第三百九十四話 夫婦仲
7451年11月28日
昨日はその場で犬を抱いたまま死んだように寝始めた訓練学生たちを残して次のチェックポイントまで行き、待機していた教官たちに訓練の終了を告げて一緒に寝んだ。
明るくなってから山を降り、一足先にべグリッツまで戻ってきた。
屋敷に帰って息子と触れ合ったあと、すぐに行政府へと出仕した。
そこで溜まっていた事務仕事を昼食返上で片付け、騎士団本部に顔を出したのが本日の終業時刻を過ぎた現在、一六時である。
騎士団本部には一時間ほど前に訓練学生たちが戻って来ているとの報告だったが、就業時刻を過ぎている事に加え、体力の低下も著しいであろう事からさっさと帰宅させるように命じている。
今、騎士団本部の会議室にいるのは今回の訓練の教官連中だ。
すなわち、トリスを筆頭とした七名の元殺戮者と、デーニックを筆頭としたこちらも七名の騎士団に所属する者たちである。
エムイー訓練の教官は彼らにとっても初めての経験だったのだが、各種想定訓練の進行の手際はともかく、屁理屈に言い負かされたのはいただけない。
勿論、ミヅチら訓練学生の口車に乗ってしまったらしいキムなど論ずるに値しない者もいる。
しかし、そうでなくとも結局は全員が認めてしまったのだから同罪である。
短時間でも説諭という名のお説教は必要だろう。
何せ、学生たちに俺の意を強制させる事が出来ず、ただ一人の合格者すら輩出出来なかったのは教官の責任だからだ。
本来なら明後日、学生たち全員が目出度くエムイー徽章を入手した後、彼ら教官連中とはレストランで宴会をし、苦労を労うつもりだったのが全部おじゃんになっている以上、俺の機嫌が急降下するのも仕方のないことだろう。
与えられた仕事を果たせず、この地の支配者である領主の期待に背いてしまった事については反省して欲しいところなのだから。
あと、あんまり関係ないけどついでに社交についても学んで欲しいところだ。
何しろ、騎士団のエムイー持ちとロリックはともかくとして、殺戮者の連中については今までの社会が狭かった上に特殊過ぎたこともあってロンベルト王国の上層社会との交際力はあまり高く……低いのだ。
ま、いいや。
「……では、皆、ご苦労だった。また次回の訓練には呼ぶからそのつもりでいてくれ」
全員が理解と反省の色を浮かべている。
まだ少し不服そうなキムを除いて。
キムだけ残らせてもう少し話そうかとも思ったがやめておいた。
バルドゥックにいた頃なら話していたと思う。
でも、彼女も俺も、もう一介の冒険者ではない。
俺はこの西ダート(リーグル伯爵騎士団内で行われている訓練なので北ダートではない)の領主、絶対者という立場だし、彼女はそんな俺に仕える従士、カームに対して更に仕える従士長という立場だ。
要するに、彼女が暮らすベージュ村において彼女は、彼女が仕える主であるカームの部下であると同時に、複数いる従士家を従える管理職でもある。
自分で考えて消化して貰わねばあまり意味はない。
あの目は“それでも育てさせた犬を殺すのはどうなんだ?”と言っているが、個人個人で考え方が異なるのは当然なのでそれは別にいい。
納得や共感すら求めていない。
俺だって“訓練の一環として犬を殺して食う”という行為に納得はともかく、共感などこれっぽっちもしていないし、出来ない。
