第四百二十七話 大市 2
7452年1月8日
早朝。
べグリッツの屋敷でアルとミヅチはいつも通り、夜が明ける少し前に目を覚ました。
「ん……おはよう」
「ああ、おはよう」
ベッドから立ち上がると、寝間着のまま二人で洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。
豚の毛で作らせた歯ブラシに塩を塗ったものは、慣れると現代の歯磨き粉などより余程爽快であり、歯茎も引き締まって歯槽膿漏とは無縁になる。
それから鎧下に着替えてゴムプロテクターを身に着けるとまだ真っ暗な庭に出て体操だ。
大市も終わりに近づいただけでなく、時間も時間であることから流石に多少は静かになっているものの、未だ騒ぐ声も聞こえている。
五分で体がほぐれ、一〇分で薄っすらと汗を掻く。
屋敷の門を固める二人の衛士の手で門が開けられる。
ミヅチは通りに転がっている適当な石を拾い上げ、長期ライトの魔術を掛けた。
使用する魔力量は一〇〇ポイントと、二時間程度のランニングでは回復しない量だが、これも魔術の修行の一環だと割り切っての行いである。
屋敷の前の通りを郊外へ向かって進むと、最初の十字路に数人の男女が屯していた。
彼らは大市のために領地から出てきた元殺戮者のメンバーだった。
互いに挨拶を交わしながら合流し、一行は市街地を抜け耕作地へと進む。
と、いつかのように誰かが歌い出した。
少し調子外れで歌詞も碌に覚えておらずに適当な発音の声を上げ始めたのはゲクドー士爵であろうか。
「……テンカノケー! カンコッカンモオノアラズ~!」
歌詞を覚えている者も指摘せず、苦笑い一つ浮かべないまま黙々と走っている。
ゲクドー士爵が歌い終えたら別の誰かが歌うのだ。
連続歩調程度ならともかく、走りながら大声で歌うのはかなりきつい。
そしてたっぷりと二時間。
辺りは漸く明るくなり始めており、ライトの魔術も必要なくなってきた。
一行が合流した十字路まで戻って来るとアルは解散を宣言する。
「じゃあ、皆、お疲れさん。また後でな」
屋敷に戻ったアルとミヅチは汗を流すために風呂桶をお湯で満たし、手桶で湯を汲むとザブザブと頭から被り、ざっと汗を洗い流す。
そして仕上げとばかりにドブンと湯船に浸かり、数分で上がる。
濡れた体や髪を魔術を使って急いで乾かすと脱衣場に用意されていた下着や服を身に付け、食堂へ向かう。
ランニング中もピタリと付いてきていた二人の護衛はここで交代だ。
既に出勤していたラリーが用意していた朝食を摂り、ミヅチはアルソンに母乳を与える。
なお、彼らが朝食を摂っている間にランニング中の護衛に付いていた闇精人族の二人は残り湯に入っている。
護衛達は当初こそ畏れ多いと遠慮したが、汗まみれのまま屋敷をうろつかれたくないバルトロメとお湯が勿体ないし、事後の掃除さえしてくれればいいからとミヅチが護衛達にも妥協できそうな案を出したために領主家族以外にこの浴室を定期的に使用できる役得を享受していた。
今では入浴もほぼ習慣化され、合計八名からなる護衛全員はすっかりと気に入っている。
朝食を終えると行政府へと出勤するのだが、二人は未だに馬車を使わずに徒歩通勤で済ませていた。
職場まで僅か二〇〇m程度しかないことと、そのために馬車を用意させる手間と時間を惜しんでの事で、それについては護衛だけでなく行政府内や騎士団からも異論は出ているのだが完全に黙殺の構えであった。
そして昼。
前日から引き続いて会議室に用意されている宴会場にはエーラース伯爵領から招かれた貴族連中や騎士団の幹部が集まっている。
エーラース伯爵領の交流会は二日後の最終日に予定されており、本来なら今日はランセル伯爵領の交流会となる予定であった。
しかし、昨年末に行われたミューゼ防衛戦で得た捕虜の身代金リストが昨晩遅くに届いたため、急遽予定が変更されていた。
そういった事もあって、今日はエーラース伯爵領の者ばかりが集まっているために、ここで話される話題は、当然のごとく昨年末近くにあったデーバス王国からの侵攻だ。
