第四百二十四話 開催宣言
7452年1月1日
年が明けた元日の昼前にべグリッツに着いた。
王都を発ったのが先月の二八日の早朝なので三泊四日の行程だったが、帰り掛けに半日だけ第四要塞の建設に首を突っ込んだのでそれなりに慌ただしい日程となってしまっていた。
お陰でウィードに着いたのは昨日の夜になってしまい、年内に戻ってくる事は出来なかった。
『明けましておめでとうございます。お帰り』
ミヅチはシロを抱いて出迎えてくれた。
俺の姿を見たシロが舐めようと首を伸ばして来るのを頭を撫でてやる。
『明けましておめでとうございます。ただいま。アルソンは?』
『居間でお昼寝中』
『そうか』
屋敷の玄関口で俺とミヅチが口にする日本語に対し、護衛のダークエルフや家人たちは丁寧に無視をしてくれる。
「お帰りなさいませ。閣下」
「「お帰りなさいませ、旦那様」」
家令のパトリシア・バルトロメ以下、護衛を含めた家人たちも口々に言うと、腰を折って礼を送ってきた。
それに対し一人ひとり返礼して、靴を脱がせてもらう。
「ああ。今帰った。でも今日くらいはゆっくり休んでいても良かったのに」
住み込みで働いている護衛や家人はともかく、家令のバルトロメだけは自宅からの通いだ。
当然ながら旦那や子供(その配偶者や孫も)と一緒に暮らしている。
俺も王都に行く前には忘れずに正月は休んでいいと言っておいた筈だ。
「いえ、ちょっとアルソン様のお顔を拝見がてら顔を出させて頂いただけですので、今日はこれで失礼させていただきます」
「そうか。お疲れ様。あ、ミヅチ、彼女に……」
餅代でも。
いや、もう年が明けてるんだし……お年玉の方が適切か。
「大丈夫よ」
あ、もう何か渡してんのね。
じゃあ靴も脱ぎ終わったし、息子の顔でも拝みに行くか。
居間ではアルソンが揺り籠で眠っていた。
勿論、傍には乳母が居て、彼女の子供である赤ん坊も隣の揺り籠にいる。
ついでに護衛も一人、部屋の隅の方でひっそりと立っている。
「あ、お帰りなさいませ、旦那様」
慌てて椅子から立ち上がって挨拶する乳母は虎人族にしては少し小柄な若い女で、何度か見たことがある。
「やあ、今日の当番はそなただったか……」
彼女の名前、なんだっけなと思いながらもいちいち【鑑定】して確かめる事すらもどかしく、アルソンの揺り籠を覗く。
息子はすやすやと寝息を立てており、健康的に膨らんだ頬が愛らしい。
いや、軽く握った小さな手や、涎を垂らしかけた半開きの小さな口、濃くなりつつある眉も全部愛らしい……けど。
どうしても隣の揺り籠で眠っている乳母の赤ん坊と比べてしまう。
特に肌の色な。
アルソンは見た感じだともうとっくに死んでいて死後硬直すら終わっている薄紫色。
又は青痣になっているとでも言うか……。
全身隈なく青痣ってのも不自然なので、はっきり言ってもう完全に腐敗しているようにしか見えない。
対して彼女の赤ん坊は健康的なしっかりと“血の通った”ような肌の色が対照的だ。
眠っていて殆ど動きのない今、こちらは死後一週間の赤子です、とか言われてもアルソンの事を知らない人なら信じてしまってもおかしくはない。
しかし。
アルソンと乳兄弟である乳母の赤ん坊の手にそれぞれ指を伸ばす。
二人は殆ど同時に俺の指先を掴んでくれた。
双方から確かな体温が伝わってくる。
うん。
見た目はともかく、こうして健康に育ってくれるならいいさ。
全く文句はない。
「いつもありがとう。今日も夕食を食べて行ってくれ」
アルソンの為におっぱいを分けてくれている彼女にお礼を言いながら、
そう言えば、俺がギベルティを連れ回している間、屋敷の飯は誰が作っているんだろう?
