第九章 邂逅(6)
フリングス領内の西北に位置するイレースの町を脱出した一行は一路北へ進んだ。追っ手をかけられながらも一行がフリングス国内に留まっているのは波風を立てたくないというコアの意向であり、北進しているのは尽きてしまった資金を得るためにコアの知己であるフリングスの貴族に会いに行くためである。徒歩でフリングス領の北端を目指す一行の旅路は、筆舌に尽くし難い困難の連続であった。
まず、フリングス領内の警備が予想よりも厳しかったため移動は夜の間だけに限られた。よって通常の移動と比べると倍以上の時間がかかったのである。次に、手持ちがないので飢えに襲われた。フリングス領は平地が多いので狩りをすることもままならず、幾日も食事が出来ないことは珍しいことではなかった。夜行性動物に襲われる心配をするのではなく、人間の方が獰猛な獣さえも襲ったほどである。そうした体験を通して初めて、リリィは貧しさの辛苦を理解した。
コアの知己であるラズル卿が治めるリゼット城へ着くと一行は手厚いもてなしを受けた。幾日ぶりかの食事にありつき、乞食のようになった身を清め、心身共に緊張から解き放たれて初めて、リリィは人間に戻れたような気がした。コアの豊かな人脈に感謝をしつつ、リリィはイレースを脱出してからの旅路を心の闇に葬ろうと努めた。飢えと渇きの前では平素がどのような人物であろうと強欲になり、追われる恐怖と緊張も重なって、思い出したくないような争いをしたのである。
リゼット城の内部はオラデルヘルほど豪奢ではないが小奇麗であった。広さはあるものの調度品などは質素であり、清潔な明るさを漂わせている。安堵したことでひどい倦怠感と眠気に襲われていたリリィは応接室のソファに横たわっていたが扉が開く音に反応して体を起こした。姿を現したのはマイルとクロムであり、コアの姿がなかったのでリリィは首を傾げて尋ねる。
「コアはラズル卿と話をしている」
リリィの疑問に答えた後、マイルは部屋を用意してもらったと言った。マイルに促されて立ち上がり、リリィは小さく欠伸をする。
「今夜くらいは安心して眠れるはずだ。ゆっくり休むといい」
リリィの仕種に目を留めたマイルが何気なく言う。己の体力や気力が共に旅をしている誰よりも劣っていることを今更ながらに感じたリリィは複雑な心境で頷いた。
リゼット城でもてなしを受けて人心地が付いた後、コアは城主の私室を訪れていた。室内でコアと向き合っている二十代後半の青年は名をウィリアム=ラズルという。コアと共に戦場を駆け抜けて配下になれと口癖のように言っていたのはウィリアムの父親であるが、彼は数年前に亡くなったとのことであった。
一行がリゼット城へ辿り着いたのは夜更けであったため、ウィリアムは寝ていたところを叩き起こされたのである。しかし嫌な顔一つせず、ウィリアムは快くコアを迎えたのであった。
「しかし、驚いた。コアが金に困っているとはな」
傭兵時代のコアは裕福であり、その頃のことしか知らないウィリアムが驚くのは無理もないことであった。だが湯水のように金を使っていたのはだいぶ以前の話であり、コアは苦笑いをする。
「俺だってこんな日が来るとは思ってもなかったぜ。敵方の人間になっちまったのに悪いな」
「コアならいつでも歓迎だ。いっそのこと大聖堂も裏切ってフリングスの人間になるというのはどうだ?」
「配下になれってか? ったく、親父と同じこと言うんじゃねーよ」
コアが大袈裟に肩を竦めて見せるとウィリアムは回顧の表情を浮かべた。
「あの頃が懐かしいな。一騎当千の兵として名を馳せていたコアの姿は、今でも夢に見る」
「おいおい、年寄りみたいなこと言ってんじゃねーよ」
コアは軽く受け流したがウィリアムは寂しそうな笑みを作る。室内に物悲しい空気が漂ったのでコアは眉根を寄せた。
「何かあったのか?」
コアが率直な問いを口にするとウィリアムは沈痛な面持ちになって目を閉ざす。質素なソファに背を預けながら、ウィリアムは静かに語り出した。
「年々少なくなってはいたのだが軍事費の支給がついに途絶えた。先日、軍隊を解散させたばかりなのだ」
「……そうか」
ウィリアムに相槌を打ちながらもコアはマイルから聞いたサイゲートの言葉を思い返していた。