低戦力ながら首尾よく撃退出来た事に加え、被った被害も極小な割には得た捕虜も数が非常に多かったため、もう既に伝説化されている。
それらのある意味でホットな話題に加えて、今日は昨年末にミューゼへやってきたデーバスの使者が携えてきた捕虜の買い取り条件の発表もあり、エーラース伯爵騎士団を中心に明るい声が会議室に響き渡っていた。
「あの副騎士団長とやら、子爵なんだから二八億は安すぎるだろ」
「ええ!? 仮にも上級貴族なんだから三〇億が最低線だろ?」
「値切ってきてやがるな」
「本当、ボロ負けしたくせに生意気だよ」
デーバス王国が提示してきた捕虜解放(買い取り)の身代金として提示された金額のうちで有効なもの(捕虜として生存が確認されている者)の合計金額は四九億Zあまり。
身代金のリストには一三〇名余りの人名と金額が記載されていたが、身代金の対象者を確認したところ貴族や平民を中心に合計八三名に上っている。
デーバスからの使者は、肝心のアルが王都からまだ帰還していなかった事もあって、返事にはまだ時間が掛かると言ってミューゼ城内に留めたままだ。
リストに掲載された捕虜の生存確認もあるが、責任者であるアルの裁可があるまで現場で勝手に返答する訳にもいかないからだ。
因みに、身代金の相場だが、西オーラッドだと対象が騎士であれば最低でも一〇〇〇万Zは行く。魔法が使えるなら倍以上になることも珍しくない。
また、対象が貴族階級であれば最下層の准爵であっても最低二〇〇〇万Z。
魔法の特殊技能の有無や年齢、家中での重要度に応じどんどんと高くなるが、それでも最高で六〇〇〇~七〇〇〇万程度だろうか。
確かに王族だろうが公爵の第一子だろうが、はたまた寒村を治める士爵の五女だろうが正式な爵位を得ていないならおしなべて准爵だが、戦に出る年齢にもなって正式な爵位を持っていない程度の子弟などその程度、と見做されてしまうからだ。
そして対象が士爵位であれば最低五〇〇〇万Zからとなる。
これは対象が領主など土地持ちの士爵であればその土地の人口や産業などが考慮されて加算される。
昔のバークッドのような、本当に小さな村を治めていたとしても領主士爵なら一億超えが当然で、場合によっては五億に到達してもおかしくはない。
対して、例えば更に上位の貴族家の従士を務めている士爵みたいに治める領地を持たず、魔法も使えないような士爵で、且つ独身などであれば本当に最低線程度の身代金すら払って貰えない事も珍しくはない。
このように、元々捕虜が所属していた社会において、どの程度重要な人物であったかが身代金の額には大きく反映されてしまう。
捕虜には当然、
「お前には幾ら幾らの身代金が払われる以上、解放してやろう」
だとか、
「お前如きには相場程度も払うのは惜しいと思われていたらしいな。売り飛ばしてやるわ」
「はぁ? 身代金? そんなの払う奴いねぇってよ。ギャハハ! お貴族様に連なる血筋だけに慰み者にして散々楽しんだ後で売るわ。ほれ、大人しく出てこい!」
などと伝えられて、それが悲喜こもごものドラマになる。
今回は騎士団員やその私兵が中心であったことから、捕虜には領主貴族など殆どいなかったために、人数の割には大して高くはならないであろう事はリスト作成の時点である程度判明していた。
尤も、人数が人数なので全体としてみれば、近年稀に見る程――コミン村を占領された際に支払った金額など眼中にないくらい高額な身代金になっている。
「静まれ!」
報告を受けたアルの声で会議室は一斉に静まり返った。
「先程誰かがちらりと申していたが、白凰騎士団の副団長とやら、子爵にもなって二八億とは舐められたものだ。だが、他の者は概ね妥当と言えるだろう。そして交渉が長引いても功労者に与える報奨の時期が遅れるだけだ。私としては、使者の裁量範疇であろう一割アップで手を打とうと考えている。異論のある者は居るか?」
返事はない。
これで身代金の額は子爵の二八億Zの一割アップ、三〇億八〇〇〇万Zとなり、合計五二億Zと決定された。