と、どうでもいい事に考えを巡らせていた。
まぁ、後で確認したら、ミヅチが作ることもあれば、ギベルティとは別の多少料理の出来る奴隷を呼んで作らせていただけだったんだけどね。
あとはレストランからのケータリングだ。
それはそうと、アルソンの乳母は現在、彼女を入れて全部で六名雇っている。
厳しいトレーニングを課されていたとは言え、座学中や体力錬成中はしっかりとした食事が三食摂れ、毎日自宅に帰れていたのでミヅチは今年の一〇月の終わりくらいまでは毎日のようにおっぱいをあげていた。
その頃は乳母は二人しか雇っていなかった。
しかしエムイー訓練が佳境を迎える一一月に入り、ミヅチは一切屋敷に帰れなくなったし、食事も不定期、内容も充分でないことも多くなり、母乳が出なくなってしまった。
尤も、これは予め予想されていた事だし、それを見越して新たに乳母を増やしたのだ。
週に一日だけ、交代で出勤してもらい、順番にアルソンに母乳を与えて貰っているのだ。
父親である俺と同じ種族の普人族、母親の近縁種である精人族は当然として、犬人族に狼人族、獅人族、そして今日の当番であるタイガーマンの彼女だ。
ヒュームとエルフは両親に合わせただけで、それ以外特に意味はないが、その他の四種族のうちドッグワーとウルフワーは副乳を持ち、それぞれの乳房が母乳を分泌するのが普通なのでその分乳母への負担が少ないだろうという、消極的な理由もある。
ライオスとタイガーマンは大柄な種族なので息子に大きく育って欲しいとの希望も込められているが、単におっぱいを貰う種族を増やすことでアルソンの免疫力が高まる事を期待している事も大きな理由だ。
気休めかもしれないが、悪影響があるとも言われていないから別に構わないだろうと思っている。
「アルソン坊ちゃまは今日も沢山お飲みになられましたよ」
乳母が優しく微笑みながら言ってくれた。
「そうか……」
一瞬だけ彼女に目を向けたものの、俺の指を掴む二人を見てニヤニヤが止まらない。
こうして見ると、肌の色はともかく、やはり俺の息子の方が可愛く見える。
勿論贔屓目なしにね。
名残惜しいが、そろそろ着替えたいし風呂にも入りたいな。
・・・・・・・・・
7452年1月2日
早朝。
まだ暗いうちに起きてミヅチと二人、ランニングに出かける。
昨日行けなかった初詣(二日になってしまったので賽銭は無い)に行きがてら、べグリッツの見回りも兼ねるのだ。
昨日のうちに大凡の事は見ていたし、聞いてもいたが街のあちこちに露店や出店の準備が見られる。
まだ未到着の商会は俺の領内に本拠を置く二〇余りのみで、その他の商会は早いところだと一週間も前に到着していたという。
尤も、無許可で参加する行商人みたいな商会も多数の参加が見込まれているし、実際、かなりの商人がべグリッツに来ていて、もう何人来ているのかすら不明だと言うからジャバの手腕も大したものだと思う。
今日の正午にこれから一〇日間に亘って俺が主催する大市の開催宣言を行う必要がある。
まぁ、お偉い主催者様の開催宣言なんぞごく一部を除いて誰も聞きたくなんぞないだろうが、形式というものは大事だ。
「もうこれだけの露店も出ているのか……」
走りながらも各露店毎に目張りがされた道を見て声を出す。
目張り自体は当初から予定されていた行動で、行政府のジャバが先導して行っているものだ。
しかし、その数が尋常ではない。
行政府前の広場の周囲は勿論、主要な通りのほぼ全ての両側、又は片側にずらりと並んでいる。
幾つかは既に屋台のような販売台も備えられているようで、その殆どが真新しいものだ。
この様子だとべグリッツの木工職人も結構な売り上げを叩き出せていると思われる。
気の早い商人などもう品物を並べ始めている者すら珍しくはない。
「王都なんかの大手の商会は全部行政府前の広場の良い場所に配置しているわ」
「そっか……」
ミヅチの説明によるとサンダーク商会など王都の主だった商会も露店がメインになっているが、他よりも良い場所とずっと広い面積を与えているらしい。
昨日見たけど、簡易だけど屋根なんかもあって露店と言うより、もう店舗に近い感じになっている。
荷物を見張っている護衛なんかも屯していて、暖を取るためか広場のあちこちで篝火も焚かれていた。
昨日はたまたま無かったようだが、喧嘩沙汰刃傷沙汰も珍しくはなかったようで、もう既に商会の護衛をしていた冒険者や戦闘奴隷を中心に三〇人以上が騎士団に捕縛されており、地下牢にぶち込んであるという。
そういった犯罪者は最終日の目玉に裁く予定だが、この分だと結構な数になりそうね。
騎士団員たちも下っ端の一般従士は言うに及ばず、ラルファやグィネと言った訓練従士や正騎士なんかも全員が休日なしで警備に血道を上げているという。
いやぁ、ご苦労だよね。
ランニングを終え、朝食を摂ってからミヅチと一緒に行政府に出仕する頃にはお天道様が顔を出すと共に抜けるような青空になっていた。
真冬なので肌寒く、上着は必要だがこのスッキリと晴れ渡る空を見ると心が弾んでくる。
行政府に勤める職員たちも全員が整列して出迎えてくれていた。
鷹揚に新年の挨拶を返し、まずは執務室へ。
「おおう……」
机の上の光景を見にした瞬間に、さっきまで弾んでいた心はあっという間にどこかへ飛んでいってしまう。
それなりの量の書類が溜まっているのは想像通りだが、大市に参加する各商会からの嘆願書や陳情書もあってその量は想像よりも多かった。
きっと大半が収監した戦闘奴隷や常時雇用している護衛に関する嘆願書や割り当てられた露店の場所に関するものだろうけど。
一時雇いの冒険者は見捨てられるんだろうな。
いや、高価な品を仕入れる事になるんだし帰りの護衛も必要か?
