第四百二十五話 大市 1
7452年1月2日
「大盛況ですね」
にこにこしながら言うインセンガ事務官長に「ああ」と、こちらも笑みを浮かべて返事をしながらアルは行政府前の広場を巡っていた。
広場には様々な店が立ち並び、べグリッツの住民の他にも仕入れに来たらしい近隣の商人が入り乱れている。
開会宣言を行った後、せめて一周くらいはしておかねばと、インセンガと二人で広場を回っているのだが、これだけの人出となると、騎士団から護衛に付けられている四人の従士は大変な思いをしているだろう。
露店はしっかりとした屋根まで備えた立派な建築物と言えるようなものから、商品の展示台のみを置いた簡易なものまで様々だが、一等地である広場には地べたに敷布を敷いただけの、本当に簡易な露店は一店もない。
――流石にショバ代を払うような商会がそんな粗末な店は広げないわな。
前後左右を従士に囲まれながら、二人はキョロキョロと店を冷やかし、一店ずつ声を掛けて商売の様子や商人の満足度を確認していた。
広場の大きさは直径一〇〇m程度のほぼ円形であり、然程広いと言う訳でもないが、立ち並ぶ露店で複雑に入り組んだ迷路のようになっている。
全部に声を掛けて回るにはたっぷり二~三時間はかかるだろう。
そうして幾つもの店を巡り、ある店に辿り着いた。
敷地面積が広く、露店にしてはかなり立派な構えをしている。
王都から来た大手の商会だろう。
「やあ、こちらの店はどちらの商会かな?」
店に立つ店員の一人に、後ろに手を組みながらアルは気さくに尋ねた。
「や、これはグリード閣下! こちらはディッケル商会です! この度はお招きいただきまして……今番頭を呼んで参ります!」
店員は展示台の下から這い出すと、あっという間に人混みの中に消えていった。
その様子を見送りながら、アルと事務官長はやれやれという顔でお互いを見やる。
店の展示台には各種の植物の種や実などが綺麗に種類別に分けられて所狭しと並んでいる。
その奥では在庫管理を兼ねた数名の店員が忙しく客の応対をしたり呼び込みをしていた。
待つこと二分程で先程の店員が一人の男を連れてきた。
男は中年の精人族で、柔和な印象の表情をしているが、急いで来たのか少しばかり息が乱れていた。
「すみません、お待たせしまして。私がディッケル商会で番頭を預からせて頂いております」
丁寧に頭を下げるその所作は、貴人に対する礼儀を弁える教養の高さを裏付けている。
「ああ、宜しくな。私がこの地を治めるグリード侯爵だ。ステータスオープン」
互いに握手をしてステータスを確かめると、アルと番頭は短い世間話に興ずる。
しかし、その内容は商品作物の相場や今後の見通しなど、散文的な内容で満たされており、高貴な者の会話と言うよりは、まるで商人同士の会話のようであった。
そうした中で一つの単語が飛び出してきたのは偶然だった。
「皮茸?」
ついこの前耳にした菌類の名に、アルは反応する。
現物は王都から昨日持ち帰ったばかりであり、それはそれは貴重な物であると聞かされている。
隣で聞いているだけのインセンガ事務官長には“ルッジ”という単語から茸類の一種であろうことしか分からない。
「ええ。閣下に於かれましてはライルの品にも通じているかと……」
「ああ、妻の出身故、それなりにな」
――そういえば、皮茸は椎茸みたいに干物だった。戻さないと食えないから、ミヅチは屋敷に戻ったのか……。
土産に貰った茸を思い出すと同時に、午前中のうちに姿を消した妻の行方に思い当たるアル。
「何でも、百薬の長とも言われる非常に貴重な物であると」
「ほう、薬になるのか?」
「ええ、私は会長よりそう聞いております。もう何十年も前に一度だけ手に入れた事があって、その時はカンビットの商会にとんでもない価格で売れたと。もしも仕入れられるのなら、言い値で購入させて頂きます」
「へぇ。それは大した物だな。何の薬になるんだ?」
「万病に効く薬になるという話もございますが……ここだけの話、惚れ薬を作るのに絶対に必要な材料だそうです」
「は!? 惚れ……」
「おっと、お声が大きゅうございますよ」
「あ、ああ。済まないな。だが、もしもそれが本当なら、確かに金に糸目は付けられないだろうな……」
実は、確かに皮茸にはそのような効能があった。
惚れ薬とでも言うべき水薬の作成自体は可能で皮茸もその材料として数えられている。
だが、必要とされる材料は皮茸どころではない貴重な品々が必要であり、更には作成者にアル並みの魔力や魔法技能も必要なうえ、その作成方法を知る者などほぼ居ない。
もしも居るとすれば、神かその眷属である不定命者くらいであろうか?