軍隊に限らず、組織の上層部など“必要”の奴隷だ。
それを理解して欲しいだけの事なのだから。
とは言え、完全に突き放すのもアレだよな。
少ぅし、ほんの少ぅしだけ助言してやってもいいだろう。
「キム。少しいいか?」
「はい」
彼女だけを名指ししたからか、それとも飲みの席でもないのにビオスコルとも呼ばなかったからか、他の皆は後ろ髪を引かれながらも会議室を出ていった。
キムは正式に騎士団には所属しておらず、従って軍隊の指揮官でもない。
将来的にはそうなって欲しいと望んではいるけれど、今のところは違う。
何より彼女の意志はどうなのか、という問題もある。
話し方や内容には気を使うべきだろう。
「エムイー訓練とは関係ないから気を楽にして聞いてくれ。君はベージュ村の従士長だったな」
当然、知ってて聞いてるので返事と共に肯定の頷きが帰ってくる。
「うん。従士長とはどんな仕事だと考えている?」
「え? それは……それは従士を取りまとめ、ご領主であるカーム、ミシャウス士爵閣下を補佐するものです」
想像通りの答えだ。
まぁこれ自体は全く正しいし、表面上では正答と言ってもいい。
「そうだな。そういう立場の者は部下たちをどう指導するべきなんだろうか?」
「えー、訓練では槍や剣の使い方を教え、村の周囲に居る魔物を狩り……」
「ああ、ごめん。言い方が悪かったかもしれないな。それは求められる、達成されるべき目的の一つだな。私が聞きたかったのはそういう“目的”を達成出来るように部下である従士を指導する際、どうやって指導するべきか、という事なんだ」
俺の言葉にキムは少し真剣な顔になる。
「それは……例えば戦闘訓練では手取り足取り、剣や槍を振るう動作から教えます……」
戦闘訓練なら最初のうち――完全な素人を教える本当の最初だけはそれがいいだろう。
柔道でも剣道でも素人に教える一番最初は相手の道着の握り方や受け身の取り方、竹刀の握り方、振り方だ。
でもそれは最初の一日だけだな。
後は本人が受け身をして転がりまくるなり、ひたすら素振りするなりする期間が必要になる。
「次に、稽古を続けて行けるよう、アドバイスをします。体の運び方の欠点などを指摘して改善するようにします」
まぁそれは当然の事だな。
でも、俺が聞きたいのはそういう事じゃないんだけどな。
「うん。ありがとう。では、そういう戦闘訓練に限らず部下を指導する時、君はどんな事を考えている? どういう事を言っている?」
「え? 戦闘訓練以外、ですか……?」
お、おいおい……。
脳筋か? 脳筋なのか?
「ああ。従士は多くの農奴を抱えて作物を作らせているだろう? 君だって結構な数の奴隷を揃えていたじゃないか。従士長の仕事は戦闘以外の方が多いと思うんだがな」
「……ベージュ村はダート平原の中なので魔物に対抗する事がまず第一だとカーム姐、ミシャウス閣下から言われまして……」
そうだな。
それはその通り、まず第一は村の安全を確保する事であるのは間違いない。
だけど、もうベージュに行ってどんくらい経つよ?
二年半じゃねぇ?
あ、いや、キムはラルファなんかと一緒に少し遅れて西ダートに来たんだ。
でも二年以上は経っている。
それでこの回答はどうなのよ?
