第四百三十一話 立場
7452年2月12日
夜。
まん丸に輝く副月の光があまねく地上を照らす。
ジュンケル伯国の首都、ヘスケスより南東に約五〇㎞余り。
ゲルクの街を見下ろす小高い丘の中腹に生えている一本の大きな木。
その洞から人影が一つ現れた。
ミマイル・フォーケインだ。
「えーっと、あっちで良かったのかな?」
傍に侍るようにしていた靄に話しかけると、ゆっくりと歩き始めた。
最初に報告が齎されてから三ヶ月。
グリード侯爵に斬り落とされてしまった右腕の接続もほぼ終わっているし、斬り付けられて傷を負った身体各所の修復も終えている。
腕にはまだ僅かに痺れは残っているが、余程高い負荷でもかけない限りは問題ないだろう。
勿論、指先まで支障なく動く事は確認済みだ。
お気に入りだった白いドレスも、この一年近くに及ぶ生活で埃や土などで汚れているが、汗や垢による汚れは殆どない。
ミマイルは歩きながら埃を払い、ほぼ新品同様に戻ったことを確認すると嬉しそうな顔になった。
目の強膜は鬱血でほぼ真っ黒く変色し、瞳は妖しい金色の輝きを灯している。
美しく健康的だった色の肌は完全に血の気がなくなり、蝋のように白くなっていたが、ちっとも長さの変わらない髪だけは生前と同じ真っ青で美しかった。
「ん……せっかくだから何か食べたいな。あなた、ちょっと何か探してきて。あ、美味しいものよ。魔物はもう飽き飽きだから人間がいいわね」
そう言うと少し離れた場所に転がっていた岩へ向かう。
彼女が腰掛けるには少し大きいが、問題はそのくらいだ。
軽くジャンプをして岩に飛び乗ると、ミマイルは尻の当たる場所を手で払い、腰を下ろした。
両足は地面に届かずにブラブラとしている。
足には上品なデザインの靴を履いているが、飾り一辺倒と言う訳でもないし、踵もなく歩きやすそうだった。
と、急に薄く微笑んだ。
「あら、起きたの?」
ぶらつかせていた足を止め、足を組んだ。
両手は腰の脇で岩を突いたままだ。
「……どこって、あんたの腕を取りに行くつもりだけど?」
何となく恩着せがましい声音をする。
「……何でよ?」
少し不思議そうな声音も混じる。
「……負ける? この私が? あんただって起きたってのに?」
不服そうな色だ。
「……そう。まだ早いのね……って素直に言うと思うの?」
今度は蔑むような感じだ。
「あんただって結構眠ってたじゃない。あれからもう一年近く経つってのに、偶に目を覚ましたらお説教ばっかり! 魔力だってもういい加減、え?」
目を見開き、驚きを隠せていない。
「そんな……まだたったそれだけしか回復して……」
落胆、であろうか?
「わかったわよ……でも、食事くらいさせてよね。年が明けてからまだ一回も食べてないんだからさ」
組んでいた足を解くと、ミマイルはがっくりと項垂れた。
その様子は、楽しみにしていた行事の延期を告げられた子供のようであった。
・・・・・・・・・
7452年2月14日
今日は俺たち転生者の誕生日だ。
もういちいちプレゼント交換なんかやってないが、家族は別だ。
俺からミヅチへは大きくて豪華な鏡台を贈った。
勿論、鏡の部分だけは俺が手ずから作成した写りの良い、本物の鏡だ。
高さは一二〇㎝で幅は一m。
我が家の脱衣場にある鏡ですらもっと小さな物だし、そもそもあれは二枚のガラスの隙間に水銀を流して作った物なのであまり大きな物は作れない。
水銀流し込みの鏡は、ガラスとガラスの隙間の幅もあるが、一定以上に大きく(高く)なると、その密閉度合いにもよるけれど、どうしても上の方がね。
微妙な感じになっちゃいがちなのよ。
だからあんまり大きなサイズを作るにはゴムなど樹脂製のちゃんとしたシーリングが必要になる。
それだって一〇年や二〇年くらいはともかく、寿命はあるだろうからねぇ。
なお、解決策はある。
最初から薄っぺらい水槽みたいな形でガラスを整形すればいいのだが、これも隙間が薄過ぎると表面張力の問題で水銀が流れ込まないのだ。
何度か実験してみたが、ちゃんと流れ込ませられる隙間は最小で三㎜は必要になってしまうのだ。
