第九章 邂逅(8)
大聖堂が本拠としている神殿の奥の院には大聖堂を支配する長老衆の住居や聖女の私室などがある。そして大聖堂の狂人は聖女や長老衆が住まう場所よりもさらに深奥に幽閉されていた。狂人の名は、ルーカスという。彼は大聖堂の創設者である長老衆の一人でありながら陰惨な脅しによって精神を壊してしまった哀れな者なのである。
長老衆の筆頭であるアベルから直々に狂人の監視を任されたヴァイスは幾度かルーカスの元へ足を運んだ。だが狂人が繰り返すのは同じ言葉ばかりであり、当然のことながら彼は話が通じる相手ではなかった。ルーカスが世迷言のように切望しているのは聖女の死である。ヴァイスはすぐにルーカスが聖女を恐れているのだと察したが、その理由が解らなかった。だが解らないからこそ、ヴァイスはルーカスと聖女の関係に興味を覚えたのであった。
「ヴァイス様。本日はどのようなご用向きですか?」
奥の院にある聖女の私室を訪れたヴァイスを迎えたのは小柄な少年の硬質な声であった。褐色の髪に緑の瞳をした少年は聖女の傍仕えをしているテルという者である。いつの頃からか、テルはヴァイスに対して警戒を表すようになった。全身から拒絶を発しながらも丁重な姿勢を崩そうとはしないテルの態度に興味を抱いたヴァイスはすぐに彼の経歴を調べ上げたのである。その結果テルはコアと繋がりがあることが判明し、ヴァイスは彼の動向に神経を尖らせるようになったのだった。
「アリストロメリア様のご機嫌を窺いに参りました。入ってもよろしいですか?」
ヴァイスが微笑を浮かべながら申し出るとテルは仕方なさそうに受け入れた。どれほど警戒されようとテルが権力に逆らうほど愚かではないことを知っているヴァイスはそ知らぬ顔で聖女の私室へと足を踏み入れる。同性の目からでも幽玄の美を感じさせる聖女はにこりともせずにヴァイスを一瞥した。ヴァイスは儀礼的に一礼してから聖女に向かって話しかける。
「お邪魔いたします。アリストロメリア様、お体の方はいかがですか?」
「悪くはないです」
アリストロメリアの声は決して大きくはないが、静寂のなかでは声音に含まれる微妙な感情までもが暴かれる。しかしアリストロメリアの声にはどのような感情も含まれておらず白兎の如き肌と絹糸のような金色の髪、透明な水のような碧眼という容貌は彼女を人形のように見せていた。何かが引きずり出せるかと思い、ヴァイスは問いを重ねる。
「何かご入用の物などありませんか?」
「いえ、間に合っていますから」
アリストロメリアの顔にも声音にも、愛想の欠片も見当たらない。だがその姿勢は賢明であると、ヴァイスは密かに聖女を讃えた。
「失礼するよ」
不意に第三者の声がしたのでその場に緊張が走った。緊張の主はテルであり、彼は鋭い眼差しを後方へ傾ける。テルにつられて扉を振り向いたヴァイスは見慣れぬ老人の姿を目にした。奥の院を自由に歩ける者は限られているのでヴァイスはすぐに老人の正体を察したがテルは緊張を漲らせたまま口を開く。
「失礼ですが、どなた様ですか?」
警戒心を露わにしているテルを宥めるためか、老人は柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「私の名はカロロスという。長老衆の一人だ」
「これは、失礼をいたしました」
老人の正体を知ったテルは低頭して謝罪する。カロロスは畏まったテルを制してからヴァイスに視線を転じた。カロロスの求めに応じたヴァイスは一礼した後、名と身分を明かす。カロロスは目を細め、油断してはならないと感じさせる表情を浮かべた。
「そなたがヴァイスか。アベルから話は聞いている」
カロロスの意を受けたヴァイスは当たり障りのない言葉を選んで話に応じる。
「引継ぎの手続きは必要でしょうか?」
「手続きは必要ないが簡単に話を聞かせてもらおう」
カロロスが退出を示唆したのでヴァイスはアリストロメリアに向き直って一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「おお、私も聖女殿にごあいさつをせねばな」
室内に侵入した時から眼中になかった様子の聖女を、カロロスはそこで初めて目の当たりにした。刹那、カロロスの顔色が微少な変化を表す。カロロスが青褪めたような気がしたヴァイスは内心では首を傾げながら成り行きを見守った。
「……聖女殿のお名前をお聞かせ願えるかな?」
問いを発したカロロスの声は明らかな動揺を滲ませていた。カロロスは真っ直ぐに聖女を見据えながら促したのだがアリストロメリアに答える様子はない。見兼ねたテルが口を挟み、カロロスに聖女の名を告げた。
「聖女様のお名前はアリストロメリア様ですが、それが何か?」
「いや、ありがとう。私はこれで失礼する」
狼狽を隠す余裕もない様子でカロロスは慌しく去って行った。首を傾げているテルに儀礼的な退出を告げ、ヴァイスはすぐさまカロロスの後を追う。
「初代の子? いや、それでは年齢が合わない。あれはどう見ても……」
ヴァイスが発見した時、カロロスは逼迫した様子で壁に向かっていた。カロロスが独白している内容には覚えがあったので、ヴァイスは足を止めて様子を窺う。すぐ傍に佇むヴァイスに目を留める様子もなく、カロロスは考えを巡らせているようであった。
唇から言葉が零れ落ちていることを自覚していないのか、カロロスは呟きを収めようともしない。やがて彼は、途方に暮れた顔つきで天を仰いだ。
「エドワード、何故、何も語らず逝ったのだ……」
故人に思いを馳せているカロロスの様子は尋常ではない。その理由を質すため、ヴァイスは静かに声をかけた。
「カロロス様」
名を呼ばれたカロロスは過剰なまでの反応を示して大きく体を震わせた。飛び退かんばかりに怯えているカロロスを目の当たりにしたヴァイスは周囲に視線を走らせる。奥の院の廊下には他に人影はなく、そのことを確認したヴァイスはゆっくりとカロロスに歩み寄った。
「カロロス様、ご自身が独白しておられた内容を把握しておいでですか?」
ヴァイスが小声で問うとカロロスの顔は強張った。呼吸さえも止めてしまったかのように硬直したカロロスを見据え、ヴァイスは答えを待つ。ヴァイスの視線に晒されたカロロスは次第に怯えを滲ませた。
「何が言いたいのだ」
カロロスの態度は硬く、自身の殻に閉じこもろうとしている気配を察したヴァイスは柔らかく同調を示した。
「エドワード様がご逝去された後、私はルーカス様のお世話をして参りました。先程カロロス様が仰られたことをルーカス様も口にしていらっしゃいましたので、少々気になったのです」
「ルーカスが何を言っていたというのだ」
ひどく恐ろしい物でも見るように、カロロスはヴァイスの顔色を窺う。疑心暗鬼が著しく表れたカロロスの瞳を宥めるように見つめ、ヴァイスは狂人の世迷言を伝えた。卒倒しそうなほど青褪めたカロロスは為す術なく震え出す。
「カロロス様。詳しくお聞かせ願えますね?」
頷くことも出来ず立ち尽くすカロロスの背を押し、ヴァイスは半ば強引に歩き出した。