こりゃまずいな。
ここらで少し語ってやった方がいいか。
「そうか。でも、そろそろ魔物狩り以外の事も考えておいた方がいいぞ。従士たちのリーダーなんだしな」
「ええ。そうね。リーダーの仕事で大切なもの……自分の後継者を育てる事、それは忘れてないわ」
そんな事を言ったこともあったな。
確かに自らの後継者を育てるのはリーダーの仕事でのうちでは最も大切なものの一つだ。
だけど、同じくらいに大切なものは他にもある。
「うん。その他は指導――率いる集団に目標を与え、達成させる事でより大きな目的を叶える事もまた大切だな」
「それはそうね」
この二つはリーダーの仕事を考えた場合、切っても切れない程重要なものだ。
ここは軍隊の指揮官も集団のリーダーも共通している。
「リーダーには幾つかの段階がある。まず最初、一番下の段階でリーダーが行わなければ、心しておかねばならない事は“役割を果たす”事だ。自分らしさに固執したりせず、リーダーとして果たすべき役割が何かを理解し、実践して行くことだな」
俺の言葉にキムは少し固まった。
「自分らしさ」など、リーダーを務める者にとってはどうでもいい事だと宣言されたからだろう。
リーダーとはすべからく、己を殺せる者でなければならない。
「次のステップは“日々のズレをなくす”事だ。簡単に言うと、リーダーとしての正しい言動を自分自身に習慣化させる事とも言えるな。そういう“リーダーとして振る舞う自分”を演じる事で、率いられる部下たちの体質を根本から変えるんだ」
これが出来て初めて、リーダーとしては最低限と言える。
「これらの段階を経た結果、“自分が率いるチームの成果を最大化”させる事がリーダーの最終的な目的となる。やるべきことをやり続けた先に、必ず“総合的な成果を上昇させる”という結果がついてくるんだ」
成果をどこまで、いつまでに伸ばせるか、が優秀なリーダーとそうでない者との違いになる。
少し硬くなりすぎたので柔らかくしておこう。
「ああ、勿論、心の中はいつだって、誰だって自由だ。表に出さないのであれば、または時と場合、場所さえ弁えられるのなら幾らでも自分らしく感じ、考え、それを表明しても構わない。愚痴を言うなら部下ではなく、心を許せる者だけしかいない場所にしておくんだな」
人間とは社会から外れては生きていけない。
全ての人間は社会的動物とも言える以上、常に他人の目は気にしなければならないだろう。
ましてや、人々の注目を集めやすいリーダーなら尚更の事だ。
「例えば、君の農奴にもよく働き、結果を出すジョンもいれば、あまり熱心には働かないテリーもいるだろう? 彼らを束ねるリーダー、ご主人さまも人間なので相応に感情はある。ジョンは可愛いし、それと比べればテリーはあまり可愛くはないと考えてしまうのは当然だ。でも、リーダーとして彼ら以外の者も導くのであれば、その感情は出来るだけ表には出さないよう心掛けた方がいい」
勿論、出来の良い奴を褒めたり、駄目な奴を叱責して発破をかけたりする事とは全く別の問題である。
それはそれで“一見公平に見えるように”心掛けてやればいいさ。
普通かそれ以下のお頭しか持っていない者は「公平に指導してくれているんだ」と思ってくれるだろうし、少し鋭い者なら「公平に指導しようと頑張っているんだな」とか、そうでなくとも「まだまだ公平だとは言えないけど、あいつにも人間らしく好き嫌いはあるんだな。どれ、一つ俺が補佐してやろうじゃないか」と思ってくれれば儲けものだからだ。
「あと、絶対に気をつけなくてはならない事は、部下はそれぞれ別個の人間である、という事だな。当たり前の事だが、これを忘れる者は多い。ある者はキムの優しさに好意を抱くだろう。だけど、別の者はそれを柔弱な点として嫌うかもしれない、と言うことだ。人それぞれ、大切なもの、譲れないものは異なるのは解るよな?」
キムは真剣な顔で頷いた。
「そういう者たちそれぞれの事情や感情に配慮した指導を行うのはリーダーとしては当然の仕事だな」
でも、次に言う言葉でどう考えるやら……。
「しかしながら、自分のチームの方針――掲げる目標だけは絶対に一人ひとりの状況に合わせてはいけない。それをやってしまうといつか必ず収拾のつかない事態に陥る」
「え?」
思わず声が漏れた感じだ。
人それぞれに合う指導をする、とかいう一見してそれっぽい流れになりそうだったのを断ち切ったからだろう。
「部下の数が少ないうちなら、優秀なリーダーなら上手く出来るかもしれない。でもある程度、そうだな……二桁を超えると非常に難しくなる。そして、リーダーという役割を与えられた者全てが、一般的には優秀だとされていてもそこまで優秀ではない可能性が高いからだ」
「……」
なんとなく納得が行かない、という感じだ。
でも、今迄言ってきたように、納得や共感など求めていない。
