第三百九十一話 仔犬の運命 2
7451年11月27日
午前。
西ダートのウィード山中のどこか。
この日の未明から降り始めた雨は今では霧雨と化してはいたものの、幹部エムイー訓練学生達の体力を確実に奪っていた。
「オラオラ! チンタラ歩いてんじゃねぇ! こんなんじゃ今日も昼飯抜きだぞ貴様ら!」
訓練教官であるトリスの怒鳴り声が山中に木霊するが、学生達は声も絶え絶えに「エムイー」と掠れた答えを返すみだ。
「く、くそっ……夏の仕返しのつもりか、あいつめ……」
重いザックを背負い、ふらつく足取りでバリュート士爵が呟く。
が、常なら誰かが別の言葉で罵ったりして合いの手を入れる筈が誰もその言葉には乗ってこない。
肌に張り付くような雨と急速に冷え込んできた気温のせいで、誰もが体力以上に気力が尽きかけているためである。
隊列の一番後方から付いて行く形で歩いていた士爵は、全員がもう限界近くにまで体力・気力ともに擦り減らしてしまっていることを理解した。
彼の足元を歩いているクーパーは既に泥だらけで、元は白と茶のぶちだった筈がいまでは泥の色も加わって三色ぶちになっている。
クーパー自身も疲れているようで、元気もなさそうだが抱き上げてやる余裕も士爵には残っていなかった。
配られた頃よりはかなり体も大きく、丈夫に成長しているのでこのまま歩かせてもまだまだ大丈夫だろうが……。
他の学生達の足元を歩く犬達も似たりよったりだ。
「あっ!?」
士爵より二人前を歩いていたカムリ准爵の犬、ジュリーが足を滑らせて転んだ。
本来ならカムリはすぐにジュリーを抱き上げて怪我をしていないか心配する筈が、僅かに立ち止まるだけだった。
ジュリーもすぐに起き上がるとブルブルと体を振って泥や水を振り落としている。
今回の想定訓練が始まった時より、雨は断続的に降っていたので、犬がブルブルと体を振って雨露を振り払うたびに学生達は微笑ましくそれを見ていた。
しかし、飲まず食わず休憩も最小限、ついでに碌に眠れもせずにもう四日目。
犬を抱いたまま移動するような余裕など、全員がとうの昔に失っている。
今の戦闘隊長(想定訓練中の節目毎に学生間で持ち回りとなる)はマリーだが、彼女は次の教官交代地点まで無休息で行軍する事を宣言している。
この天候からくる足元の悪さと、遅々として上がらない行軍速度を考えれば、そうでもしなければその後がきつくなる事は明らかなために無休息に否やはない。
だが……。
――流石にもう限界だ。俺達もそうだが、犬も休ませてやらなければへばって動けなくなるぞ……。
バリュートは思い切って小休止を進言する事にした。
「エムイー! 戦闘隊長殿。小休止を進言いたします」
その声に全員が足を止めるが、先頭を行っていたマリーだけがゆっくりと振り返った。
「エムイー・バリュート、進言を却下する。次のチェックポイントまで私の計算だとあと一・五㎞はある筈よ。昼までに着かないといけないのに……」
「ですが我々はともかく犬達が限界です。五分でも懐で温めてやるべきでしょう」
バリュートの反論にマリーはトリスの顔色を窺うが、トリスは彼ら同様に濡れ鼠のまま黙って全員の様子を見回しているだけだった。
「確かにそうかもね。……じゃあ五分だけあの木の下で小休止をするわ」
進行方向に少し離れた所に立つ大きな木を指さしてマリーは宣言した。
「でもその後、その分少しきつくなる事を覚悟して頂戴」
「「エムイー」」
木の根元に腰を下ろした学生達は、揃いのこ汚い革鎧と体の隙間に犬を突っ込むようにして抱いた。
犬達も彼ら同様に濡れそぼっていたが、温かな体温までは奪われてはいない。
「エムイー・バリュートは犬達の為と言っていたけど……」
バルソン准爵は懐から首を伸ばして顔を舐めようとするコロルの頭を撫でながら微笑む。
「ああ、濡れてるけど温かいし、俺達の為とも言えますね。なぁタロー?」
クローもタローの鼻先をつついて答えた。
その隣ではミヅチも少しでも温めてやろうと懐に入れたシロに頬を舐められて表情を緩ませている。
その後はマリーの言葉通り少しきつくなったが、タイムスケジュールに僅かな余裕さえ持ったまま全員でチェックポイントに到達することができた。
チェックポイントは別の想定訓練でも使った事のある少し開けた場所で、驚いた事に大きなタープが張られており、しっかりと乾いた地面まで確保されているではないか。
タープの下には湯気の立つ鍋が火にかけられ、タープの外には天幕すら張られている。
そして、周囲にはエムイー訓練の教官も多数が歩哨のように立っている。
教官達は三ケ月前にエムイー訓練をクリアしたデーニックやガレイン、ラシュハッド、ダブリンらリーグル伯爵騎士団に所属する徽章持ちから五名に加えて、ここまで訓練生達と一緒に移動してきたトリスと同様にロリック、ビンス、ジンジャー、ロッコ、ジェル、キムといった殺戮者のエムイー徽章持ちも加わっている。
ニヤニヤしたり、少し心配げな顔つきをしたりなど表情は様々だが、全員が訓練学生達の様子をしっかりと窺っていた。