得た身代金のうち、四分の一は国庫へ、四分の一は中核戦力が所属していた軍(第二騎士団)が、四分の一は捕らえた者が所属する部隊(南方総軍)が、残りの四分の一が捕えた者に入る。
今回の場合、捕虜獲得の手柄の大部分はアル個人に帰するのは誰が見ても明らかである。
「私は捕虜の身代金については半額(全体の八分の一)を申請し、今回の戦死弔慰金はここから出すつもりでいる。残りの半額はエーラース伯爵騎士団と第二三三中隊とで分けよ」
その言葉に当のエーラース伯爵騎士団団長であるケヒューズ准男爵と二三三中隊の中隊長は破顔する。
五二億の八分の一、約六億四〇〇〇万Z。
ミューゼの防衛戦に参加した者の数はエーラース伯爵騎士団と二三三中隊を合わせて約四〇〇名。
そこにアルが連れてきたゼノムや戦闘奴隷を合算したとしても、一人頭で一五〇万Zを超える臨時収入だ。
勿論アルとしてはゼノムはともかく、戦闘奴隷の分を主張するつもりはない。
因みに、エーラース伯爵代官であるバルトリム伯爵や他の街を治める領主にも僅かながら喜んだ者もいた。
金を得た兵隊は酒を飲んだり少し贅沢なものを食べたりして浪費するものと相場は決まっていたからだ。
続けてアルは、
「また、戦力の中核を担っていた王国第二騎士団だが、王国とはダート平原に駐屯している各部隊に優先して支払われるよう交渉するつもりだ。まぁ、どこまで認められるかはわからんが、これは駄目で元々だな。あと、南方総軍に支払われる筈の報奨は全て武装の新規調達や兵の雇用費に充てて戦力の拡充を図るつもりだ」
と宣言し、身代金についての話を終えた。
なお、当然だが兵の新規雇用費はともかく、武装の新規調達費に占める半分程度はグリード商会が扱うゴムプロテクターだ。
残りの大部分は今回ミューゼの防衛戦で鹵獲した敵の武装の修繕費用になるだろう。
エーラース伯爵領の鍛冶屋など、武器防具を扱える業者は一時的ではあるもののかなり潤う事になる。
その後は領都であるラムヨークまで伸ばした馬車鉄道の路線を、当面はミューゼに対して延長する事を告げてアルとミヅチは会議室を後にした。
ミヅチと別れたアルは少し離れた小会議室に足を運ぶ。
騎士団に収監されていた冒険者や隊商の警備としてべグリッツに来て、傷害など犯罪行為を働いたために逮捕・拘禁されていた者に対する保釈金を受け取るためだ。
殺人や強盗などの重犯罪はともかく、今回の大市に関する逮捕者はほぼ全員がそこまでの罪ではないため、ごく一部の無反省者や重犯罪者を除いて保釈金による放免を各商会に伝えていたからだ。
予想した通り、保釈金を積んでまで警備に雇っていた冒険者を引き取りたいと名乗り出た商会はゼロ。
僅かに護衛の戦闘奴隷の解放を願い出ていた幾つかの商会のみで、得られた保釈金は数百万程度と雀の涙だった。
が、これで明後日の大市最終日に予定されていた目玉興行、犯罪者の裁きについて人数や罪状などのリストを行政府を通じて発表できるようになった。
・・・・・・・・・
7452年1月10日
朝。
行政府の二階にある執務室の窓から広場を見下ろす。
大市の終了も近づいていた昨日までと比べ、ものすごい人出だ。
これ初日より多いんじゃね?
当初の予定通り、昨晩から広場の外周にあるごく一部の露店を除いて全ての露店を解体してどかし、刑場を作っている辺りのみ、警備の騎士団員を除いて人の姿が見られないが、その分狭くなった広場はとんでもない人口密度を誇っている。
スリだのなんだの、新たな犯罪者が出る温床かもしれんね、こりゃ。
「皆、裁きが好きなんだな……」
ポツリと出てくる言葉にソファで事務処理の傍らお茶を飲んでいたミヅチが肩を竦めている。
まあ、分かりきった事だったな。
あと数十分で広場の端で俺が作ったガラス製品の競り販売が行われ、それが終わり次第裁きが開催される予定なのだ。
「次回からは、大市の開催場所について、郊外に移動した方が宜しいかも知れませんね」
インセンガのおばはんがわかったようなことを言うが、耕作地でも潰さない限りそれは難しくないかね?