赤月帝国の英雄であるサイゲートは内乱の後、フリングスに亡命した。彼はフリングスに働きかけることで赤月帝国と大聖堂の繋がりを弱めようと模索していたのである。だが結果的に、サイゲートがフリングスへ身を寄せたことは無駄であった。その理由はフリングス王の心がすでに死んでいたからである。ウィリアムから地方貴族の実情を聞いたコアはフリングス王が傀儡と化したことと軍事費の支給が途絶えたことには深い関係がありそうだと思ったが顔には出さなかった。コアがそのようなことを考えているとは知らないウィリアムは口調を明るくして話題を変える。
「時にコア、何故フリングスに来たのだ?」
「まあ、色々あってよ。ちょっと派手に暴れちまったもんだからフリングス軍に目をつけられたらしくてな」
「そういえば、サーズ卿が血眼になってコアを探しているという噂を耳にした。中央軍が動いたという話は聞かないし、彼ではないのか?」
サーズ卿はフリングス王家に連なる貴族であり、恨まれる覚えがあったコアは渇いた笑みを浮かべた。オラデルヘルとサーズ卿の戦いにコアが参戦していたことを承知しているらしく、ウィリアムは声を上げて笑う。
「変わらないな、その無頼漢なところ」
「無頼漢、ねえ……」
「サーズ卿は蛇のようにしつこい男だ。覚悟しておいた方がいい」
ウィリアムの物言いが辛辣だったのでコアは苦笑した。サーズ卿の領地はラズル卿の領地の東にあり、両家は昔から仲が悪い。いがみ合っている理由はサーズ卿が王の血族なのに対しラズル卿は王の血縁ではないからという、いたって単純なものである。
笑いを収めたコアはウィリアムから得た情報を咀嚼した。フリングス王都に属する中央軍が動いていないのであれば関所の警備もそれほど厳しくないと思われる。北へ逃げてしまったので結果として追跡が厳しくなってしまったが南から大聖堂領へ抜けることは出来そうだと目星をつけ、コアは本題を口にした。
「悪いんだけどよ、ちょっと金貸してくれないか」
逃亡するにも潜伏するにも先立つものは金である。ウィリアムはコアの頼みをあっさりと承諾したが条件をつけてきた。思わぬ展開にコアは首を傾げる。
「条件?」
「ああ。呑んでくれるのであれば貸すのではなく報礼として与えよう」
金額も問わないうちから報礼とするとは気前のいい話である。しかしラズル卿が他の貴族に比べて豊かではないことを知っているコアは訝しく眉根を寄せた。
「無理な金額をふっかけるつもりはないが安易すぎやしないか?」
「それほど逼迫していると受け取ってくれて構わない」
コアの忠告を受け流したウィリアムの言葉は謎を深めただけであった。コアが詳しい説明を促すとウィリアムは重くため息をついてから真意を口にする。
「妙な宗教が流行っているのだ。その弾圧を頼みたい」
その宗教はラズル卿の領地の西北、北方独立国郡レマルとの国境に近いカランという町を中心に勢力を強めているのだとウィリアムは語った。いかがわしさを感じたコアは軽く眉根を寄せる。
「どんな宗教なんだ?」
「崇められているのは聖女だ。奇跡の力を使うとかで民衆の支持を集めている」
「……聖女ねえ」
興味が薄いという装いをしたもののコアの胸中は不快に占められていた。コアにとって聖女とは唯一人であり、他の誰が語っていいものではないのである。だがウィリアムはコアの細微な変化には気がつかなかったようで話を続けた。
「軍隊がないので武力で弾圧することも出来ずに困っているのだ。何とかしてもらえないだろうか」
ウィリアムが弱々しく乞うので優位に立ったコアは気分を改めて腕を組む。しばらく考えを巡らせた後、コアは返事を待っているウィリアムを見据えた。
「やり方は問わないか?」
「任せよう」
「いくら出す?」
「上限は百万ルーツ。それ以下であれば望み通りに」
「ま、妥当だな。百万ルーツ、報酬は前金で半額」
コアがきっちり上限を請求するとウィリアムは苦笑いを浮かべながら頷いた。商談成立の合図にコアはニヤリと笑う。
「借りるより報酬の方が性に合う。感謝するぜ」
コアが手を差し出すとウィリアムは立ち上がって受け取り、契約が成立したのであった。




