第五百十話 物見遊山(偵察) 4
7452年9月24日
早朝。
べグリッツのリーグル伯爵騎士団本部兵舎。
夜が明ける前、五時に起床の笛がピリリと鳴り、兵舎で寝起きする全員がベッドから飛び起きる。
中には眠っている間にシーツを乱してしまったのか、髪の毛や寝間着代わりの下着類に藁屑を絡ませたままの者も幾人かいた。
全員が飛び起きると同時に支給されているズボンとシャツに着替えて身嗜みを整え、兵舎の前に整列を終えたのは起床の笛が鳴ってからぴったり五分後であった。
空はようやっと明るくなり始めているが、お日様が顔を出すまでにはまだ一時間はあるだろう。
日朝点呼が行われ、異常の有無が確認されるとその後の一五分間でそれぞれに割り振られている場所の清掃を行わなければならない。
――あー、クソ眠ぃ。
フーディー・サコス伍長はそれでも本部建屋を目指して全速力で走っている。
今週の彼が割り振られている掃除場は本部建屋の二階廊下なのだ。
二階には会議室や団長や副団長の執務室が並んでおり、そこの廊下に対する掃除のチェックは他の場所よりひときわ厳しい。
なんとか時間内に掃除を終わらせると間稽古の時間である。
間稽古とは武器などの装備を使用しない軽い運動や体操、筋力トレーニングを簡易に行うもので、大体六時頃までの数十分間行われる。
――朝っぱら、飯も食う前から運動なんて……いやいや三食食えるようになって贅沢が染み込んじまったのか、俺ぁ。
フーディーは先任の三十路男が言う通りに体を動かし続けながら頭を空っぽにしていく。
この間稽古を行っている間に騎士団員のうちで敷地内で暮らしていない者――『営外』者達がぞろぞろと出勤してくる。
彼らは総じて騎士位に叙されている者であり、当直部隊の指揮官を除いて騎士団の敷地内――何故か『営内』と呼ばれている。何故そう呼ばれているのは知らない――で生活しておらずに市井で暮らしている。
その頃になってようやく食堂が開かれる。
食堂で食事を作るのは専門の人間もいるが、大抵はその専門の人間に指導されている騎士団の当番が大部分の作業を担当している。
彼ら給食当番だけは他の騎士団員より起床時刻は二時間以上も早い。
勿論、フーディーも給養員として当番の週は早起きが義務付けられていたし、実際に調理も担当されられたが、調理技術や色々なメニューを学べたのは幸運な事だと考えている。
食堂で朝食を掻き込むのに許される時間は三〇分程度もあるので食後のお茶まで飲めるという、まるで平民家の家長並みの待遇だ。
今朝のメニューはお椀一杯のスープと生野菜を中心としたサラダ、そしてカリカリに焼かれた燻製肉に加えて種族や性別によって配給数が異なる小さめのパンが数個。
フーディーにとってはパンどころか生野菜や肉があるだけで贅沢な朝食である。
時期にもよるが、夏時間中である現在ならこの朝食を食べ終えた時点で時刻は六時半頃だろうか。
流石にこの時間になると営外者で出勤していないのは騎士団の幹部だけで、それ以外の者は全員が出勤済みである。
幹部連中はこのくらいの時刻からチラホラと姿を見せ始めることが多い。
普段は午後からの出仕である事が多いのでこの時間に姿が見られる事は滅多にないが、この時刻に騎士団長やその奥方が姿を見せると、その日はほぼ全ての予定を無視したきつい訓練が差し込まれたりする事もあるので幹部以下の全員から恐れられている。
とにかく、この後は小隊単位で七時頃まで朝礼が行われ、今日の予定の確認や、もし存在するなら何らかの情報共有が行われる。
その後は部隊によってまちまちだ。
フーディーが所属する訓練小隊は特別に編成された物であるらしく、他の一般部隊とはかなり異なる部分が多い。
勿論、戦闘訓練を始めとして体を動かす訓練もあるが、座学と呼ばれる上位者から学問っぽい何かを教えられる時間の方が多い。
今まで碌に触れる機会すらなかった読み書きから教えて貰えるという事態について、最初こそ驚いたものの、一生懸命に学んで成果を見せないと(毎週末にテストが行われるのだ)故郷に残して来た者が……という脅し文句には屈せざるを得なかった。
彼とほぼ同時に同じ部隊に放り込まれた獅人族のワイドス親子も、特に父親の方は涙目になって読み書きを学んでいた。
だが、座学はすぐに読み書きだけでなく簡単な算術や自然科学を始め、絵を描く事にまで広がっていった。
フーディーとしては新たな知識に触れる事はかなり楽しく感じたのだが、親友であるコールはそうではなかったようで、しょっちゅう教官である騎士に怒鳴られていた。
