは聖女の私室を見回す。あまり物がない質素な部屋は静謐を取り戻し、初めから人間の姿などないようであった。
「私を繰ろうなど、甘いお考えですよ」
口調に幾分かの皮肉を含み、ヴァイスは独り言を零す。ヴァイスの背からは雪解けを感じさせる風が吹きこみ、彼女の漆黒の髪をかすかに揺らしていた。




