第四百七十五話 赤兵隊 9
7452年7月6日
何かやり残していた事はなかっただろうか?
バスコ・ベンディッツは団地の三階にある自室のバルコニーの柵に肘をつきながらぼんやりと外を眺めていた。
人口一万人の都市、べグリッツにはこの団地を除いて三階建て以上になる建物はない。
行政府でさえ二階建てだし、領主の館は平屋造りだ。
ちょっとした展望台とも言える高さからの眺めは少しだけ気持ちがいい……かと思っていたのだが、眼の前にも同じ設計の団地建屋が建っているので眺望は大したものではない。
顔を洗ってからシャツで拭っただけだったので前髪は少し濡れているが、微風に煽られてゆっくりと乾いていくのがわかる。
眺めているうちに朝焼けの空がだんだんと青みを増していく。
いい朝だ。
自身が所有する赤兵隊の隊員リストはとっくの昔に提出済みだし、行政府やリーグル伯爵騎士団から命じられた事務手続きや各種書類の作成も昨日までには全て済ませている……筈だ。
同じ団地建屋に住む事になった隊員達は勿論、その家族に対する設備の使用法も全員に指導した。
石造りだからと部屋の床の上で焚き火でもおっ始めないとも限らないからだ。
流石にこの時期にはないだろうが、買って来た肉でも炙ろうとするバカはいつでも、どこでも発生するという事は骨身に染みてわかっている。
警報装置のようなものが取り付けられているとは思えないが、万が一ということもあるし、何より焚き火の煙が窓から漏れてしまえば火事を疑われかねない。
前世同様にこのオース一般でも火事、それも失火や放火は大罪である。
放火は五親等まで死罪だし、失火でも三親等まで死罪なのだ。
勿論、部屋の中で焚き火を焚いたところで家財などに火が移らねば失火とは言えないだろうが、そんなもの、検分する騎士団員の胸三寸である事もバスコにはよくわかっていた。
そんなことでこれだけの住環境を失いかねないのだから、いくら口を酸っぱくしても充分という事はないのだ。
火の用心だけでなく、間違えて水の蛇口を開けっ放しにでもしてしまったら大問題だし、水洗とは言えトイレの清掃だってこまめにさせる必要もある筈だ。
とにかく、この建屋で共同生活を送るにあたって定めなければいけない掟も前世を思い出しながら本当に細かな部分まで定め、徹底的に叩き込んだ。
小さな子供以外に理解出来なかった者はいないだろう。
「ふぅ~~~……んんっ」
大きな溜め息を吐いて、両手を上に伸ばしながら思い切り伸びをする。
天は青く、どこまでも澄み渡っている。
続いて肩を回し首を左右に倒す。
そうしている間に笑みが浮かんできた。
何しろ、生活に必要になると思われる雑貨はタニアが揃えてくれていたのでもう余程の物でも見掛けない限り買う必要はない。
数少ない衣服についても洗濯が仕事の赤兵隊の婆さん連中に渡している。
屋上の半分近くがブッカンバとして開放されており、昨日のうちに取り込まれているのは知っている。
玄関を開ければ専用のカゴにきちんと畳まれているだろう。
そう言えば、なぜ物干場をブッカンバと言うのだろうか?
先日、伯爵騎士団で事務処理を手伝ってくれた元日本人だというカニンガムという女性従士が『屋上で床がある場所がブッカンバです』と教えてくれたのだが、そのブッカンバという言葉の意味がわからずに質問をしてしまったのだ。
答えは当然のように『洗濯物などを干す場所のことです』と返ってきたので、彼女が物干場の読み方を間違えているだけだろう。
もしくは、バスコすら知らないラグダリオス語の言葉なのかも知れない。コモン・ランゲージにも多くはないが日本語の単語と共通している名詞はあるのだから。
――今日は久しぶりに、本当に何もする必要がない日か。
勿論、腕が鈍らない程度に稽古くらいはするつもりだが、今日この日の大半は用事もなければ仕事もない。ついでに細かな心配事すらない日だ。
グリード侯爵に定められた出勤日は明日からなので、赤兵隊に訓練場の使用許可が降りるのはその後になると聞いているし、行政府や騎士団で魔物討伐の依頼でも来ないかと貧乏ゆすりをしながら苛ついて待つ必要もない。
これだけ大きな開放感を得たのは一体何年ぶりだろうか?