「郊外ってどこで?」
俺と同じ疑問を抱いたらしいミヅチが質問をしてくれた。
「そんなの決まっております。騎士団の訓練場を使えば宜しいではありませんか。あれだけ広くしたのですから……」
むぅ。
確かに騎士団の練兵場は少し前に大きく広げていた。
一㎞四方、一〇〇haはある。
広さから言えば、この行政府前の広場は直径一〇〇m程度の円状なので、ざっと一三〇倍近い面積だ。
その一割でも大市に開放してやれば、露店以外に宿泊用の天幕を張る場所にも事欠かないだろう。
だが同時に、難しい問題も浮上してくる。
天幕を張って泊まる事に満足できる奴はそれでいいだろうが、王都からやってくる大店の商会長や番頭なんかには貴族だって居る。
そういう人はちゃんと屋根のある宿に泊まりたいだろうし、街なかと練兵場までの足や、一般参加者の交通の便だって考えなきゃいけない。
トイレの問題だって馬鹿には出来ない。
なんつーの? 野外ロックフェスみたいな問題が発生するだろう。
治安上の問題なんかその最たるものかも知れない。
それに、将来的には恒常的な市場だって開設したい。
そういった事を考えると、市街地の近くに専用の場所(建物を含む)を確保した方がまだ色々とマシな感じだろうなぁ。
でもそのためにわざわざ切り拓いた耕作地を潰すってのもあれだよなぁ。
あーもう、悩むくらいなら屠竜使って適当なダート平原の端っこでも……流石におっかねぇわ。
いや、ダート平原じゃなくて、普通にべグリッツとミード村の中間……いや、海産物の扱いとか考えたらハッシュ村の郊外を切り拓いて専用の市場を作った方がいいか?
……ハッシュ村にこれだけの人数を収容する余裕なんてねぇわ。
やっぱべグリッツの傍じゃなきゃ無理か……。
いいや、もう。面倒だしジャバ、もとい、ハリタイドに考えさせよう。
奴も士爵になってんだし、貴族の心配をさせてやりゃあいいさ。
そうこうしているうちに、競り市の会場テントが張り終わったようだ。
もう会場を開けてオークションの招待状を持つ商会を引き込み始めている。
んじゃ、様子でも見に行きますかね。
・・・・・・・・・
オークションは一時間ちょいで終わった。
なにせ、出品した数が大したことないからね。
板ガラスが八枚一組で五組、合計四〇枚に、ワイングラスが一〇組二〇脚だけなのだ。
因みに板ガラスは平均して一組四四〇〇万Zくらい、ワイングラスはこちらも一組あたり七〇〇万くらいで競り落とされた。
王都で売っている金額にすら達しなかったら次からはもう止めよう、と思っていただけに活発な入札に驚いたくらいだ。
だって、べグリッツからどこかへ運ばなきゃなんないんだぜ?
途中で傷つく程度ならまだしも、割れでもしたらその商会は大損ぶっこきになる。
怖がって誰も入札しないんじゃないかと心配していたんだけどな。
まぁ、落札した商会は半分くらいが王都に本拠を持つ大店だったが、中には近傍の領地から来た中堅の商会もあった。
そういったところはその領土を治める貴族家などから購入の要望でもあったのだろうか?
そうかも知れないし、どこか別の商会にでも転売するつもりなのかも知れない。
どっちでもいいが、落札した中堅の商会の人たちは皆ホクホク顔だったのが印象的だった。
どういった物でも地元や王都の大店以外の商会に喜んでもらえるのはいいな。
因みに、我がグリード商会は開催三日目にして露天に並べていた全商品を売り切っていた。
どうせ誰も買わないだろうと賑やかしのために洒落で置かせていたゴムボートすら売れたのにはびっくりだよ。
だって、オール抜きで八〇〇万Zだぜ?
ウチの騎士団でも訓練用に二艘だけ購入しているけど、それだけの金を払う価値があったのかと言うとな……空気抜いて折り畳むことである程度楽に運べるのはいいけど、同じくらいの大きさの普通の木造ボートなら五〇万くらいで買えるし。
折り畳んで陸上を運ぶ事が利点になるのなんて……軍隊くらいじゃねーの?
それも、渡河とか湖を渡るような必要のある領土じゃないと意味ないだろ。
まぁ、そんな領土なんかどこにでもありそうだけど、今回売れたボートで、通算六艘目という低販売量だ。
ウチの騎士団以外だと王都の第一騎士団が三艘買っただけというショボさだよ。
今回購入してくれたのは観光都市ドランのあるロンドール公爵領に本拠を構える聞いたこともない商会だった。
珍しいゴム製のボートだから、観光客相手に池に手漕ぎボートを浮かべて商売をしているとこに売れるだろうと見込んでのものらしい。
そんなしょっぱい商売をしている小さな商会が八〇〇万で仕入れたようなボートなんか買う訳ねーだろ、と思ったが売れた後で報告を聞いただけなので俺は肩を竦めて心の中でお礼を述べるだけで済ませた。
午後から行われた裁きについても死罪を申し付ける程の重罪人がいなかったのでサクサクと進み、予定通りに終わることが出来た。
しかし、大市はこれ、相当に儲かりそうね。
ジャバは本当に大したもんだな。