しかも薬品類や菌類に対してそれなりの造詣が深い者だろう。
例えば、かつていたルスック・ズグトモーレというイモータルが仕えていた神などである。
ある意味で夢の薬品とも評されるであろうその名を耳にして、アルはゴクリと唾を飲み込んだ。
昨晩、妻に土産として皮茸を渡した時にはそのような話は一切出なかった。
ミヅチは皮茸の名すら知らなかった様子であり、一緒に同封されていたメモにもそのような事柄は記載されていなかった。
ただ戻し方の方法が書かれていただけだ。
菌類であることから、煮たり炊いたり揚げたりなど、まずどのように調理してもそれなりに美味しく食べられると思われたので、アルも「折角だし、明日食おうぜ」と言ってしまったのである。
珍しい食材でもあるので、料理法や戻し方、味を学ばせるためと、ギベルティにも声を掛けている。
「干した皮茸なら粉末でも宜しいみたいですが……」
「ちょ、粉末でも良いって、少量でも良いのか?」
「私では一回分を作るのにどの程度の量が必要になるのか分かりかねますが、干したものでないと駄目らしいです」
もう会話を打ち切りたくて仕方がなかった。
一秒遅れれば致命的かもしれない。
この広場からなら、屋敷までは二〇〇mだ。
ここは人混みが凄いので流石に走るのは無理だが、急げば二分で辿り着ける距離だ。
・・・・・・・・・
「えーっと、次はね……水を一回全部捨てて」
「はい」
ミヅチの言葉にラリーは鍋の縁に手を当て、慎重に水だけを流しに捨てた。
一時間と浸していないにも拘わらず、もう既に水は真っ黒いインクのようになっている。
この最初に戻した水には灰汁も含まれており、香りも移っているが食用には適さず、捨てるしかない。
「新しい水に入れ替えて」
「はい」
ペラ紙に書かれている闇精人族語を読みながら、ミヅチは鼻から大きく息を吸い込む。
厨房には香ばしい上に柔らかく、それでいてどこか甘さも感じさせるような……彼女にとって懐かしい、茸類でも最上と思われる食欲をそそる香りが漂っているのだ。
アルやミヅチに言わせると、香り高く味も良いとロンベルト王国で珍重されている白黒のトリュフよりも馴染む香りであり、彼らが生前から良い香りだとされていた松茸すら後塵を拝するだろうとのことである。
勿論、生粋のオース人であるラリーにしても「これはなんだか食欲をそそる良い香りだ。これがあの、ご主人さまや奥様方の仰られるショーユに似た香りということか」と感心していた。
が、彼の個人的な好みとしてはトリュフ、しかも白い方のがずっと良いとも思っている。
ちなみにこの香りは日本人なら「うん、醤油っぽくもあるよね」という香りなので、長らく触れていないアルやミヅチにしてみれば中々に郷愁を誘う物であり、その分贔屓目も大きい。
「あ、水はまた井戸水を使ってね」
「ええ」
厨房の隅に置いた水瓶から柄杓で鍋に水を入れる。
水を零さないよう、結構な大きさの鍋を抱え、空いた手で柄杓を動かすのは地味に筋力を必要とする。
「そしたら塩をひとつまみ。いえ、小さじ一杯くらいかな。あと……この量だと三本半の唐辛子を輪切りにしたものを追加して」
「わかりました」
言われた通り少量の塩と輪切り唐辛子を入れ、塩が均等に溶けるように少しかき混ぜる。
「あとは暫くそのままね」
「まだ火は入れなくて宜しいので?」
「うん。もう少しして一度様子を確認してからね。茸が少し糸を引くようになってからみたいね」
そう言うとミヅチは読んでいた羊皮紙を棚の上に置き、ラリーに俎板を用意させた。
ついさっき、大市で仕入れてきた野菜類を使って下拵えをするためだ。
布袋からまだ土が付いたままの人参やコーミ芋を取り出して流しに置く。
これらの根菜類は季節外れのため法外な値が付けられていたのだが、流石に王都からも大手の商会が集まってくる大市であるためか、少量ながら物自体は扱われていたのだ。
根菜類を洗い、ラリーに皮を剥かせると、ミヅチは自ら包丁を握って食材を切っていった。
別段技術など必要としない乱切りと半月切りだ。
「じゃあこれは鍋に入れておいて」
「水は?」
「あ、浸かるくらいで」
「はい」
切った根菜は全て鍋に放り込まれ、水も入れられた。
「あ、油を用意しておいて」
「はい。テンプラですよね。油はごま油で宜しいですか?」
「うん……そうね」
ラリーはコンロに天ぷら鍋を置くと油の入った壺に手を伸ばす。
「あ、今日、良いネタが揃ってるし太白油の方がいいわね」
「焙煎と混ぜなくても?」
「うん。太白オンリーでいいわ」
焙煎ごま油の入った壺へ伸ばしかけた手を太白ごま油の壺へ伸ばし、透明に近い油をたっぷりと鍋に移した。
「じゃあ魚の方の下処理をお願い。私は海老の方をやっとくから」
「はい」
ミヅチは丈夫な木の棒を細く削って作られた串を、まだ殻の付いたままの海老の背側真ん中あたりに差し込むと背わた(腸管)を引っ掛けて抜き始めた。
