第九章 邂逅(7)
リゼット城を後にした一行はラズル卿の領地内を西北へと進んだ。フリングス領は平地が主だが北方との国境付近まで来れば山もあり、緑が生き生きとその姿を輝かせている。だが一行がカランという町で目にした光景は爽やかな夏の緑とは相反しており、リリィは眉根を寄せた。
「何、あれ?」
一行が足を止めている場所はカランの町を一望できる丘陵の上である。町の南には水路があり、現在は水が入っていないが水路の周囲には人だかりができている。だがリリィが指を差したのは人だかりではなく、水のない水路に縛り付けられている一人の少女であった。リリィと同じものを目にしたマイルとクロムも一様に首をひねる。コアは人だかりの方へ行っているので近くにはいなかった。
「何か、宗教的な儀式のようですね」
クロムが独白のように私見を述べると頷いたマイルが西の方角を仰いだ。リリィもつられて視線を傾け、マイルが見ている物に目を留める。一行は水路と垂直な場所にいるため東には水路の終点である溜池が、西には崖が聳えている様子が窺える。西の崖上には不安定な屋敷が建っており、屋敷の下の岩壁には一部色の違う場所があった。
「あれは……洪水吐きか? クロム、どう思う?」
マイルがクロムを振り返ったのでリリィも視線を転じる。マイルに意見を求められたクロムは溜池から水路を辿るようにして崖の方へ顔を傾けた。
「方角から見て、あの辺りが水源なのは間違いないでしょう。すごい仕掛けですね」
西の崖を仰いだクロムは感心しながら頷いたがリリィには話が呑みこめなかった。リリィが首を傾げていることに気がついたマイルが補足する。
「おそらく、あの崖の向こうに大量の水があるんだろう。町の方で水が不足した時や崖の向こうで水が多い時に、あの色の違う部分を使って水量を調節するんだろうな」
「……どうやって?」
「詳しいことは解らない。たぶん、色の違う部分を持ち上げるんだと思うが……」
マイルが言葉を濁したのでリリィも追求を諦めた。一行はしばらく会話もなく丘陵に佇んでいたが突然、眼下の人々が蜘蛛の子を散らすように移動を始めたのである。水路から人々が遠ざかって行くのと時を同じくしてコアが丘陵へ戻って来た。
「今から放水するんだってよ」
苦虫を噛み潰したような渋い表情をしているコアは西の崖を仰いで忌まわしそうに吐き捨てた。放水と聞いた途端マイルも顔をしかめ、水路に取り残された少女に視線を転じる。
「あの少女は人柱か何かか?」
「いや、志願者なんだってよ。放水の後も生き延びていたら聖女様に仕えることが出来るんだと」
「……死ぬだろう」
半ば断定的に呟いたマイルも崖を仰ぐ。その後ほどなくして崖の色が違う部分から大量の水が流れ出し、瞬く間に水路を満たしていった。
放水の轟音が収まると、水路に少女の姿はなくなっていた。水路から遠ざかっていた人々はいっせいに、今度は溜池の方へ移動を開始する。一連の流れを呆然と眺めていたリリィは次第に憤りを覚えていった。
「何でこんな馬鹿なことするの?」
リリィの吐き出した言葉は強く、その場に静寂をもたらした。感情的な発言をしたことに気がついたリリィは気まずく口を閉ざしたがやがて、コアが静かに口を開いた。
「何でだと思う?」
コアに教わることはあっても問い返されたのは初めてのことであり、リリィは困惑した。コアは目を細めて皮肉っぽい笑いを浮かべる。
「たまには自分で考えてみろよ。しばらく聖女様のお膝元に滞在すっから、答えが出たら聞かせてくれや」
嘲笑のような笑い声を置き去りにコアは一人で歩き出す。平素とは違うコアの態度にあ然としたのは何もリリィだけではなかった。
「コアが苛立つなんて珍しいな」
驚きを含んだマイルの独白を聞きつけたリリィは慌てて振り返る。
「あれ、怒ってるの?」
「ああ……心配しなくていい。リリィに対して怒った訳じゃないだろうからな」
マイルから慰めの言葉をもらったリリィは閉口したが胸に広がった苦さを消すことは出来なかった。コアは常に横柄だが理由のはっきりしない憤りを他人にぶつけることはない。そのことを知っているだけにリリィは不安な気持ちを拭えなかったのである。
「行こう。置いていかれそうだ」
マイルが促したのでリリィは重い気持ちのまま足をひきずって歩き出した。
カランの町で宿をとった後、コアは一人で姿を消してしまった。取り残されたリリィとクロムに好きに過ごしていいと伝えた後、マイルは宿の表でコアを待ち続けていた。過去にはふらりと姿を消したきり戻って来ないこともあったので、コアはすぐには帰って来ないかもしれない。だがマイルには、そうするより他に術がなかったのである。