――ガキ以来、ってとこだろうな……。
髭を剃って身なりを整えたらべグリッツの散歩にでも出かけてみよう。
思えば、最後に散歩を楽しんだのは成人前、バクルニー王国のゲルトカウスという国境近くの街に詰めていた時以来だ。
あの当時は、父母も兄達も、姉も健在だった。
ゲルトカウスは北の地にあり、城塞都市としての整備が行われている真っ最中だったが、それだけに王国各地から出稼ぎのために工事の人足は勿論、場合によってはその家族までもが集まってきており、活気に溢れていた。
街を歩けば簡単な食べ物や安酒を売る屋台は当然、鋳掛け屋を始めとする流れの野鍛冶、異国の装飾品や衣類、怪しげな道具を並べる店や近隣の農家らしい者が手慰みに結った縄や草履を積んだ露店まで所狭しと並んでいた。
そんな中をタニアら赤兵隊の若年層と練り歩き、どうでもいい縄張り争いなどつまらない理由で喧嘩に明け暮れていた。
が、楽しい時間であった事は紛れもない事実だ。
そんな時間も僅か数ヶ月。
キーラン帝国の軍隊が攻め寄せてきたことで赤兵隊も否応なく戦争に巻き込まれていった。
尤も、そのために赤兵隊は雇われたのだし、遥々ゲルトカウスまで出張ってきたのだから文句を言う筋合いではないが、一〇代前半という貴重な時間を戦争に奪われたと思うくらいしても良いではないか。
「ふ……」
念の為に提げて来た歩兵用の剣の剣帯を直しながら僅かに口角が上がるのを意識する。
懐には大銅貨や銅貨ばかりでなく、数枚の銀貨もある。
余程の高級店でもない限りはどんな店でだって腹一杯飲み食いしてもかなり余る額だ。
ふと、どうせならタニアにも声を掛けてやるべきだったか、という考えが頭をよぎるが、そんな機会などこれから幾らでもあるだろう。
今日一日は全て自分の為に使ってもバチは当たるまい。
まずは朝飯だ。それも旨い奴を食わねばならない。
昔から安くて旨い飯屋を嗅ぎ分ける能力を持っていると自負している(勝率28%)ので、常に新規開拓に余念がない。朝飯も勝負の場なのである。
バスコは我知らずニヤニヤとしながら食い物屋の有りそうな通りを目指した。
・・・・・・・・・
トリスとロリックの二人はべグリッツで最高と言われる宿、サンクラットから朝食を摂りに出てきたところだ。
ロリックはともかく、トリスの方は妻のベルがリーグル伯爵騎士団のエムイー訓練宿舎で寝泊まりをしているし、今日は休日なので一緒に朝食を摂ろうと思えばそうできるのだが、朝食だけは起き抜けに食べたいのだ。
もう日は昇っており、サンクラットが建つ表通りどころかどこの裏通りの店も営業を始めている。
今日は何を食べようかと話しながら二人は取り敢えず数十m先の行政府前の広場を目指す。
広場には屋台料理を出す店が並んでいるし、その中には結構旨い食い物を出す店だって無い訳ではないのだ。
彼ら転生者のお眼鏡に適う目ぼしい屋台はせいぜい二~三軒と言ったところだが、前日に入荷する食材によっては驚く程旨いメニューにありつけないとも限らないので、まずは屋台のチェックから始めるのが通例だった。
広場に近づくにつれ、鼻腔をくすぐる匂いが濃くなっていく。
この匂いはバターとニンニクだ。
バターは僅か五〇〇gで二万Zと非常に高価な食材だが、それでもこのべグリッツでは生産者が傍に牧場を構えているだけに他の土地の半額以下で購入ができるようになっている。
スープ類に入れてコクを出すのもよし、焼いたパンに塗ってもよし、筋張った赤身肉に脂肪を追加するのも、苦くて食べにくい葉野菜類を炒めるのに使ってもいい、万能の調味料だ。
季節は夏なので溶けやすいのは確かだが、液体になって流れてしまう程ではないのでこの季節でも最近は屋台の料理屋でも使う所は増えてきている。
バターとニンニクが入ったスープを供している店があるのだろう。
水に適当な野菜類と何でもいいから肉、そしてニンニクとバター。
最後に塩と胡椒で味を調えるのだが、それは購入してくれた客に任せる。
塩はべグリッツから一㎞くらいのところに岩塩が採れる場所があるし、胡椒はそこら辺に幾らでも生えているのでこれで金を取る店はほぼゼロだからだ。
スープの屋台にはもう既に何人かの奴隷か平民が集まっている。