「物凄く、それこそ想像を超える程に超絶優秀なリーダーなら出来るかも知れないが、そんな奴はいない。断言出来る」
どのような物語に登場する英雄ですら、見方や立場を変えれば部下や民衆から嫌われ、好かれない要素はある。
「そうなると、部下の中には納得が行かずに心が離れていく者もいるだろう、って感じかな?」
キムは少し遠慮がちにおずおずとしながらも頷いた。
「確かに一部の部下の心が離れる事は避けられないかもな。でも、それがどうした?」
「……」
ゴクリと唾を呑み込んで、キムは黙っている。
「全員から好かれる者など神様くらい――」
そういえばイューヅとかウィンキビラウとか神様にも嫌われ者はいたっけな。
「いや、そんな奴などいないんだ。嫌われたっていいじゃないか。人間だもの。君を嫌った部下がいたとして、彼らはわざわざ君に害をなそうとするのか? そんな事したらベージュ村では暮らして行けなくなるぞ。逆に言うと、そこまでの踏ん切りさえ付けさせないのであれば嫌われる事を恐れるな。大丈夫、しっかりとやる事さえやっていればもっとずっと多くの者たちは君に付いていくさ」
出来るだけ優しい表情を心掛けながら言う。
「現に、たった今、俺はミヅチを始めとする今回の訓練学生六人には嫌われていると思う」
「それは……」
「いや、彼らが可愛がって育てていた犬を殺させ食わせようとしていた上、上手く躱したと安心していたところに不合格を突きつけたんだ。しかも碌に説明すらせずにね。嫌な奴だと思われているだろうよ。君だって近い感情は抱いていただろう?」
「……」
隠していた、いや、心の底では隠そうとしているフリを装いつつも抗議の気持ちを気取って欲しいと願っていた様子だけに、何も言えない感じだ。
「だけど、それで俺に対して背こうとする、ベージュ村で築いた立場や収入を捨ててまで対抗しようとする気持ちはあるか? あるならあるで別に構わない。俺以上に優秀な領主になってくれるのなら、くれそうだと思わせられるのならきっと皆も君についていく。領主への反逆は成功するだろう」
「そんな……」
驚いた様子で絶句している。
「うん。なら君にとって今回の件はそこまでする出来事じゃないって事だ。でもそれは、君の頭が良いからでもある。俺は、ミヅチ以下、今回の訓練学生と教官の全員が君と同じように頭が良いと思っている。あの場で彼女らの様子はどうだった? 聞いた話が正しいのなら、一時的に憤激したり嘆き悲しんだりはしたものの、そう長くない時間でそれなりに落ち着いたと聞いている」
「……」
ミヅチがトリスの揚げ足を取って屁理屈で躱さなければ、キムだって特に何も言っていなかった筈だ。
心の底ではどうあれ。
「そういった不満だって積もり積もればどうなるかわからない、か? 確かにそうだな」
でもこうして語っている以上、その程度の事は最初から認識している。
たった一つ、たかが犬っころ程度で決壊する程軟弱なダムではなかろうと考えているだけだ。
「大丈夫。理解していない訳じゃないから安心して欲しい。でも君は俺に忠告したがってくれていたんだな。そこはお礼を言うよ。ありがとう。感謝する」
「あ、頭を上げて……」
領主で上級貴族でもある俺が名義上陪臣という立場のキムに頭を下げたからか、キムは少し慌ててくれた。
まぁここには俺たち二人しかしないしな。
「リーダーは部下から嫌われることを恐れてはいけない。ただし、その上限は見極めておくんだ。それこそ上限は部下一人ひとりで違う。これ以上の事を命じたりしたら、こいつとは決定的に道を違えてしまう、という点は常に考慮しなくてはならない。だが同時に、最悪の場合も想定しておかねばならない」
少しだけ声音を変える。
「ここまでは耐えて貰わねばいけない、という線引がいる。その基準はリーダー毎、または掲げる目標やクリアしなければいけない目的毎にまちまちだろうけれど、リーダーの決定したそのラインに簡単に達して、結果、背き、離れてしまう者はいつか必ず出てくる、という事だ」
キムは辛そうな顔をしている。
「大切なのは目標を目指すのに必要かどうか。目的を叶えるのに必要かどうかだ。必要なら嫌われようがなんだろうがやるしかないし、万が一の事を考えるのなら背かれたり離れたりされるのは早い方がいい。当然、決定的な瞬間まで心の奥底に反抗心をしまっておき、効果的な瞬間を狙い続けてやる、という者だっていない訳じゃないだろう」
後半部分、キムはそれが言いたかった、とでもいうような顔になった。
「そうだな。そこまで恨まれ、嫌われてしまうならこれはもう仕方ないんじゃないか? そんな所まで不満を押し殺し、俺や君にそれを気取られずに従い続けるってのも並大抵じゃないし。きっとそれ程までに大それた事でもしでかさなきゃ流石にそこまではないだろうよ」
「……」
なにそんな簡単に諦めるようなこと言ってんの?
