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第九章 邂逅(13)

 リゼット城へ戻った日の夜、リリィはバルコニーから空を見上げていた。夜空では細かな星屑が無数に瞬いており、その圧倒的な存在感が心を騒がせる。リリィの脳裏にはまだ聖女が無残に権威を奪われた姿が焼きついており、そのことが胸に重く沈んでいた。

 大聖堂(ルシード)領にある礼拝堂を出てから現在まで、リリィがコアを恐ろしいと感じたことは幾度かある。時にはコアに対して激しい嫌悪感を抱いたこともあったが今回の一件は今までに感じたものとはまるで質が違うと、リリィは思っていた。

(コアが、怖い?)

 マイルから投げかけられた言葉を胸中でくり返し、リリィは思考を巡らせた。

 群集を煽りたてて一人の女性を貶めたコアのやり方は確かにえげつない。マイルが零していたようにリリィもそう感じていた。そして、簡単に人々の心を操るコアを恐ろしいとも思っていた。だが激しい嫌悪感に苛まれて目を瞑ろうとしているものは別にあるのではないかと、リリィは己の心に問いかける。

 リリィは今までにも幾度か、コアが常人には為し得ないことをやってのける場面を見てきた。その多くは人間の生命を軽んじるものであったが今回ほど恐怖や嫌悪を抱かなかったのは何故かと、リリィは考える。

(怖いと思ったのは……)

 そう呟いた時に蘇ったのは聖女を崇め、満ち足りて笑っていたカランの人々の顔であった。だが次の瞬間、彼らの顔は暴徒へと変貌する。何が心を鬱いでいたのかはっきりと自覚したリリィは無意識に両腕を抱いていた。

「おい、ちょっといいか?」

 背後から声をかけられたことで我に返ったリリィは腕を放して振り返った。佇むコアの姿を認めたリリィは平静を装いながら欄干に手を置く。コアは返事を待たず、リリィの隣に立った。

「お前さ、俺のことが怖いんだってな」

 自身が畏怖の対象であるにもかかわらずコアは平然と話を切り出した。リリィには答えることが出来ず、唇を引き結ぶ。あからさまなリリィの態度を気にした素振りもなく、コアは夜空を仰いで言葉を次いだ。

「言いたいことはあるか?」

 短く問いかけたきり、コアは黙してしまった。真意を図りかねたリリィは恐る恐るコアを振り向く。

「どういう、意味?」

「俺を罵りたいとか、怖いから近寄るなとか、思いを言葉に出来るかってことだ」

 コアがあまりに淡白だったのでリリィはあ然とした。

「何で、そんなこと訊くの?」

「何でって……そりゃ、お前がこのままだと困るからだよ」

 リリィに視線を転じたコアの顔には、言葉以上の意図はないと明確に示されていた。意味もなく笑い出したくなったリリィは顎を引いて押し留める。ここで笑ってしまえば感情の箍が外れてしまうと、リリィは思ったのだった。

「今、冷静か?」

 コアにはいつかもそのようなことを言われたとぼんやり思い返しながら、リリィは曖昧に頷く。コアはリリィから視線を外し、再び天を仰いでから話を続けた。

「不思議がってるようだから言っておくが、俺は怖がられることには慣れてる。怨まれることも非難されることも多いからな、何を言われようが今更なんだよ」

 淡々と言葉を紡ぐだけのコアからは辛さも痛ましさも漂ってはいない。本当に慣れているのだと、リリィはコアの横顔を見つめながら思った。

「どうして、そんな風に生きなくちゃいけないの?」

 半ば独白であったリリィの発言を受けたコアは笑みを浮かべて顔を傾ける。

「孤児だったからな。自分の食い扶持は自分で稼ぐしかねえ。稼ぐには戦場に行くしかなかったんだよ」

 話の流れを継いだコアは少し昔の話でもしてやると言い置き、回顧を始めた。

「俺の最初の記憶は血のにおいから始まる。気付いたら戦場にいたんだよな。その前はどうしてたとか親はどうしたとか、そういうことは覚えてねえんだ」

 コアは死体が無造作に転がる戦場の跡地を彷徨っていたのだと語った。リリィはウォーレ湖畔での光景を思い出しながらぼんやりと、コアの話に耳を傾ける。リリィから反応が返ってこなかったのでコアは話を続けた。

