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第九章 邂逅(4)

 短い春が瞬く間に過ぎ去り、世界は新緑の季節となった。だが大聖堂(ルシード)の本拠がある神山は未だ雪に覆われ、静謐を保っている。大聖堂の本部である神殿の深奥、奥の院と呼ばれる場所にある長老衆の執務室にて、二人の老人は人を待っていた。

「失礼いたします」

 閉ざされた扉の外から若い女の声が聞こえたので、執務机を前に座していたアベルは顔を上げた。アベルは隣に控えている狐顔の老人を一瞥した後、扉に向かって声を投げる。執務室に姿を現した軍服の女は大聖堂の軍事部に所属する近衛軍団長、ヴァイスであった。

「エドワード様がご逝去されたとのこと、お悔やみ申し上げます」

 直立のまま深く頭を垂れた後、ヴァイスは顔を上げる。アベルは室内の中央に置かれた背もたれのない椅子を指し、ヴァイスに座るよう命じた。ヴァイスが座したことを確認してからアベルは口火を切る。

「まずは紹介しておこう。この男の名はゼノン、長老衆の一人だ。今日は彼も同席する」

 アベルに引き合わされた形のヴァイスとゼノンは互いに一瞥しただけで初対面の挨拶とした。ヴァイスはすぐさまゼノンから視線を転じ、アベルに向き直ってから言葉を紡ぐ。

「本日はどのようなご用向きでしょうか」

 唇を結んだまま険しい表情をしているゼノンを一瞥してから、アベルはヴァイスの問いに答えた。

「知っての通り、エドワードが逝った。今まで彼が受け持っていた仕事をそなたに任せようと思う」

「具体的にはどのようなことでしょうか?」

「聖女と狂人の監視だ」

「狂人、ですか」

 ヴァイスの口調には多少の怪訝さがあったが表情は動いていない。面形のように一定の姿勢を保ち続けるヴァイスを見据え、アベルは簡潔に狂人(ルーカス)のことを説明した。

「そうですか。長老衆にはそのような方がいらっしゃるのですね」

 当たり障りのない言葉だけを選んで口にするヴァイスの返事は了承であった。アベルは口調を変え、少し砕けた調子でヴァイスに語りかける。

「今日は少し、そなたと話をしようと思うのだが。時間は許すか?」

 アベルの問いは単に、心の準備が出来ているかを尋ねるものであった。挑戦的なアベルの発言を受けたヴァイスは少し間を置いた後、承諾の返事をアベルに寄越す。ヴァイスの表情は宣戦布告とも受け取れるほど変化に乏しく、アベルはわずかに目を細めながら駆け引きを開始した。

「ヴァイス、そなたは赤月帝国の王妃であるな。属国とはいえ赤月帝国は反抗的で、長年我らを苦しめてきた。体制が変わったとはいえ我らの心から不審が消えることはない。そのような国の王妃を大聖堂の軍事責任者としたのは何故だと思う?」

「大聖堂の枷であった赤月帝国を服従させたことに対する褒賞ではないのですか?」

「本当にそう思っているのであれば期待外れだな」

 ため息をつくことでアベルはヴァイスの表情に変化を見出そうとした。だがヴァイスは眉一つ動かしてはおらず、まだ化けの皮は剥がれていない。アベルはさらに言葉を重ねた。

「お前を軍事責任者に据えたのは手腕を見極めたかったからだ。無論、我らを裏切るような真似をすれば始末するつもりでいた。だが私の目に適うような人物であれば後事を託す者として育てようと意図していた」

 この発言に驚きを表したのはヴァイスではなくゼノンであった。ゼノンの疑惑を真っ直ぐに受け止めたアベルは彼に向けてだけ言葉を紡ぐ。

「ゼノン、私たちはもう年だ。長老衆に子がいない以上、後継を選ばなければならない」

「しかし、この女に託すのか?」

「それは彼女の出方次第だな」

 狼狽するゼノンを宥め、アベルは再びヴァイスに顔を向けた。鉄面皮のようなヴァイスは動揺した様子もなく静かに座している。大聖堂の軍服を纏っている者の真実を暴くため、アベルは核心を口にした。