一杯幾らで供しているのかは知らないが、あの分では広場で一番の売上だろう。
匂いに誘引されるように、二人の足も堪らずにそちらへ向いた。
近づいて判ったが、スープを供する屋台は二人のお眼鏡に適った数少ない店だった。
「スープはあそこでいいか……」
「ああ、いいよ。あのスープは濃そうだから適当にパンでも買っていかないか?」
汁物を供する屋台では食器となる椀は必ず回収される。
持ち帰ったりどこか別の場所で食べたければ鍋や丼などの容器を持っていく必要があるのだ。
当然の如くそんなものなど持ってきていない二人なので、スープと一緒に何かを食べたいのであれば、あの店には食べたいものを買ってから行く必要がある。
そして、朝からパンを取り扱う屋台は無きに等しい。まずはパン屋へ行かなくてはならない。
二人には「パンを買う」と決めた時に行く店は決まっている。
その店は来た表通りと別の路地を少し行ったところで営業している。
その間にも飯屋は何件かあるので、そちらに吸い寄せられてしまう可能性もあるが、その時はその時だ。
広場を横断し、目的の路地へと足を踏み入れる。
「おい、ロリック」
「ん?」
トリスが路地の奥の方へ顎を向ける。
その先を見てみると、まだ疎らな通行人に紛れ、一軒の店の前で店員と話している男が目に入った。
黒髪で、ショートソードを提げている男は何やら熱心に尋ねているようだ。
「あいつは……ベンディッツ男爵か?」
ロリックの言葉にトリスが頷いた。
つい先日、紹介されたばかりの転生者だ。
記憶は新しい。
自分の傭兵団を引き連れて長旅をしていたというし、各種の手続きも必要なので今週一杯は休みを与えていると聞いている。
「何してんだろう?」
「さあ?」
二人には朝飯のメニューについて、その調理法に至るまで事細かに尋ねているなど考えもつかない。
「困ってんのかな?」
「そうかもな。行ってみるか?」
「ああ」
彼も元日本人なのだし、是非話してみたかったということもある。
いい機会だ、まだ朝だが彼も休みの筈だし酒くらいなら奢ってやれる。
尤も、男爵閣下だと言うから奢るのを拒否されるかも知れないが、その時は割り勘でも構わない。
『どうしました?』
トリスの声にベンディッツが振り向く。
眼の前にはそれなりの身なりをした二人の男。人種は精人族と普人族だ。
確か、カロスタラン士爵にファルエルガーズ士爵だったか。
「あ、おはようございます。これは、その……」
なんだか急に恥ずかしくなったバスコは頬を掻く。
『おはようございます。朝食ならご一緒しませんか?』
ロリックの言葉はバスコにとって渡りに船だった。
一つ一つのメニューについて根掘り葉掘り訊く、という行為を見られてしまったのはもう仕方がないが、地元の、しかも同じような味覚を持っていると思われる相手と一緒なら大外しはしないだろう。
ついでに、自分はともかく、二人は店の者に聞かれてもわからないように日本語で話してくれている。
そそくさと店員から一歩離れる。
店員は面倒臭そうな客の相手をしなくても良さそうになることを嗅ぎ取ったのか、さっさと店の中に引っ込んでしまった。
『あの店はあんまりな感じですよ』
肩を竦めながら言うトリスにロリックも相槌を打つ。
そうして三人は向いのパン屋へ入った。
・・・・・・・・・
『ああ、これは旨いですね』
オースでは珍しい小麦だけから作られたパンをスープ椀に突っ込んでバスコは感心の声を上げた。
屋台で購入したスープは期待通りの味で、あっという間に柔らかなパンに染み込む。
勿論高級品であるバターは多く使われている訳ではないが、かと言って少ない訳でもない。
言うなれば丁度よい感じだろう。
表面に浮く溶けた脂肪分もバターが二割で後は一緒に煮込まれている廃鶏からのものだ。
肉自体も丁寧に細切れになっており、まるで手間を掛けて作られた挽き肉のようだった。
一緒に煮込まれている玉ねぎやなんだか知らない葉野菜も良い味になっているもののしっかりと歯ごたえも残っている。
これが一杯一〇〇Zというのはバスコにしてみれば破格に安い。
屋台の脇の地面に直接座って食べるという行儀の悪い行為も、曲がりなりにも貴族が三匹集まってする事ではないが、夏の朝の涼しい風に吹かれてしまえばどうでもよくなる。