・・・・・・・・・
近いから屋敷まで用を足しに行ってくる(行政府の方が余程近いが)と言い置いて、インセンガ事務官長の返事すら聞かないまま、アルは屋敷へと向かった。
広場から屋敷へと続く通りだけは露店を禁止しているため、途中からは全力疾走だ。
門を守る衛士の敬礼をすら無視して、直接厨房へ入れる裏口に向かう。
「ミヅチ!」
裏口の扉を開けるなり叫ぶが、直後に厨房内に充満する皮茸の香りを鼻にして、扉に手を掛けたままへたり込む。
「どうしたの?」
ミヅチとラリーが驚いた様子でアルを見つめる。
まだ全部使ったとは限らないではないか。
そう思ったアルはガバッと顔を上げ、「皮茸は!? まだ残ってるか!?」と早口で尋ねた。
「勿論、全部残ってるわよ。まだ料理してないし」
ミヅチがそう言うとギベルティが皮茸を戻している鍋を傾けて見せてくれた。
当然、もう既に全部が水に浸かっていて、水には茶色い色も付き始めている。
「ああ~っ! 遅かったか……」
情けない顔をしたアルが残念そうに呟いた。
「何が?」
ミヅチとラリーは不思議そうな顔になる。
何しろ皮茸は水で戻しているところで、まだ一切手を付けていない。
先程言った通り、そのまま全部残っているからだ。
「いや、いいんだ……」
「どうしたの?」
説明する気力を失いかけたものの、アルは気を取り直して貴重な皮茸についてたった今仕入れたばかりの情報を妻に話した。
「……しょうがないでしょ。惚れ薬の材料になるほど貴重なのかも知れないけど、別にいらないっしょ?」
言われてみれば確かに。
そう思ってアルは少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「ん。金は惜しいがよく考えてみりゃ貰いもんだしな。売ったりせず美味しく頂くのが礼儀か」
「そうよ」
ミヅチにしてみれば故郷から贈られた貴重な物である。
更に、アルの言葉によればミヅチ本人だけでなく息子の健康すらも祈願された品である以上、一欠片も余さずに全て頂くのが礼儀というものであろう。
――そもそも惚れ薬とは言え、材料の一つでしかないしな。良くて一〇〇万とかそんなもんだろ。
商人からは言い値でも買い取ると言われたものの、アルは肩を竦めただけできっぱりと諦めた。
「ああ。美味いってんだからちゃんと食わないとな……お? 天ぷらか?」
「うん。あとは煮物ね」
氷水に満たされたボウルの中に浮かぶ一回り小さいボウル。
そこには薄黄色いドロドロとしたものが入っており、その側には薄力粉と片栗粉の袋が置いてある。
流しには卵の殻も転がっていて、ボウルに入っている薄黄色いドロドロはつい今しがた割られたであろう卵と水で作られた卵液であろう。
ここに薄力粉と片栗粉をザルや篩で振り混ぜれば天ぷらの衣になる。
その傍にあるバットには尻尾付きのまま剥かれた海老や開きになった鱚、松葉になった女鯒など、揚げられる前の具が並んでいた。
天ぷらはアルやミヅチの好物だし、ラリーの受けも良い。
また、柔らかい煮物なら小さくしてやればアルソンももう一歳になっているので食べやすいだろう。
なお、ディッケル商会の番頭は皮茸一株あたり一〇〇〇万Zは覚悟していたのだが、この屋敷の住人がそれを知る事はついぞ無かった。
・・・・・・・・・
「うんめぇな、これ!」
しゃくっという軽い歯ざわりの直後、じゅわっと染み出す皮茸の味はとても深みがあると同時に旨味も強く、大変に気に入った。
「これは、凄いですね……」
「うん。初めて食べたけど、美味しいね」
食卓を囲むミヅチもギベルティも碌な表現が出来ないほどに目を丸くしている。
「あ~」
俺が抱くアルソンも涎を垂らしながら天ぷらに手を伸ばそうとしていた。
「おお、お前も食うか? よし、父ちゃんが切ってやろうな」
皮茸の天ぷら、その笠の部分を少し切り、僅かに塩を振ると少しふぅふぅしてやってからアルソンの口に運んでやる。
「ぅあ~」
強い旨味を感じたのかアルソンもご機嫌だ。
エビやキス、メゴチなど、俺が特に好む種も十分にある他、そら豆に似た大粒のケンド豆、茄子、玉ねぎもあるし、舞茸と千切り人参、三つ葉みたいなベリンゾの葉で作った掻き揚げもある。
変わったところだと松葉の若芽と松の実の掻き揚げもあって、ナッツのような香りと味、とても良い歯ざわりがいちいち楽しませてくれる。
おせちはないが、まさに正月料理という豪華さだろう。
人参とコーミ芋、鶏肉と一緒に煮込んだ皮茸の炊き上げもとんでもなく美味いし、薄切りにした皮茸のお浸しみたいな物も貴重な味と香りを存分に味わわせてくれる。
今後もそうそう食べられる物でもないだろうが、これだけの味と香りだ。
どうでもいい薬の材料にするために小金で売るくらいなら食った方が余程マシだろう。
全部で三〇個くらいあったらしいが、あまりの旨さに今夜だけで全部食っちまったよ。