そうなると水銀の量が増えるから耐えるためにガラスの厚みも相当な物にしなければならなくなるので重量は嵩むし、何より価格がね……とんでもない事になる。
ついでに、万が一割れでもしたら中に入っている大量の水銀が飛び散ることになるだろう。
猛毒なのでガラスの破片で傷でも負ってたら大変だ。
とは言え、蒸気になってもいないから直ちに問題がある訳ではないが、全く問題がない訳でもないからね。
水銀を挟むのであれば隙間はそれこそ紙一枚くらいにはできる。
この程度なら量は高が知れている。
とにかく、浴室の鏡台はそれを沢山並べているだけ(接続部は継ぎ目と共に木材で作らざるを得ないのでどうしても目立つ)なので、一枚でこれだけ大きな鏡は今のところ世の中でもこれ一枚しかないだろう。
当然ながら鏡台なのでその両脇には観音開きのように半分の幅で同じ高さの鏡もくっつけてある。
実は、昨年末に王都で鏡が作れそうだと思いついたので、戻ってきてから大至急で作らせた物なのだ。
木工業者に鏡を持ち込んで作成を命じたら、職人たちは全員が鏡の美しさに驚いていたっけ。
――俺の顔って、こんなんだったのか。結構いいじゃないか。
とか言っていた職人頭のおっさんや、
――え? 俺って目つき悪かったんだな。
――そんなの前から皆言ってたろうがよ。それより俺の眉の形、格好良くね?
などと騒ぐ兄ちゃんらを尻目に、木工商会であるデメフート商会の商会長の目前に金貨を積み上げて「何が何でも今日に間に合わせろ。しかし、少しでも手を抜いたら……わかってるよな?」と脅しつけた甲斐があったというものだ。
まぁ、こういう無理が言えるのも普段からワイングラスやタンブラー用、板ガラス用の木箱を大量に発注しているからなんだけどね。
ともかくそのお陰で鏡台を閉じた際の表面や机の側面、引き出し部などの彫刻は素晴らしく、軽く焦がして良い色になった表面は何重にもニスを塗った上で丁寧に磨いてあり、表面処理も完璧と言えるだろう。
勿論、物語の王族が使う鏡のように真珠や宝石などの派手な石飾りは一切無いのだが、これはこれでシックで素晴らしい出来だと思う。
そいつを寝室の一角にデデンと置き、帰ってきたミヅチを驚かせてやるつもりだ。
本当は焦ったデメフート商会が一昨日に運んで来たのだが、やはりプレゼントは当日がいい。
だから、梱包したまま倉庫に入れていたのだ。
ミヅチが寝室には家族以外、護衛ですら入れたくないと言っている以上、俺が運ぶしかないんだが、扉の前までは庭師のラセルナにも手伝って貰った。
そこで毛布の上に下ろし、あとは毛布を引っ張って敷居を乗り越えて運び込んだ。
念のため、後で敷居を見てみたが特に大きな傷にはなっていなかったので安心した。
まぁ、大きさもあってそれなりに重いのは確かだが、引き出しは全部取り外せるからね。
とは言え、ミヅチは想定訓練の再履修中であり、今月一杯は屋敷に戻って来る事はない。
それを考えると納品の期日はもう少し先でも良かったのだが、やはり当日までに物を用意するというのは最低限の行為であろう。
・・・・・・・・・
7452年2月17日
夜。
ロッコとジンジャーが行政府に来て晩飯に誘ってきた。
折角なので明日が休みのラルファとグィネも呼ぶことにした。
行くのは勿論いつものドリングルだ。
少し気取ってカムランでも良いんだが、ラルファとグィネが一緒なら海胆を始めとした海産物のあるドリングルがいいだろう。
そう言えば、他の奴らはともかく、ラルファやグィネと一緒にドリングルに行くのは初めてだった気もする。
何かで集まって飲み食いする時は、結構な割合でカムランを使ってたからな。
今回は俺を含めて転生者が過半数なのでドリングルのがいいと思うんだよ。
ロッコもジンジャーもカムランには何回も行っているしね。
たまには俺たちの好みに合わせて貰ったってバチは当たらんさ。
いつも座っている奥のテーブルに陣取ると、早速ビールを頼む。
「エール五つ!」
店の娘が注文を通す。
「あら、ファイアフリードさんにアクダムさんじゃないですか。今日はご領主様と一緒なんですね」