しかし、俺の領内だとわざわざ片道の隊商護衛をするような酔狂で暇を持て余している冒険者なんて最下層の実力不足の奴しか残っていない。
元々ダート地方に拠点のある商会なら常識になっているだろうし、王都や他の領土から来た商会だって大手ならそういった調査は行われているはず。
そうなると保釈金を要求するってのもアリか?
「これでも私の方で対応出来るものは対応してあるんだから」
書類の山を見て嘆く俺の横でミヅチはさっさと応接用のソファに腰を下ろした。
ソファの前のテーブルにはもう殆ど書類は残っていないが、インク壺を始めとする筆記用具のセットや白紙の羊皮紙や植物紙が積まれたまんまだ。
この様子だとかなり片付けてくれていた事に間違いはないな。
「うん……」
仕方ない。
残っている書類は全て俺の決裁が必要なものだけだ。
面倒くさかろうがなんだろうが、結局は俺以外に誰も出来ないのだ。
バリバリと処理していくしかない。
・・・・・・・・・
昼。
残り少なくなった書類に対して一心不乱に読んで理解し、承認や却下のサインをしているとインセンガ事務官長がやってきた。
「閣下。そろそろお時間です」
その声に顔を上げる。
ミヅチはいつの間にか執務室からいなくなっていた。
応接のテーブルの上は綺麗に片付けられていて、今まで碌に使用された事のない特別に作ったガラス製の灰皿だけがでかい面をして残っている。
あんにゃろう、どこに消えやがった?
などと不満に思う間もなくさっさと行かねばならない。
脱いでいた上着を着込み、行政府前の広場へ向かう。
「原稿は?」
「こちらに」
インセンガから手渡された羊皮紙には大市を開催するに当たっての宣言が書かれている。
大した量ではない。
ブツブツと小声で読み、一度で頭に叩き込む。
行政府の前の広場に出ると、広場はもう既に人で埋め尽くされていた。
国内のあちこちからやってきた大手の商人――どこからどう見ても高級そうな服装なので一目でわかる――や、この西ダートを含む俺の領内から集まってきた中層から下層の商人。
そして他領から遥々とやってきた遍歴商人たち。
惜しむらくは、異国風の見慣れぬ衣服に身を包む者が一人として見当たらない事だろうか。
まぁいい。
今にそういう異国の大商人たちも無視出来ない程の規模と貴重な商材を集めてやる。
その為には少なくとも俺の領内に於いて今よりももっと内需を増やし、金銭が回るようにするのは最低線だ。
勿論、今まで以上に外貨を稼ぎ、異国や他領の商人たちに“この土地は金銭を持っている”と思わせる必要もある。
さて、行政府の門の間に設えられた三mもの高さを誇るお立ち台の前に着いた。
待機していたジャバに確認するとあと五分程で正午になるという。
最後にもう一度、原稿を確認しておくか。
……。
俺はお立ち台の階段をゆっくりと登りきる。
今まで意味ありげに聳えていた無人のお立ち台に俺が登壇すると、広場全体から沸き起こっていたざわめきが少しだけ沈静化した。
ゆっくりと広場を見回すと、広場は多くの人々に埋め尽くされ、碌に地面が見えないほどの人出が確認できる。
大成功だな。
今も露店で交渉している商人や、串焼き肉を立ち食いしながら飲み物を注文する者たちの声が耳に入る。
別に開催宣言など形だけのものだ。
広場にいる全員に聞こえる必要はない。
お立ち台の近くに集まってきている主だった商会の代表者たちに聞こえさえすればいい。
最後に鐘を鳴らす手筈になってるし。
さて、もういいだろう。
「本日、王国内各地よりご参集いただきました大勢の紳士・淑女の皆様……」
できるだけ大きな声で、でも怒鳴らないように。
