第四百七十九話 各所にて 3
7452年7月25日
ジュンケル伯国の首都、ヘスケスより北東に約五〇㎞余りにある街ヒリッツ。
人口五万を大きく超える規模の街だ。
その中心街からは大きく外れた場所にニギワナ教会は本拠を構えている。
元は先進的な宿屋であったその建物は、老朽化した箇所全てが丁寧な修復を受けて今では見違えるほどの変貌を遂げていた。
そして今、建物を囲むように耕していた畑では初の収穫が行われるところだった。
「ここまでだぞ!」
ニギワナ教会の大主教であるウォーリーが大きく両手を広げ、収穫が可能になった畑を区切る。
彼の背中側に残されている畑には、前面と同様に既に花弁が全て散っていた。
散った花弁は全部が丁寧に掃かれて掃除されており、地面には一枚も残っていない。
昨年の秋に播種して一年近く、やっと収穫が可能となった事にウォーリーを含めるこの場にいる全員の顔が綻ぶ。
「じゃあ、始めて頂戴!」
大悟者と呼ばれ、教会のトップに君臨するペギーが号令をかけた。
「「はい!」」
教会の幹部達が一斉に返事をして小さな刃物を手にする。
花弁の散った跡に残っている鶏卵のような大きさと形をした子房はまだ未熟果だが、この時期を逃してはならない。
子房に縦に切り込みを入れると、じわりと白い乳汁のような樹脂が滲み出て来る。
一つの子房に対して放射状になるように八箇所に切り込みを入れ、隣の子房に移る。
これを繰り返し、樹脂が乾燥してその色が黒くなって固まったらヘラでこそぐように収穫を行うのだ。
作業を行う人数も聖騎士であるイリーナを入れてなお十名にも満たない少人数であるため、それなりの時間はかかる。
今から丸一日、寝ずの作業となるだろう。
が、それだけきつい作業が待っているにも拘わらず、全員が嬉しそうで、満足そうな顔をしている。
それも当然、今収穫が始まったのはカレッソという名の植物で、花弁が散る前には真っ赤な美しい大輪の花を咲かせていた。
観賞用にも悪くないくらいに美しい花ではあるが、開花時間は二週間もなく、すぐに散ってしまう。
ウォーリーの背後の畑の花の花弁も全て散っているが、こちらは種子を採るために残されただけで、今年の秋に行われるであろうカレッソの作付けに必要なものだ。
収穫の対象となっている樹脂は精製することでノックスという少しばかり特殊な薬品になる。
このノックスの製法を発明し、大量に生産を行ったことでニギワナ教会は急成長することが出来たのだが、少し前に他領から違法な攻撃に遭って根拠地の栽培畑や製造所は完全に破壊され、教会に所属していた者も多くは殺されるか捕らえられてしまった。
その襲撃をいち早く予想出来たウォーリーにより、本当の中核は辛くも危地を脱することが叶ったのだ。
数ヶ月も移動に移動を重ね、やっと腰を落ち着けることが出来たのがこのヒリッツの郊外である。
脱出の際に持ち出すことが叶ったノックスは別の街で販売するための在庫分と僅かな試供用しかなく、カレッソの種子は大人の拳三つ分ににも満たない量であり、教会の関係者にも満足な量を渡すことすら出来ていなかった。
しかし、今、教会の敷地に作られた畑からは充分な量の収穫が叶うであろう。
これで今まで不満を抑え、我慢していた皆も満足が行く。
そればかりか、タバコにノックスを溶いた液体を浸して乾燥させて作る、簡易型のナックスや、成分を濃縮したバックス、更に濃縮したダックス、そして最上級に濃縮を行う事でようやく製造出来るゼックスすらごく少量ではあろうが、製造出来る。
少なくとも満足の行くだけノックスが作れるのであればこのヒリッツを治めるコインリー男爵家を事実上の支配下に収めることも容易であろうし、ナックスが作れるのなら信者など幾らでも量産可能だ。
ペギーとウォーリーは収穫作業を行う皆を満足げな表情で見つめながらもその目に昏い輝きを灯していた。
・・・・・・・・・
7452年7月26日
夜。
主月のカルタリと副月のネイタリ双方が空にない両新月の晩だ。
ジュンケル伯国の首都、ヘスケスより南東に約五〇㎞余り。
ゲルクの街を見下ろす小高い丘の中腹に生えている一本の大きな木。
その洞から人影が一つ現れた。