「うん。ケルシーも久しぶり」
「最後にここ来たのって去年だっけ」
そう言えば、この店で海胆を扱っているとミヅチに教えてくれたのはラルファたちだったか。
ギベルティからもこいつらがちょくちょく飲みに来ているとは聞いていたが、店で会った事はなかったような……。
まぁ、それ程高い店でもないし、従士の給料でも充分に飲み食い可能な料金だしね。
「ねぇ、何でいつもビールって言うの?」
ラルファが少し不思議そうに尋ねる。
確かに俺はバルドゥックに居た頃も、こういうムローワみたいな居酒屋では大抵、「ビールくれ」と言っていた気がする。
「ん。エールと言ってもいいけどな。何となくこういう居酒屋だとビールって言いたくなるだけで別に他意はないよ」
要はおっさんなんだわ。
「そもそもエール自体ビールの一種なんだからいいじゃないか。あー、あと何か適当に……刺し身の盛り合わせと、豚か鶏の焼き物でもくれ」
追加で注文をしながら肩を竦める。
ダート平原の辺りだと原料の一つであるホップはあまり育たないようで、この辺りで醸造されるエールはホップの使用量は少ない。
全く使わない物もあるし、そういうエールは苦味のないフルーティーな味と香りが特徴となる。
ホップを使わないと腐りやすくなるが、味は麦やエール酵母のどっしりとした甘みが感じられる。
従って、スッキリ感や喉越しなんかはゼロに近い。
多分だけど、だからこそエールを常飲しているオースの人たちに刺し身はあんまり好まれないのかも知れないね。
あー、勿論、このドリングルで扱っているエールはしっかりとホップを使ったスッキリ爽やかな苦味と喉越しのよい、ちょっとお高めなエールだ。
だからこそ、主人も海胆や刺し身を扱い始めたのだろう。
とは言え、下面発酵のラガーには及ばないので冷やして飲むと良いところが殆ど感じられず、ラガービールの出来損ないな感じになるから冷やしては飲まない。
「で、エムイー訓練の方はどうなん?」
ラルファがロッコとジンジャーに尋ねた。
「ん。今んとこは順調だ。な?」
「うん。一回やってるからか、結構スムーズよね」
二人はエールを飲んで答える。
トリスたちから俺が聞いている内容もほぼ一緒で、今のところ大きな問題は無い。
まぁ、偶に様子を見に行くとミヅチを筆頭に、バリュートもカムリもバルソンもクローもマリーも、全員がボロボロになっているのは相変わらずだけど、前回よりも確実に各想定訓練のクリア時間は短縮されている。
「それなんですけど、私達も一緒に受けられないのは何でなんですか?」
口髭に泡を付けたグィネが不平そうな声で尋ねてくる。
「お前らを推薦してくれた者がいないからだな……」
少しニヤニヤとしながら言った。
「エムイーは大きく分けて幹部コースと一般コースがある。幹部コースは騎士団の幹部向けでそもそも従士であるお前らに受験資格はない。一般コースは騎士団員に限らず受験は可能だが、そのためには騎士団の幹部か騎士団に所属していない貴族の推薦が必要だって言ったろ?」
グビリとエールを飲んで追加してやる。
「じゃあ貴族のジンジャーさんはともかく、何で他の皆は……」
「俺が推薦したし」
笑ってそう言うと、グィネは膨れ面になった。
まぁ、気持ちはわかる。
はっきり言って、今の訓練従士だと旧煉獄の炎の奴らを入れてもこの二人は飛び抜けて優秀な成績だ。
少し遅れてズールーなんかも続いているが、やはり隔絶していると言えるだろう。
「じゃあ、私が騎士団に入っていなかったら……」
「正騎士として叙任を受ければ……」
ラルファとグィネが同時に喋りだした。
それを聞いて思わず噴き出しそうになる。
確かにラルファの言う通り、二人が騎士団の従士でなければ多分昨年の訓練に参加させていたと思う……ような気もする。
そして、グィネが言う通り、順調に成績を伸ばし続けて正騎士として叙任させていたのであれば、幹部エムイーはともかくとして、一般向けのエムイー訓練には必ず参加させると思う。