「戦場には俺と同じようにうろついてる連中がいた。しゃがみこんだり袋を担いだり、死体の間に蠢いてる連中は何かをしてた。子供心にそいつらと同じことすりゃいいんだと思ってな、とりあえず死体に刺さってた剣を抜いてみた」

「その人たちは何をしてたの?」

「死体から金目の物を剥ぎ取ってたんだよ。鎧や剣は金になるからな」

 コアは何でもないことのように言ったがリリィは悍ましいと感じた。血の気が引いたリリィの顔を見たコアは苦笑を浮かべる。

「お前は恵まれてんだよ」

 コアの表情を目の当たりにしたリリィは胸が潰れそうな罪悪感に苛まれた。反射的に頭を下げ、リリィはコアに謝罪する。

「ごめんなさい」

 飢えと渇きの前ではどのような者であっても変貌する。そのことを経験として承知していながらコアが生きるためにしたことを悍ましいと感じた己を、リリィは激しく恥じていた。

「別に謝ることねーよ。お前が恵まれてるとは言ったが羨んでもないし、辛いとか苦しいとか思ったこともないからな」

 コアがあっさりと言い切ったのでリリィは怖々顔を上げた。コアの態度が不可解で仕方がなく、リリィは疑問を口にする。

「何で……?」

「幸い、俺には天賦の才ってやつがあったからな。何処に行っても大抵絶賛されたもんだ」

 自慢のような話を真顔で語るコアの軌跡が輝かしいものであるのか、リリィには判別がつかなかった。しかしコアが他人から浴びせられる感情に無頓着であることだけは嫌というほど感じ、リリィは少しホッとする。

「極論すればだな、俺は他人のことなんてどうでもいいんだよ。だから俺が気にしてないことをお前が気にする必要もない、ってことだ」

 コアが微塵の躊躇もなく言ってのけたのでリリィは引きつった笑みを浮かべた。だがコアの言葉が全て真実ではないと感じたリリィは引きつった頬を叩き、真顔に戻す。リリィの不可思議な動作を目にしたコアは呆れたような顔をしながらも話を続けた。

「で、俺が何のためにこんな話をしたかってことだが」

 改まって言われるとコアが昔話を持ち出した理由に見当のつかなかったリリィは小さく首を傾げる。

「何のためなの?」

「要するに、俺がすることを怖いと感じるのは経験が足りないからだ。マイルは俺のやり方に批判的だが怖がってはいないだろ?」

 コアの例えは分かりやすく、リリィは得心して頷いた。だが経験という一言で片付けていいものなのかと、リリィは眉根を寄せて考えを巡らせる。

「慣れろ、ってこと?」

「それもある。だがそんな悠長なことを言ってる暇がなさそうなんでな」

「……どういうこと?」

 リリィが問うとコアはカランで得た情報を伝えたうえで、次はグザグ砂漠という場所へ行くのだと説明をした。思いがけず求めていた情報を得たリリィは瞠目して言葉を失う。コアは意味深長な笑みを浮かべた。

「グザグ砂漠に何があるのかは分からない。だが期待は持てそうだぜ」

 急いた気持ちになったリリィは高まる期待を抑えきれず、思わずコアに詰め寄った。

「早く、行きたい」

「そう慌てんな。グザグ砂漠にはちと問題があってな」

 リリィの手をさりげなく解いたコアは欄干に背を預けて煙管を取り出した。リリィは歯痒い思いをしながらコアの言葉を待つ。コアは吸い込んだ煙を吐き出してから話を再開させた。