「お前が西の地下組織、カーディナルの長であることは承知している。お前はすでに育てられるような時期を過ぎた女だ。我らに臆するはずがない、そう私は思うのだが?」

 それまで一言も発さずに話を聞いていたヴァイスは唇の端を持ち上げて笑む。

「私に期待していたとは、意外ですね」

 ヴァイスの微笑みは実直であるべき軍人の姿からかけ離れたものであった。妖艶な女の素顔を曝け出したヴァイスに応えるため、アベルも笑みを浮かべる。

「これからはその調子で話すといい」

「では、お言葉に甘えさせていただきます。私にそのような話を聞かせるなど、何を企んでいるのですか?」

「企んでいるのはそなたであろう? 赤月帝国やカーディナル、果ては大聖堂まで使って何をしようとしているのだ」

「なるほど。お知りになりたいのは私の目的ですか」

 口元に手を当て、ヴァイスは低く笑い声を零す。陰謀の匂いを漂わせる女の姿にゼノンは辟易した表情をしたがアベルは笑みを収めて答えを待った。ひとしきり笑った後、ヴァイスはアベルを見据えて唇を開く。

「さすがは大聖堂の創始者。いえ、亡国の王子とお呼びした方がよろしいですか?」

 かつて、大陸の西南にロワイトという小国があった。フリングスの勢力拡大とともに滅び去ったこの国の第一王位継承者がアベルであり、南方に亡命していたため生き延びた彼は後に大聖堂の創始者となったのである。懐かしいという感情では片付けられない過去を掘り起こされてもアベルは顔色を変えることなく話に応じた。

「滅んだ国のことをとやかく言っても仕方がない。だがまあ、好きに呼べばいい」

「世界を手中にしようとする者は度量が違いますね。ご立派です」

「随分とへりくだった物言いをするが、それはお前も同じだろう? サンザニア王家の末裔を語って何を企んでいる?」

「私の目的はあなた方と同じですよ」

「世界を手中にする、ということか」

「あなた方がご存命のうちに成し遂げてみせましょう」

 ヴァイスがすぐにでも世界を手中にすると豪語したのでアベルは眉根を寄せた。成り行きを見守っていたゼノンも怪訝そうな顔をし、老人達に不審を浴びせられたヴァイスは笑みを消して語り出す。

「亡命時から手を打っていらっしゃるようですし、南は労せず手に入るでしょう。あとはフリングスさえ潰せば大陸統一が叶います」

「簡単に言うがフリングスは軍事大国だ。そう易々とは落とせない」

 大聖堂は五十年余りの時間をかけてさえ、未だフリングスを陥落させることが出来ないでいるのである。そう吐き捨てたゼノンへ顔を傾け、ヴァイスは艶やかな微笑を浮かべて見せた。

「フリングスはすでに頭を失った烏合の衆です」

 ヴァイスはカーディナルを使ってフリングス王の後宮へ一人の女をもぐりこませていた。女はじっくりと時間をかけてフリングス王の精神を破壊し、結果、現在のフリングス王は女の傀儡と化したのである。

 王が手中にあるのであれば、後の問題は各々が領地と軍隊を有しているフリングスの貴族たちである。そこでヴァイスは王命として、貴族に支給される軍事費を少しずつ減らしてきた。その結果、現在では雀の涙ほどの金額しか支給されておらず、財政難から軍隊を解散させた貴族がほとんどなのである。貴族同士が手を組めば厄介だがフリングスの貴族には身分に根ざした反目があり、争いを起こさせることも容易い。

「あとは南方との兼ね合いでしょう。時機を間違えなければ大陸統一は果たされます」

 ヴァイスの策略を聞いたアベルは顎に手を当てて考えに沈んだ。

 ヴァイスが語った内容が事実であれば、大聖堂がシネラリアを陥落した際にフリングスが反応を示さなかったことにも納得がいく。またシネラリア陥落に用いられたローズマリーの秘薬と同様の物がフリングス王の精神を壊したのではないかと、アベルは想像を巡らせた。アベルは媚薬についての知識はあまりなかったが、ローズマリーの秘薬の効果はシネラリアの一件で証明済みである。