もしも去年の六月に間に合っていたのならトリスやロッコ、ジンジャーなんかと一緒に訓練に放り込んでいたのは確実だろう。
だって、それはつまり、彼女ら二人は騎士たるべき技倆や知識は勿論、精神的にも水準を満たしている事になるんだしね。
「別に焦んなくてもいいだろ。まずは正騎士になることを考えろよ」
また一口、エールを飲んで言ってやる。
それが出来りゃ苦労しない、とでも言うように二人は顔を歪めた。
まぁそうだよね。
自分の成績は分かっているんだし、それが優秀な成績だという理解だってしているんだろうから。
「別に大将はお前さんらの事が嫌いだとかそういう理由で騎士の叙任を認めていないんじゃないと思うぞ」
既にジョッキを干したらしいロッコが空になったジョッキを掲げてお代わりを催促しながら言った。
「うん、そうね。私もそう思う……」
ジンジャーもそう言うとエールを飲み干した。
「……焼酎頂戴! ストレートで」
相変わらず酒豪だな。
確かに彼女はバルドゥックでもヒスと一緒に焼酎ばかり飲んでいたっけ。
「お待たせしました。お刺し身の盛り合わせです!」
店の女中が刺し盛りを運んできた。
ちゃんと殻付きの海胆もある、俺的に大満足の一品だ。
厨房からはじゅうじゅうという、フライパンか何かで肉を焼くような音がし始めている。
ロッコやジンジャーは肉の方が好きだろうしね。
「ねぇ、何で私達には誰も推薦してくれないの?」
ラルファが両手でジョッキを挟んで言った。
グィネもうんうんと頷きながら俺を注視している。
「それ言ったらさ……不公平だろ」
予めテーブルに重ねてあった小皿を一つ取り、煎り酒を垂らしながら言ってやる。
「でも、まぁ、一つだけ教えておいてやる。エムイーは単なる資格だからな。だから想定された基準以上の成績を修めさえすれば受験者は誰でも取得可能だ。対して、騎士は資格じゃない。立場だ」
そう言うと、刺し盛りの皿の縁に盛られた下ろし生姜を摘んで鯵らしい青魚の刺し身に乗せ、煎り酒の小皿につけた。
美ン味!
新鮮だね、こりゃ。
やはり青魚は鮮度が命だ。
なお、関東出身なので白身と赤身は鮮度よりも多少熟成させて旨味が増した方が好きだ。
お、ラルファもグィネもまずは海胆から行くか。
最初に美味いものを食うのも食欲が増すし、それもまたアリだよな。
「立場って……」
「どういうことですか? 部隊の指揮官が騎士でしょう? なら……」
二人は難しい顔になるが、よくわからんという感じだ。
「お前らもそろそろ入団して二年が経つ。自分の足りない所くらい気が付いてない方がおかしいぞ」
羽太科らしい白身の刺し身を口にして言ってやった。
ハタは味濃くていいよね。
醤油は煎り酒があるからいいとして、山葵が欲しいところだが。
二人はもう寸前、あと一歩というところまで来ている。
成績が下の者には丁寧な指導を行っているとも聞いている。
良いことだ。
また、最近では自らを律せるようになっている。
昔のようにへべれけになるまで飲み歩くこともなくなった。
騎士団の宿舎でも規則正しい生活を心掛け、知識の吸収や戦技訓練にも真剣に打ち込んでいる。
これも良いことだ。
更に、上席者である正騎士の言う事には反射的な言葉を返さず、しっかりと意図を咀嚼した上で文句一つ零さずに従っている。
当然ではあるが、良いことだ。
だが、ここまでなら単に優秀な兵隊なのだ。
勿論、現在の正騎士連中もその大半が俺が赴任する以前に正騎士の叙任を受けているのでこのレベルの者だって居ない訳じゃない。
だからこそ、二人が不満を持っているのを知っているし、理解もできる。
「はい、厚切りベーコンとホロホロ鳥のアブラ焼きです」
まだじくじくと脂の音がする二つの焼き肉を女中が運んできた。
ロッコとジンジャーが嬉しそうにフォークを伸ばす。
さて、こっちはお楽しみの海胆に行こうかね。
っていつの間にか海胆の殻は空になっていた。
海胆は三つもあったのに一欠片すら残ってない。
よく見るとラルファとグィネの小皿にはオレンジ色の欠片もある。
いやまぁ、また頼みゃいいんだし、別にいいけどよぉ。
そういうとこだぞ。