「グザグ砂漠は戦場だ」

「……え?」

「お前、人間を殺す覚悟はあるか?」

 コアの瞳にはいつの間にか剣呑な輝きが宿っており、鋭いまなざしを向けられたリリィは硬直した。リリィが答えられずに立ち尽くしているとコアが再び口を開く。

「ウォーレ湖畔で一応戦場を経験してるが、お前はまだ人間の死に慣れていない。グザグ砂漠は激戦地だ、生半可な覚悟で行ったら間違いなく死ぬことになる」

 コアが自分の過去を明かした意図を理解したリリィは口元を引きつらせた。コアは横目でリリィを見た後、空いている片手で剣を抜く。前触れもなく白刃を突き付けられたリリィは反射的に後退した。しかしコアは平然としたまま言葉を紡ぐ。

「俺が覚悟を見せろって言った時、お前は自分に白刃を突き立てたな。あの時と同じだけの意気込みをまだ持ってるか?」

 闇夜に煌く切っ先が妖艶なまでに眩く、リリィは顔を背けた。リリィから返答がないのでコアは剣を鞘に収め、灰を捨てた煙管も腰に戻す。両手が空いたコアはリリィが腰に下げている短刀を抜き、掲げて見せた。

「まだ一度も使われたことねえな」

 真新しい刃を一瞥した後、コアはリリィの手に短刀を握らせた。突然手をとられたリリィは驚き、短刀を取り落としそうになりながらコアを仰ぐ。

「そいつで俺を刺せ」

 コアが真顔のままそう言い放ったのでリリィは絶句した。コアはリリィの様子には構わず、言葉を続ける。

「ただし急所はやめろよ? 俺は動かないから、ここなら大丈夫だって思うところをお前が選べ」

「そんな、無茶苦茶よ!」

 リリィは悲鳴を上げたがコアは応じなかった。本気だと、直立に佇んでいるコアの目が告げていたのでリリィは短刀の切っ先を下に向けたまま閉口する。異様な沈黙が流れ、リリィは息を殺すように目を閉ざした。

 人間の心は揺らぎやすく、ひどく脆い。カランの人々のように一度は固く信じたとしても煽り立てられれば容易く崩れ去ってしまう。自分の覚悟もカランの人々と同じだと、動けなくなってしまったリリィは痛感していた。

 故郷が壊滅した真相を尋ねるためにキールを探す。そのためには何を犠牲にしても構わない。そう決意して旅に出たはずのリリィの心はコアを刺すという行為の前に揺らいでいる。そしてその弱さを捨てさせるためにコアが無茶なことを言い出したのだと、リリィは理解していた。

(嫌だ)

 陸の孤島で見た緑青(ろくしょう)の死が、オキシドル遺跡で見た父親の死が、戦場で見た見知らぬ者たちの死が、リリィの脳裏を駆け巡った。激しい拒絶とともに腕が震え出したのでリリィは短刀の柄を握る手に力をこめる。

(でも……)

 自分の命を失ってしまったら何も意味がない。そうコアに教えられてきたことを思い出し、リリィは顔を上げた。怯む様子もなく佇んでいるコアを凝視し、リリィは短刀を持ち直す。

 コアが、一歩を踏み出す。迫り来る(コア)へ向け、リリィは短刀を突き出した。

「……目、開けろや」

 コアの声に導かれ、リリィは固く閉ざしていた瞼を押し上げる。コアの左上腕には短刀が突き刺さっており、流血が衣服を染めていた。

「敵に向かって行く時は目を閉じるな。今は……俺の有り様をしっかり見とけ」

 陰のある笑みを浮かべたコアの姿を脳裏に焼き付けるため、リリィは瞬きもせず凝視する。いつの間にか震えが止まっていたことをリリィが知ったのは、もう少し後のことであった。

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