第九章 邂逅(10)
日が暮れてから宿を出たリリィとコアは町の西に聳える崖を目指していた。目的地は崖上に建つ聖女の屋敷であり、リリィが同行しているのはコアに連れ出されたためである。コアから説明を聞いたリリィは屋敷へ行く目的は理解していた。だが自分が同行しなければならない理由が解らず、リリィはコアを仰ぐ。
「どうして私なの?」
秘密裏の調査ならば連れ立つのはマイルの方が適任である。リリィはそう思っていたのだがコアは小さく首を振った。
「一人も男がいないなんてことはないと思うが男子禁制の場所だってあるだろ。お前、俺たちに女装させる気か?」
「ああ……そういうこと」
目的地は聖女の住まいであり、それならば男子禁制の場所があってもおかしくはないとリリィは納得して頷いた。だが男子禁制ということはコアに頼らず一人で行動しなければならないということでもある。そのことに思い及んだリリィは閉口して気を引き締めた。
崖上にある屋敷へ行くためには、まずカランの町を出て南へ進む。その後、崖に沿う形で西へ進み、裏手から崖を上ることになるのである。片道が一日くらいだろうと言ったきり、コアも黙々と歩を進めた。
「……ねえ」
ただ歩いているのは重圧が増すばかりだったのでリリィは声を発した。闇夜でも昼間と同じ速度で移動しているコアはリリィを振り返らずに応じる。
「何だ? 答えでも出たか?」
「答え?」
「馬鹿なことする理由だよ」
「……ああ」
コアの言いたいことを察したリリィは歩きながら口元に手をあてた。クロムとの会話で得た情報を基に自分の考えをまとめたリリィは弱気ながらも答えを口にする。
「私にとっては馬鹿なことでも町の人たちにとっては意味があることだから?」
「……ケツに疑問符がついてるようじゃ答えになってねえと思うが。まあ、いい」
呆れたような声を発しながらコアは速度を緩めた。隣に並べというコアの合図を受けたリリィは小走りで追いついてから歩を緩める。コアは歩む先を見据えたまま話を始めた。
「信仰ってのは疑わないことだ。良しとされてることに疑心を持っちゃいけねえんだよ」
「それは、町の人たちを見ててなんとなく解った気がする」
「宗教の場合、一度信じたらよっぽどのことがない限り疑ったりはしねえ。多少の矛盾に気付いても目を瞑るんだ。何故だか解るか?」
コアに問われたリリィはしばらく考えを巡らせたが自分なりの答えを導くことは出来なかった。リリィが諦めて首を振るとコアは嘲るように鼻で笑う。
「信じてる方が楽なんだよ。自分で考える必要もねえし、間違ってることが判れば誰かのせいに出来るしな。だから宗教ってやつは利用されやすい」
コアが口にしたことはあからさまな侮蔑であった。リリィには宗教を否定するまでの感情はなかったのでコアの激しい語気に目を見張る。
(やっぱり、ちょっと変……)
怒っていたのはマイルの勘違いだとコアは言ってのけたが、リリィにはやはりコアが怒っているように思えた。だが思ったことをそのまま口に出せる空気でもなく、リリィは黙したまま歩を進める。コアには怒っている自覚がなかったようで、次に口を開いた時の態度は平素の通りであった。
「お前が言ったようにあんな行為は馬鹿げてる。それを教えてやるには権威とやらを消失させればいい」
不敵に笑うコアに陰湿な影を見たリリィは漠然とした不安を感じて眉根を寄せた。
宿を出た翌日の夜、コアとリリィは聖女が住まう屋敷に到着した。だがやはり屋敷は男子禁制であり、女中に扮装させたリリィを送り込んだコアは別の場所を探ることにしたのであった。
カランから見上げると不安定に思える屋敷も裏から覗けば比較的平らな地に建っていることが判る。屋敷の裏には湖があり、屋敷へ行く途中で湖畔に小屋を認めていたコアはそちらへと移動した。遠目から小屋を見た時、コアは物置か何かだと思っていた。だが近付いてみると警備の姿があったので、コアは岩陰に身を隠して様子を窺う。
(わりと大袈裟な警備だな)
古ぼけた納屋のような小屋を警備するのに二人は多い。さらに警備の男達は武装しており、コアは直感的に小屋の中には何かがあると感じた。コアは空を仰ぎ、月の位置を確かめてから小屋の四方を確認するべく密かに移動を開始する。
(窓はなし、入口は正面の扉のみか)
コアは小屋の正面を見渡せる場所へ戻った後、再び岩陰に身を隠して時を待った。時々天を仰ぎながら頃合を見計らっていると予想通りに交代人員が姿を現したので、コアはほくそ笑む。交代した二人が屋敷の方へ去って行くのを見送った後、コアは腰に巻いている薄布を引き抜いた。同時に腰に下げている小袋からは玉を取り出し、湖に向かって放る。少し距離があったが玉は湖に落下し、ぽちゃんと水音を立てた。
異音を耳にした見張りの一人が湖の方へ去って行ったので、コアは岩陰から出て小屋の前に立っている男に背後から襲いかかった。手にした薄布で男の顔を覆った後、コアは喉仏を潰さないよう頚動脈を圧迫する。脳に酸素が届かなくなった男は失神し、体から力が抜けた。脱力した人間は重いが難なく引きずり、コアは男を小屋の陰に横たわらせる。男の呼気を確認していると湖の方へ行っていた者が戻って来たので、コアはもう一人の見張りも同じように気絶させた。