「……こうして皆様をお迎えし、第二回べグリッツ大市が盛大に開催の運びになりましたことはこの上ない喜びであり、我が領の二〇万領民とともに心から歓迎申し上げます!」
ここで少しタメ、周囲に視線を向ける。
お立ち台の前にはサンダーク商会を始め、カルセ商会、ディッケル商会、カレイド商会といった王都の錚々たる大手商会の代表者が集まってくれている。
そちらへ向けて軽い目礼を送った。
「私たちは“君は風 ダートを駆けて 湖に舞え”をスローガンに掲げ、参加する全ての方々がダート平原を駆け抜ける風のように爽やかに、そして陽光に照らされたダンバー湖のように光り輝く大市となるよう思いを込め、領民一丸となって準備を進めてまいりました」
お!?
あそこでこっちを見上げてるの、ロンスライルのマダムじゃねぇ?
隣に奴隷から解放され商会の職員となっているゾフィーもいる。
あ、俺の視線に気が付いたみたいだ。
手ぇ振ってら。
なんだか精神が若いね。
良いことだ。
「ご参加頂いた各地の皆さんは、快く送り出して下さったふるさとの期待と応援を大きな力に変え、最高の商談をモノにして頂きたいと思います。また、全国から遥々買付においで頂いた皆さんも、是非我が北ダートの豊かな自然や歴史、文化、そこから生まれ出た高品質な商品に触れていただき、一人でも多く“ダートファン”になっていただければ幸いです」
本当は王都を始めとする各地の商品を持ち寄って貰っている事についても一言お礼を言いたかったのだが、現時点でのこの大市の目的は我が領の産品をアピールし、少しでも多く仕入れて貰って王国各地での知名度を上げることだとジャバに反対されてしまったのだ。
他にもポツポツと挨拶を交わしたことのある人の顔に気が付く。
遠いのに本当によく来てくれた事に頭が下がる思いだ。
「本日、この爽やかな空の下で本大市が、全国から様々な障害や困難を乗り越えておいで頂いた方々にとって、そしてこの大市にご参加頂ける全ての皆様にとって、夢や希望で繋がる笑顔溢れる大市となりますことを大地母神様、商いの神様、そして市場の神様に祈念し、ここに第二回べグリッツ大市の開催を宣言いたします」
商人たちの声が飛び交う喧騒の中、まばらに起こった拍手を背に、ゆっくりと階段を降りていった。
■今回のお話で青痣に対して(あおなじみ・青なじみ)とルビを振っています。
「あおなじみ」とは主人公の前世の出身地である千葉県の方言ですので気にしないでください。
■また乳母ですが、乳母は大きく分けて二種類あります。
まずは文字通りの雇い主の赤ん坊に母乳をあげる者、いわゆるベビーシッター呼ばれる一時雇いとは異なり、一定期間で雇われる女性です。
これは世界各地で大昔から存在が確認されています。英語だとウェット・ナースとも言います。
今回のお話で言われている乳母は全てこの母親に代わって母乳をあげて育てる人です。
母乳を出せることが第一条件なので雇い主の赤ん坊と一緒に自分の赤ん坊も育てている事が普通ですので、一時雇用ではないとはいえ基本的に母乳が出なくなるか赤ん坊が乳離れするまでの雇用期間になります。
次に、幼少時の教育を担当する家庭教師、英語だとドライ・ナースとかナニーと言われる人です。
読み書きや簡単な計算、躾などを担当し、場合によっては上記のウェット・ナースを統括することも有ります。
歴史上の有名人だと春日局(徳川家光の養育係ですが、乳母に任命された当時、自身が四人目の子供を産んだ直後なので母乳も与えたと考えられています)などがそれに当たり、海外はともかく日本だと一定の権力すら持つ人もいました。
今の主人公の家庭事情だとそろそろ家庭教師としての乳母も必要になるのではないでしょうか。