星しか照らすものがない地表はどこまでも暗く、特殊な視力を備えた者でもない限りは己の足元どころか一寸先すらも見通すことは適わない闇夜であるにも拘わらず、その人影は全く戸惑うこともなくスタスタと歩くとぴょんと飛び上がって岩の上に座った。
「出てきなさい」
場違いなほどに若々しく、明るい声音だ。
声量も普通に会話する程度には大きく、一〇mも離れた場所からでも聞き取れるだろう。
「……」
暫くの沈黙の後、いくつかの気配が近寄ってきた。
「ふーん。そうなんだ……」
何を聞いたのか、暗闇の中で声の主が少しだけ惜しそうな声で言った。
「……でも今は……の件もあるしこのままね」
腕を組んだのか、足を組み直したのか。
僅かな衣擦れの音を立てながら返事をする。
「……」
今とは別の気配から小さな声が立てられた。
「まだ特に変わったことは起きていないんでしょう? ならどうなるのかだけ定期的に見に行ってくれれば、放っておいていいわ」
見えているのか、声の主はそちらに顔を向けながら答えた。
「それで、今日の食事はあるの?」
「「……」」
「えー、ないのぉ?」
不満そうな声音に気配達は恐懼するように縮こまった。
「まぁいいけど。次は何か用意しておいてよね。今日はもういいわ」
「「……」」
気配達が霧散するように消えると声の主は岩から飛び降りた。
ぽんぽんと臀部を叩くような音がすると再び下草を踏みつけるような音が洞に消えていった。
・・・・・・・・・
7452年7月27日
ドカッ!!
派手な音を立て、石の太矢が切り株の上の立てていた丸太にぶち当たり、その半ばまでを貫いていた。
丸太はストーンボルト命中の衝撃で数mも転がったが、その間にストーンボルトはすうっと透き通り、その存在をなくした。
命中判定のためだろうか、傍にいた一匹のオークが転がった丸太を小脇に掛けていく。
別のオークが数匹掛かりで並んでいる切り株に同様の丸太を立て始める。
この作業は急がねばならない。
少しでもぐずついて作業が遅れてしまえば、ゼスは癇癪を起こすかもしれないからだ。
最近でこそそういった突然の癇癪は減ってはいるものの、完全に鳴りを潜めた訳では無い。
つい先月もつまらない事で一匹のオークがゼスに殴り殺されていたのだから。
尤も、ゼスとしてはオーク達に緊張感を保つため、思い出した頃に癇癪を起こしたようにわざとそうしているだけなので、もう何があっても癇癪は起こさないでいられるという自信もある……のだが、やはりオーガという種族それ自体がもつ特性なのか癇癪とは無縁ではいられない。
「どうだ、このくらい速くないと使い物にならんぞ」
今撃ち抜いた丸太に空いた穴を自慢するように見せながら、ゼスは言った。
「「……」」
彼の周りに集まっていた若くて素直なオーガ達は穴の空いた丸太を見つめながら、
――あのくらいの穴なら指で突けば幾らでも……。
とか考えていた。
人間には無理でもオーガにとっては容易い、とまでは言えないものの少し無理をすれば誰でも出来るだろう。
しかし、彼らとて何か道具でも使わない限りは手の届かない距離にある丸太に穴を空けようもないくらいは理解できる。
そして、その有効性を理解できる数少ない人材がこの取り巻きなのだ。
「じゃあ全員、今のを手本にやってみろ。時間は幾ら使ってもいいからな」
このところのゼスは今まで以上に若手への教育に熱心だった。
数少ない人材から優秀で素直な者を選りすぐりエリート教育を行うことに執心していたのである。
その過程で判ったことも多い。
素直な彼らに既に日本語で内容を知っている己や自分達だけなくオークやノールなどのステータスを見させ、内容を可能な限り詳細に地面に書き写させた。
文字が異なることは覚悟の上だったが、自分が見ることの出来る日本語はともかくとして、一般のオーガやオーク、ノール、コボルド、ゴブリンに加えて捕らえてきた人間などそれぞれが見ることが出来るステータスの文字は当然のように異なってはいたものの大きな違いがないことも判った。
言うなれば文字の端にヒゲが生えているかどうかとか、直線部分が曲線になっているとか、傾いているとか程度の違いであり、ゼスに言わせれば癖字の範疇に入れられそうな違いしかなかったのだ。