交代したばかりの見張りを片付けた後、コアは小屋の入口へと移動した。古ぼけた木製の扉には似つかわしくない南京錠がついており、こじ開けると後が面倒だと感じたコアは腰に下げている小袋から針金を取り出す。針金の形を少しずつ変えながら幾度か試しているうちに鍵は開き、コアは南京錠を掛けないよう注意しながら手中に隠匿した。扉を少しだけ開けて内部の様子を窺ってから、コアは小屋の中へ足を踏み入れる。窓のない小屋の内部には蝋燭が灯されており、浮かび上がっている光景は生活空間であった。狭いベッドの上ではすでに小屋の主と思しき男が体を起しており、侵入者であるコアを見据えている。
「こんな時間に何の用だ」
まだ若さの残る青年はつっけんどんにコアを迎えた。夜目がきくコアは男が険のある顔つきをしていることを訝りながらも両手を挙げて歩み寄る。
「あんた、幽閉されてんのか? それとも命でも狙われてんのか」
コアが話しかけると青年はおもむろに瞠目した。一瞬にして険を解いた青年は慌てた様子でベッドから飛び降り、コアに縋りつく。
「屋敷の人間じゃないんだな!? 頼む、助けてくれ!!」
突然騒ぎ出した青年の口を塞ぎ、コアは周囲を窺った。足音など人間の気配がないことを確認してから手を離し、コアは青年を睨み見る。
「話は聞いてやるから静かにしろ」
必死の形相をしている青年は自分の手で口を塞いで何度も頷いた。コアは黙って着いて来るよう指示を出し、わずかに開けた扉の隙間から外の様子を窺う。先に青年を逃した後、コアは扉に南京錠を戻してからその場を離れた。
幽閉されていた青年とコアは小屋から少し離れた岩陰に身を潜めた。青年が歓喜に打ち震えていたのでコアは鬱陶しいと思い、青年の頭に拳を落とす。
「次騒いだら殺すぞ」
抗議される前にコアが脅したので口を開きかけていた青年は涙目のまま閉口した。青年が大人しく従ったのでコアは口調を改めて話しかける。
「で、何であんな所に幽閉されてたんだ?」
「聞いてくれよ。あんな女が聖女なんて嘘っぱちだ!」
「聞いてやるって言ってんだろ? 冷静に、順を追って、解るように話せ」
コアが凄味を利かせると怯んだ青年は憤慨を収めて事情を語り出した。
小屋に幽閉されていた青年は崖上に建つ屋敷の主である。そして彼は空を飛ぶ艇の謎に魅了され、代々箱艇の調査を続けてきた家系の者なのであった。
箱艇は数年に一度、カランの上空を通過する。そのため聖女信仰の以前からカランでは箱艇が「神の艇」として崇められていた。そのことを知った男の祖先はこの地に住み着き、箱艇の観察を続けてきたのである。話半分に耳を傾けていたコアは青年が箱艇が出現するには前兆があるのだと言ったので口を挟んだ。
「前兆ってのは何だ?」
「風が変わるんだ。強い南風とともに空飛ぶ艇はやって来る」
「南から、ってことか?」
「ああ。グザグ砂漠の辺りに出現して、北に上ってくる」
青年が口にしたグザグ砂漠は大陸の西南、フリングスの領土内に存在している。だが大地は荒涼としているうえ部族間の激しい争いがあるため、グザグ砂漠は実質独立領なのである。厄介な名称を耳にしたコアは考えを巡らせていたが青年は構わずに話を続けた。
「グザグ砂漠まで調査に出かけてて、戻って来たら家が占領されてたんだ。あいつら、オレに箱艇が来る時期を教えろとか言って監禁しやがって」
「あー、なるほどな。話は分かった」
何者かの政治的な思惑を感じたコアは慰めに男の肩を叩いた。幽閉は辛い体験だったようで青年は顔を歪める。だがコアはすぐに哀れみを消して真顔に戻った。
「しばらく箱艇は来ないか?」
青年が自信ありげに頷いたのでコアは取引を持ちかけた。
「逃がしてやるし金もやる。だからもう箱艇を追うのはやめろ」
青年は迷いを見せたが今回の一件が身に染みたのか最終的には頷いた。コアは英断を称え、まずはわずかばかりの金を青年に握らせる。
「これはほんの気持ちだ。もう一度予言してくれたらまとまった額を払う」
首を傾げる青年に段取りを伝え、コアは話を打ち切った。小銭を握らされた青年は呆然としたままコアを見上げている。
「あんた……何者だよ」
畏怖の視線を浴びることは珍しいことでもなく、コアは冷笑的な笑みを浮かべた。
「俺を裏切ると後が怖いぜ?」
先程まで饒舌だった青年は黙り込み、青褪めて俯く。コアは青年を促して小屋に戻すと全てを元通りにしてからリリィとの待ち合わせ場所へ急いだ。待ち合わせ場所ではすでに旅装に着替えたリリィが忙しなく辺りを窺っており、コアは脅かさないよう声をかける。コアの姿を認めたリリィは安堵したように息を吐いた。
「遅いからどうしたのかと思った」
「ちょっとな。それより、聖女様の顔は確認したか?」
コアが問うとリリィは苦笑を浮かべながら答えた。聖女の傲慢な振る舞いの数々をリリィから聞いたコアは大袈裟に肩を竦めて見せる。
「ま、そのくらいの方が気兼ねしなくていいわな」
「何の話?」
「いいから、町に戻るぞ」
リリィが不思議そうに首を傾げていたが説明はせず、コアは歩き出した。