って顔だな。
でも別にそんな事態に陥ったとしてもまな板の鯉みたいにさっさと諦めてしまう訳じゃない。
そうなれば俺だって、それこそ文字通り必死になって跳ね返そうとするだろう。
「また、それ程の事を部下たちの意に反してやらせたからこそ、目標や目的の近く、そこまでは行けたと考える事も出来るんだし。だけど、そんなタイミングで裏切るのはそいつ自身の身の破滅を意味するだろう。だって、そうは思わない奴だって大勢いるだろうしね。そうじゃなきゃそれまで誰もついて来ないよ」
ニコリと微笑みながら言う。
「自分が必要だと思った事はやればいい。もしも必要かどうか迷うのなら誰かに相談したっていい。君のお館様や、それこそ俺だって、ミヅチだって、誰だっていい。そして、もしも君の考えが“絶対に”間違っていると思われるのなら、誰かが必ず忠告してくれる。例えその忠告で君から疎まれようとね。君は今までそれだけの関係を築いてきただろう?」
キムはゆっくりと頷いてくれた。
「そして、その忠告に対して、やっぱりそうだ。道理があるなと思うのなら聞き入れればいいし、いや、やはり断固として必要だと思うのなら採用しなければいい。それこそ、決定するのは、決定出来るのは君だけだ」
これは、喩えるなら上位者の決定に歯向かう、という自身の行為に決定を下せるのは自分自身である、という意味でもある。
勿論、歯向かう相手の立場により犯罪とされる事もある。
自分自身の定めた正義、自分自身に課した掟を守るために法を犯すという行為かもしれない。
ことが何であれ、最終的にそれを決めるのは自分自身だ。
「まぁ、俺の立場から言わせて貰うなら、俺の言う事、なす事、命じる事には必ず何らかの理由があり、それが必要だと俺が決定したからだと考えて素直に従って欲しいけどな。でも、俺だって間違う事もあるし判断ミスもするだろう。もしそれが明らかだと思うならいつだって忠告して欲しい。採り入れるかどうかはそれこそ時と場合によるだろうけど、忠告それ自体を拒絶はしない。必ず耳を貸すさ」
キムはどう感じたのか?