「赤月帝国の王妃となったのは何のためだ?」

 早々と思考を切り替えたゼノンが問いを発したのでアベルも考えを中断してヴァイスに視線を傾けた。

「赤月帝国は大聖堂での出世に利用したまでです」

 ヴァイスは一片の躊躇もなく答えたがゼノンは不信そうに顔をしかめる。

「ならば何故、近衛軍団長となった現在も赤月帝国へ足を運ぶ? まさか国王を愛しているなどという戯言で片付ける気はあるまいな?」

「……なるほど。あなたも相当な曲者ですね」

 ヴァイスはゼノンが同席している理由を得心した様子で朗らかな笑みを浮かべた。対するゼノンは軽んじられたことに不快を感じたようで、眉間の皺を深くしながら追求を続ける。

「聞けば、国王に側室を置くよう進言したそうではないか。しかもその娘はサンザニア王家の末裔なのであろう?」

 ゼノンが語った内容はアベルが初めて耳にするものであった。ヴァイスの曲者発言に密かに同意し、アベルはゼノンの狐顔を見上げる。しかしゼノンはアベルの視線には気が付かず、真っ直ぐにヴァイスを睨んでいた。

「そこまでご存知なのであれば、話さないわけにはいきませんね」

 ゼノンの厳しい語気を苦笑で躱しつつ、ヴァイスは話を始めた。

「先程の言葉に嘘はありません。ですがもう一つ、赤月帝国を選んだのには理由があります」

 赤月帝国は現存している王政のなかでは最古の王国である。その古き血筋が欲しかったのだと、ヴァイスは語った。

「血筋、だと?」

 ゼノンは胡散臭そうに顔を歪めたがヴァイスは柔らかな微笑みを浮かべながら頷く。

「はい。現在の大聖堂は長老衆に権力が集中しすぎています。長老衆がご存命のうちはそれでも構いませんが全員がお亡くなりになった後は間違いなく破綻するでしょう」

 当人を前にして死亡を前提とする未来を語るヴァイスにゼノンは呆れ顔になった。だが長老衆に子がない以上、権力の世襲が望めないのも事実である。ならば今後の大聖堂はどうなっていくのかと、アベルは興味深く思いながらヴァイスに訊ねた。

「新たな支配体制として、まず天乃王(てんだいおう)を廃します。現在のように様々な宗教を黙認することをやめ、唯一神を崇拝するよう啓蒙したいと思います」

「それはつまり、我々が築いた礎を全て否定するということか」

 ヴァイスが遠慮もなく頷くとゼノンは怒りを露わにした。怒鳴り出しそうなゼノンを鎮めるためにアベルはゆっくり容喙する。

「ゼノン、人間の時間は有限だ。仕方がない」

「だが……」

「続きを聞こう」

 悔しさを滲ませるゼノンを制し、アベルはヴァイスを促した。ヴァイスは険悪な空気を気にかける素振りもなく淡々と話を続ける。

「赤月帝国の王室にはフリングス王家の血も混じっていますので現人神には最適でしょう。私の下賤な血で高貴な血筋を穢すわけにはいきませんのでサンザニア王家の末裔に母となっていただくことにしたのです」

 ヴァイスの言う現人神とは人間を神とすることである。だが現人神は、人間であるがゆえ扱いが難しい。そのためアベルは天乃王という架空の神を置き、さらには聖女という下請け人をつくったのであった。

「自身はどうするのだ?」

 今までの話にはヴァイス本人の処遇が含まれていない。アベルが発した疑問は自然の成り行きであったが、ヴァイスはこの問いを待ち侘びていたかのように不敵な笑みを浮かべた。

「私は、すでに赤月帝国の王妃ですから」

 その一言を聞いた刹那、アベルは全身が粟立つ感覚を味わった。ヴァイスの意図を察したゼノンも驚きに目を見開いている。冷え切った空気を断ち切るため、アベルは渇いた喉を唾液で潤してから口を開いた。

「お前は、歴史に名を残したいのか」

 必要以上に力がこもったのは言葉だけでなく、握ったままのアベルの拳には汗が滲んでいた。対するヴァイスは冷ややかな笑みを零しながら立ち上がる。

「個人の名も政治体制もいずれは廃れるもの。私はただ、世の静謐を願っているだけです」

 軍服姿に似つかわしい一礼をし、ヴァイスは去って行く。静かに閉ざされた扉を、アベルとゼノンは半ば呆然としながら見つめていた。

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