『でしょう? この屋台はいつも旨いし安いから俺達のお勧めだよ』
ロリックの言葉に大きく頷いて、またスープに浸ったパンを食べる。
大人の拳二つ分は優にあろうという大きさのパンは一個三〇〇Zとそれなりに値の張る逸品だったが、この柔らかさを知ってしまえばもう戻れない。
このところ爪に火を灯すような生活が続いていた事もあって、こういった高級パンからはとんと遠ざかっていたが、確かに小麦だけから作られたパンとはこういうものであった。
ここ暫く食べ続ける羽目になっていたパンは、ともすればサク芋や蕎麦、カラス麦などの方が割合として多い、焼き立てでもまずくて硬いパンだった。
『パンも旨いです。これだけふわふわな白パンを食べたのは久しぶりですよ』
バスコの言葉に二人は微笑んでくれた。
旨い旨いと言っているうちにあっという間に食事は終わってしまった。
この屋台はこれから贔屓にしようと名前を確認するとイミュレーク牧場という牧場が直接経営する屋台だという。
バターを始めとする各種乳製品や食肉の宣伝も兼ねているそうだ。
トリスもロリックも今日は一日休みだと言うので、恐る恐るべグリッツの案内を頼んでみたら快く引き受けて貰えた。
尤も、大して大きな街とは言えないので、案内など昼前には済んでしまった。
とは言え、道中でバスコは特に領主であるグリード侯爵やその奥方を始めとする転生者の話を聞きたがったし、二人の方はバスコの送ってきた人生や傭兵団の話に興味津々だったので存外に長引いている。
トリスとロリックの妻や従士だけでなく、戦闘奴隷が特別な訓練のために現在騎士団の宿舎に滞在しており、二人はその訓練の教官役だという。
また驚くべきことにこの西ダートでは毎週土曜日が休日と定められており、一部を除いて多くの者は仕事を休むのが常態化しつつあるという事も知った。
バスコ個人としては休日などあって当たり前で、効率を考えたらより良い仕事をするために必須の物だと言える。
しかし、同時に剣や槍、弓は一日稽古をサボれば目に見えて腕が鈍るため、赤兵隊に休日を定める事はなかった。
それは、普通の騎士団や商家、職人、農家、その他全ての商会などで休日など聞いたこともなかったから、という理由も大きい。
とにかく、厳しい訓練に明け暮れている彼ら彼女らも休みになるので自由に外出が許可されているという。
特にトリスなど、生まれて間もない赤ん坊を乳母に預けたまま自宅のある村からこのべグリッツに出張ってきていると聞いて、バスコはかなり申し訳なく感じてしまう。
朝の六時前から五時間以上も付き合わせてしまった事を詫び、バスコは二人と別れた。
しかしながら、晩飯は転生者を集めて食べようという事になり、店を指定された。
で、あればその時間までタニアと過ごすのも悪くはないだろう。
・・・・・・・・・
夕方。
アルが予想していた通り、またもやデーバス王国からの手紙が届いた。
内容は別にしても毎日届く手紙からして何らかの狙いがあるものであろう。
――どうせ大して変わらん内容なんだし、全部一緒に届けろよ……。
面白くもなさそうな顔で眉間にシワを刻み、アルは手紙の封を切る。
今回の差出人はヴァルデマール・ナバスカスという親衛隊で上級親衛隊員となっている元農奴の矮人族の男だった。
内容は、殆どお決まりになっている生まれの不幸や奴隷の悲惨さを訴えるところから始まり、人権だの解放だのアルにしてみればすぐにはどうしようもない事が切々と訴えられている。
そして最後には戦争などという野蛮な手段に訴えたアルの人格否定で締められていた。
但し、最後には
『我々親衛隊は今まで貴国との前線に出たことはありませんが、これまで経験した他国との戦闘には全て完膚なきまでの大勝利を納めております。先般行われたカンビット王国が支配していたカリード解放戦はご存知でしょうか? もしご存知でないのならよくお調べなされるべきかと存じます』
と書かれていた。
――昨日の女もそうだが、親衛隊って常設軍の一種らしい癖によく言うわ。しかし、カリード解放戦ってなんぞ? 調べてみる必要があるな。
早速、ミヅチの護衛と借りている闇精人族を呼ぶアルであった。