マイルにはコアの怒りの理由が何となく解っていた。だがそれはコアの内面的な事情であり、また機密も孕んでいるので、マイルは口外しなかった。リリィが沈んでいるのはマイルが口を閉ざしているせいでもあり、宿にいるのは息が詰まるのである。
(大聖堂の聖女、か……)
まだ見ぬ人物へ思いを馳せながら、マイルは複雑なため息をついた。所在無く空を仰ごうとした拍子に人影が視界に映ったので、マイルは視線を巡らせる。闇夜をこちらへ向けて歩いて来るのはコアであった。
「何やってんだ?」
宿の前に佇むマイルの姿を認めたコアは怪訝そうな面持ちで首をひねる。コアの態度が平素のように戻っていたのでマイルは本題から口にした。
「リリィに八つ当たりをするのはやめろ」
「……八つ当たり?」
「あえて具体的には言わないが、お前が怒っている理由は解る。だがそれはリリィには関係のないことだ」
「怒る? 何の話だよ?」
コアが困惑顔をしたのでマイルは眉根を寄せた。コアには何の話をしているのか伝わっていない様子だったので、マイルは昼間のことに言及する。するとコアは苦笑を浮かべた。
「まあ確かに、放水して人殺しする聖女は糞食らえだ。だけど別に怒っちゃいないぜ?」
「……とてもそうは見えなかったが」
「よくある話じゃねーか。そんなことでいちいち怒ってたらキリがないだろ?」
理屈はもっともらしいがコアにとって「聖女」という存在が特別であることを知っているマイルは疑念を拭えなかった。だがこれ以上こだわっていても水掛論にしかならないので、マイルは話題を変える。
「リリィを突き放したのはどういう意図だ?」
「いや別に、大意はねえんだけど?」
コアがあっけらかんと言ってのけたのでマイルは深読みをしすぎたのではないかと思い始めた。そうなると話の前提である「コアがリリィに八つ当たりをした」という事自体が成り立たなくなる。読みを外したマイルは気まずさを感じて視線を泳がせた。偶然にも宿から出てきたリリィの姿を発見したので、マイルは表情を消してコアに向かう。
「ややこしくしたのは俺だな」
「……何の話だ?」
コアは訝しげな表情をしたままだったがマイルは一方的に話を打ち切った。
「後は任せた」
補足もせずにそれだけを言い置き、マイルはそそくさとその場を立ち去った。
足早に宿へと戻って行くマイルの背中を見送ったコアは首を傾げた。
「何だありゃ?」
マイルと入れ違いに現れたリリィも不思議そうに宿の方を見つめている。だが突然、コアに向き直ったリリィは頭を下げた。
「ごめんなさい」
「は?」
リリィに謝られる覚えがなかったコアは間の抜けた声を上げた。釈然としない様子で顔を上げたリリィも眉根を寄せている。コアは整理のつかない頭を抱えながらリリィに尋ねた。
「何で謝るんだ?」
「あの、怒らせたみたいだったから……」
おずおずと告げたリリィの言葉と先程のマイルの話を合わせた時、コアは状況を理解した。途端に疲労感に襲われたコアは大きくため息を吐く。
「そりゃマイルの勘違いだ。別に怒ってねーよ」
「あ、そう……なんだ」
「お前も心当たりがないなら謝んな」
少しばかり腹が立ったコアはリリィの額を指で弾いた。リリィは額を押さえてよろめき、その後恨めしそうな顔を上げる。コアはもう一度ため息をついてから話を続けた。
「俺が考えろっつったのはお前が他人の意見をどう受け止めてるのか見えなかったからだ。俺の考えを鵜呑みにされても困るからな」
「……どういうこと?」
リリィが首を傾げたので話が長くなりそうだと思ったコアは目に付いたベンチに移動した。コアはどっかりと腰を下ろした後に煙管を引き抜き、気兼ねなく吸えるようになった紫煙をくゆらせる。煙を嫌うリリィは少し距離を置いてコアの隣に腰を落ち着けた。コアはリリィを横目に一瞥した後、話を再開させる。
「要はだな、サイゲートに食ってかかった時のお前でいいっつってんだよ」
「自分の意見を曲げない、ってこと?」
「だんだん話が通じるようになってきたな」
コアは口元だけで笑い、煙を吐き出してからリリィを振り返った。
「お前、あの時感情的になったこと後悔してるか?」
「……してない。間違ってるとも思ってないわ」
「じゃあ何故、聖女様のために命を捧げることを良しとする?」
「それは……解らないわ」
「解らないのはな、判断する情報が足りないからだ。しばらく滞在すっからよく観察してみろ」
曖昧な返事をするリリィに明朝の特訓を告げ、コアは宿へ戻るよう促した。リリィは考えこむような姿勢のまま素直に従う。
カランの町にはびこっている狂信的な信仰は、リリィにはまだ理解が及ばない代物であるかもしれない。だがそういった想いに囚われないためには善し悪しを含めた実情を知る必要があると、コアは空を仰ぎながら思った。