ステータスのサンプルに困ることはないし、そもそもゼスが自分で見てしまえば、少なくともその内容の日本語訳(?)はすぐに分かる。
僅か数時間の調査で各種族の数字はもとより、ステータスに関連する単語のみではあるものの文字も判明した。
ステータスに記載されている各行の意味も捕虜とした人間から学習できたし、そこには結構科学的な言葉が使用されていることにも気が付くことができた。
こうしてみると、つくづく神との邂逅時に夢だと思い込んで碌に質問をしなかった愚かさが悔やまれるが、今更後悔したところで後の祭りだ。
少し不思議だったのは種族間で文字や言語が(近しいものの)異なることは納得できてもある程度距離が離れても言語はともかく文字が異ならない事だった。
が、これも考えたところで素人考察の域は出まいと早々に考えることを放棄した。
今ゼスが魔術の教育を施しているのはオーガが四匹にオークが一匹、ノールとコボルド、ゴブリンが二匹ずつである。
少なくともこの人数は地魔法のレベルが三に達している本当のエリートで、後進の教育すら行っている。
そのお陰もあり、後進も含めるのであれば魔法が使える者の数は既に三桁にも達していた。
魔法への適性は元々人間より魔物の方が少し高いので、短期間でモノに出来たのである。
これ自体、捕虜となっている人間(亜人もいるが)の魔術師にしてみれば途轍もない恐怖だ。
魔法すら碌に理解していなかったオーガなのに、あっという間に組織だった魔術の教育体制を作り上げ、三桁もの人間に敵対する魔術師を育て上げてしまったのだから。
流石はゼスによって選別されたエリートである。
全員がストーンボルトの魔術を成功させた。
当然、慣れ(熟達)もあるので個体によって魔術が完成するまでの集中時間の長短はあるものの、一人として失敗した者はいない。
尤も、もうストーンボルトを教えて一〇日以上も経っているので、当たり前といえば当たり前なのだが、早い者の集中時間は三分程度である。
あとひと月もしっかりと修練させれば数秒で放てるようになるだろう。
何故だかゼスの魔力量は他よりも多いようで、その分練習回数も増えるために熟達も早いのだが、その彼をして魔法や魔術は全く底が知れない。
だからこそ、ゼスも夢中になって暇と魔力さえあるのならいつでもどこでもすぐに魔術の練習を欠かしていない。
今は外傷を治療できるという治癒魔術を習得すべく一生懸命なのだが、自分の怪我はどう頑張っても治せそうにないのが不満である。
これについては魔術師から「怪我の痛みが魔術への精神集中を妨げるので普通です」と言われ、渋々ながら納得してしまった。
仕方ないので適当なオークやゴブリンに軽く傷を付けて練習せざるを得ないのだが、
――自分自身ならともかく、他者の怪我を治してやる事に一体どれだけの意味があるのか……。
と感じてしまい、イマイチ修練に身が入っていない。
考えてみれば、大怪我を負った手下を治療できること自体は喜ばしいし、大切な人材を減らさないで済むかもしれない上、その可能性は低いだろうが助ければ感謝してくれる事すら考えられる。
少なくともその現場を目にした者は自分が助けて貰えるかもしれないと……そんな頭があれば普段からもう少しマシなのではないだろうか?
だが、いつか失ってしまった虎の子であった若手のことや、不器用ながらも愛情を込めて育ててくれた両親の死を思い出して無理やり頑張っているだけだ。
とにかく、魔術を覚えた者の数が増えるに従って、里の戦力は増強される事は間違っていない。
ゼスとしては今の時点でこれ以上を望む事が難しいことは理解していたので、今できることを粛々と行うだけである。
この里に暮らしていても、多少遠出すれば襲える隊商には不自由しないし、最近ではゼスの噂を聞きつけたのか、ある程度有力なオークの氏族も氏族ごと傘下に加わってきた。
もう少し魔術が使えるオーガの個体を増やすことも重要だろうし、可能なら自分が怪我を負った時に治癒を任せられるような腹心も育てたいところだ。
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