いまいちわからなかった。
・・・・・・・・・
当たり前だが屋敷に戻るとミヅチは既に帰っていた。
シャワーも浴びず、風呂にも入らずに俺の帰りを待っていたという。
まぁ、お湯を出す事すら億劫だったのだろう。
そうでなきゃアルソンを抱くくらいはしていたはずだ。
いや、もうすぐ俺が戻ることを見越していただけかもしれない。
「やぁ、お帰り。お疲れさんだったな」
寝る寸前みたいにだらしなく居間のソファに浅く腰掛けて、床でアルソンと遊ぶシロを眺めていた妻に声を掛けた。
昨夜から今朝まで、そしてウィードからべグリッツまで馬車鉄道で休んではいるだろうが、流石にその程度では体力気力共に回復はしていないと見える。
「お帰りなさい……お風呂入れてくれる?」
「ああ」
風呂の用意がされていないと聞いていたので、どうせ言われるだろうと思っていた。
くるりと振り返る時。
「貴方もお疲れ様」
労ってくれた。
いや、単なる挨拶の延長かもしれないが。
「うん……」
何か言おうとしたが止めておいた。
先程自分でも言った通り、今は嫌われているだろうし。
と言うか、そもそも嫌われるような、彼女自身の心を傷つける事を命じたんだ。
抱きしめてやりたいが、それは今、望まれないだろう。
逃げるように居間から風呂場の屋上へ。
タンクをさっさと熱湯で満たし、湯船には適温の湯を張る。
ミヅチ好みの、俺にとっては少しぬるめのお湯だ。
「風呂入れたぞ」
居間に戻って告げると「ありがと」と返ってきた。
自ら望んだ以上、すぐに風呂に入るのかと思ったらミヅチはソファの上から動かない。
もうしばらくは休みたいのだろう。
警護についているダークエルフたちは外に面したガラス戸の傍に一人、ミヅチの後ろに一人が気配を殺してひっそりと立っている。
彼女たちには俺を含む屋敷の全員がもうすっかり慣れており、大抵の場合はそこにいないかのように意識されていない。
自宅のソファは向かいではなくL字に並べている。
なんとなく気後れしてしまい、ミヅチの隣ではなく脇のソファに腰を下ろした。
「何で隣に来ないの?」
ミヅチの声は当然のように少し不機嫌そうだ。
「いや、別に……」
弱みを突かれた気がしてはっきりとは答えられない。
「怒ってないわよ」
そうは言うがね。
「そうか……」
予想していたとは言え、女房に嫌われる、というのは予想以上に堪えているのだろう。
何だか何を口にしても碌な事を言えそうにない予感がして口ごもってしまう。
だぁだぁと何やら言いながら涎を垂らしてシロの背を叩くアルソンに目をやってしまう。
顔を見るのが怖い。
見られるのも怖い。
まだ赤ん坊とはいえ、こんな情けない姿を息子に見せたくはない。
しかし、ここから逃げ出すのはまずい。
それだけは分かっている。
俺の心の奥底が「さっさと謝っちまえ、そうすれば楽になるぞ」と訴えてくる。
だが同時に「なぜ謝る必要がある?」という疑問の声も上がる。
ソファが軋む音と共に衣擦れの音がしてミヅチが身を起こしたことがわかったが、どうしてもアルソンとシロから目を離せなかった。
「……」
ミヅチは身を起こしただけでソファから立ち上がってはいない。
目を合わせてやるべきだ。
だが、出来ない。
俺の目は物理的に息子に釘付けにでもなったかのように視線を動かせなかった。
意識せずとも、視界も狭まっており、息子と白い犬しか目に入らない。
いや、無意識にそれ以外を認識するのを拒んでいるかのようだ。
「~……」
軽い溜め息が耳に入る。
もうダメだ。
流石にもうダメだ。
この機会を逃してしまえば当分の間、妻の顔を正面から見て、視線を合わせることは出来ないだろう。
意を決し、多大な努力を行ってミヅチの顔を見た。
妻は、なんだかよくわからない顔をしていた、ように思う。
「なんで貴方がそんな顔をしているのよ」
目の前にいる妻のような何かが言った。
ぐっと目をつぶり、すぐに開く。
「……」
笑おうと顔に力を入れたが上手くいかない。
「バカね……ごめんなさい」
一体何を謝っているのか。
何だか俺を慰めるような顔だと思った。
慰められるほど俺の顔は酷いようだ。
そう思うと同時に、自然と笑えたようだ。
「次はいつ? 今度は必ずパスするから安心して」
そうか。
しっかりと考えてくれたんだな。
「うん……」
辛うじて返事の声を出す事が出来た。
「ね。疲れてるから体洗ってよ」
「うん……」
どう心の整理を付けたのか、どうやら妻にはそれ程嫌われないですんだらしい。
「アルソンとシロもね。家族で入りましょう」
うん、そうだね。
でも犬も一緒かよ。いいけど。