今日もこの後、昼食の時間まではダート平原の植物についての講義だそうだ。
・・・・・・・・・
ダスモーグ。
アンダーセン女爵騎士団の練兵場。
騎士団と名乗ってはいるものの、実質は領主であるアンダーセン女爵の従士隊なのだが、この地に赴任してきた女爵はその最初の仕事として従士隊を女爵騎士団に改名していた。
そして、この地に古くから暮らす平民や彼女の家臣を中心に十数名を女爵の騎士として叙したのだ。
この効果は非常に高く、騎士の位を賜った者達を中心に従士隊、ではなく、騎士団員達の士気は大きく向上した。
正式な騎士団員として取り立てられた者の数は合計で三〇名余りと大した数ではなかったが、その誰もが女爵の課した試練と言う名の基準をクリアした者であり、一定の水準を超えているのは確実である。
また、現在では彼ら全員が先に行われたダート平原の南進――“ダート戦役”に従軍した実戦経験者となっているので、その実力は王国の正規の騎士団にも引けは取らないと自負している。
小さな建屋から二名の騎士団員が出てくると、それぞれ馬に跨った。
二人共、まだぎこちない部分が見えており、乗馬には完全に習熟していないことが窺われる。
彼らは本日の“駅詰め”と呼ばれる当番の騎士で、今日一日、通常の訓練が免除される代わりにダスモーグ駅で警衛として勤務する者達である。
尤も、駅で客同士や駅員などと揉め事が起きるような事態は稀なので、どちらかというと鉄道の昇降客に不審な者が居ないか、不審な荷が運ばれていないかをチェックする事が任務である。
そして、このダスモーグ駅はダート中央線と(まだ二つの駅までしか繋がっていないが)王都線の複数の路線が乗り入れる、そこそこに重要な駅ではあるものの、駅に停車する列車は未だ一時間に一本程度と多くはないため、駅詰め当番の騎士としては騎乗の練習に半分以上の時間を費やせる、少し人気のある仕事と言えた。
今日の当番はこの地の平民出身の男とネルの二人である。
駅に到着した二人は、すぐに駅長に到着と任務開始を伝えた。
そして、今日は一〇時発のゾンディール行きの列車に監視対象となる乗客が一人、この駅から乗車することを伝える。
当然ながらその事は駅長は前日から知っているので、問題なく勤務が始まった。
午前七時半。
王都線の始発が発車した。
王都線はこのダスモーグからほぼ真北へと伸びる路線で、搭乗する乗客数は少ないものの、貨物はそれなりにある。
このダスモーグ駅の先にはビッケル駅、ドマール駅とあるが、ドマール駅は線路敷設の都合でドマール村の中ではなく、二㎞も西に離れた場所に建設されている。
今日もドマール駅から先への工事資材が満載されているようだ。
その後、二本の列車がダスモーグ駅に到着し、発車していった。
そのうちの一本は朝に北のドマール駅まで工事の資材を運んでいた列車が帰ってきたものだ。
時刻は既に九時四〇分を過ぎており、あと一〇分もしないうちにゾンディール向けの列車が入線して来るだろう頃合いだ。
――例の人はまだなのかな?
ネルはそう思いながら横歩き練習させていた乗騎を止め、馬の背から降りた。
小柄な矮人族なので昇降台がないと騎乗するのは難しいが、降りることにはもう慣れている。
監視として付くのは相棒の方なので、荷物の積み下ろしや昇降者のチェックなど入線してからの仕事さえ済ませてしまえばまた暫くは騎乗訓練に集中できる。
と、監視対象らしい男が馬の背に揺られて駅にやってきた。
男は慣れた体捌きで馬から降りると馬の手綱を曳きながら駅舎へと歩いて行く。
その横顔を見た瞬間、ネルは目を見開く。
一見すると黒っぽい青――紺色の頭髪だが、眉毛までは染めるのは難しい。
グリード侯爵やカロスタラン士爵などそういう人を見慣れていたからこそ判る。
あれは、黒髪だろう。
黒い髪自体は居なくはないが……。
瞳の色までは確認できなかったが、あの薄い顔つきは……?
思わず兜の目庇で顔を隠すように俯いた。
手にしていた手綱を急いで馬止め杭に掛けると、ホームの端で立ったまま入線方向を見つめていた相棒に駆け寄った。
「ちょっと! 特殊な状況が発生したかも知れない。悪いけど監視は私と変わって貰うわ。貴方はアンダーセン閣下にこの事を報告に行って、今すぐに! あ、私と同じのを見つけたかも知れない、で伝わるから」
そう言うと相棒の背中を追いやるように叩いた。
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