トリスは自分だけタープの下に入ると訓練学生をタープの外に並ばせる。
「戦闘隊長。報告!」
「エムイー! 第一期幹部エムイー訓練学生分隊はチェックポイント・ヘッチに到着いたしました!」
気力を振り絞るように声を上げ、マリーがトリスに報告する。
鍋から漂う匂いを感じているのか、誰もが腹を鳴らしている。
犬達も鼻を鳴らしているが火にかけられた鍋には近づけないようだ。
「うむ。ここまでよく頑張ったな。褒美に少し休ませてやる」
ロリックから受け取ったタオルで顔を拭き、トリスは尊大な様子で返事をした。
「エムイー! 有り難くあります!」
少し嬉しそうにマリーが返答する。
もうヘトヘトだったし、今この瞬間もこのまま地面に倒れたいくらいなのだ。
しかし、まだ大休止なりなんなりの許可は出ていない以上、全員が気を付けの姿勢で直立不動を保たざるを得ない。
それでも歩かないで済むだけまだマシと言えよう。
「おいおい、皆酷く汚れているじゃないか。学生共、自分のバディはしっかり胸に抱いておけ!」
ビンスの声に学生達は緩慢な動きでそれぞれの犬の名を呼びながら抱き上げ、整列し直した。
「カロスタラン助教も大変だったろう」
鍋をかき混ぜていたデーニックが器に何かをよそった。
「ほれ、肉多めにしといたぞ。皆も食えよ、温まるぞ」
鍋の中身はどうやら何かのシチューらしい。
しかも小麦粉と牛乳らしきものを使ったマリー直伝のホワイトシチューで、騎士団の食事でも大人気の一品だ。
見れば人参や蕪などの根菜の他、玉ねぎに加えて何らかの葉野菜、そしてゴロゴロと大き目の鶏肉がたっぷりと入っているかなり豪華なものだ。
学生達の喉が鳴る。
「おお、これはありがたいな……旨い!」
丼のようなボウルにスプーンを突っ込んで、早速シチューを口にしたトリス。
「これは美味しい。後で作り方を教えて欲しいな」
キムを始め、教官達全員が立ち食いでシチューに舌鼓だ。
しとしとと降り続く霧雨に打たれながら、学生達が目をギラつかせる。
飢えても結構我慢が出来る者はいるが、誰かが食べている所を見てしまうと我慢など簡単に決壊する。
抱かれている犬達も拘束から逃れようと必死に身をよじっている。
それを知ってか知らずか、早々に食べ終えた教官達が丼を水が汲み置かれたバケツに突っ込むと親しげな顔をして近づいてきた。
「ほら、ザックを下ろして重い剣を外せ」
教官達は訓練学生が携行していた銃を模したウェイトばかりか、腰に提げていた刀剣類に加え、最大のガンであったザックまで預かってくれた。
正直な話、重くて重くて参っていたのでこれには訓練学生達も戸惑いつつも嬉しそうだ。
「ああ、言い忘れたが貴様らにも飯が必要か……」
まさか、エムイー訓練中にこれ程豪勢な食事にありつけるとは……。
再び喉と腹を鳴らす。
「食いたいか?」
トリスの言葉に全員がエムイーと唱和するのもまた当然。
「そうか。食ってもいいぞ」
肩越しに親指で指し示す天幕の中には簡易的なテーブルが設えられている。
「「おお……」」
温かな食事を食べられそうな事を知り、訓練学生達は思わず声を漏らす。
そこに残念なお知らせがなされる。
彼らの前に表情を消したデーニックが進み出て来たのである。
「残念だが、貴様らの飯は用意していない。水だけならやれるんだがな」
その言葉と同時に丼が突っ込まれていたバケツが持ち上げられ、鍋に中身をあけられた。
じゅわっと音が立つがすぐに冷えてしまう。
だが、あの鍋にはまだ僅かに残っていたシチューの残滓や、バケツの水には教官達の食べ残しも溶けていた筈だ。
そして、唾を飲み込み続ける学生達の眼の前で鍋は火から外されて中身を地面にぶちまけられてしまう。
一斉に歪んだ顔になる学生達を前に、再び火に戻された鍋。そこに別のバケツから新たな水が汲み入れられた。
「さて貴様ら。見ての通り、鍋の中はまだ水しかない」
冷たく言い放つデーニックの隣に、こちらも無表情でロリックが進み出てきた。
「従って食事をするには調理が必要だ」
それはそうだろう。
「メニューは既に決まっている。お肉たっぷりの煮込みだ」
肉?
この辺りで食用可能な獣は各種の鳥類。
発見するのは大変だが、イノシシや鹿類もいなくはない。
贅沢を言わないのであれば魔物ですら選択肢に入れられるだろうが、ダート平原からは結構な距離があるのでゴブリンやノールなどのような人型の魔物を除けばロック・ヴァイパーやマウンテン・リザード系の爬虫類みたいなモノになるだろう。
何にしても、これから食材を探さなければならないのだろうか?
誠に面倒だが、食えるのなら狩りの苦労くらい何でもない。
願わくば、魔法を使う許可が得られれば最高だが、惜しむらくはあまりの疲労と空腹で魔術を使う程の精神集中を行う事は困難を通り越して久しく、殆ど無理な相談である事か。
「材料についてだが、外部調達は認めない。手持ちのみで賄え。喜べ、塩と胡椒は教官全員からのおごりだぞ」
頭まで拭き終わったトリスが平坦な声で言った。
その言葉に訓練学生達は一斉に首を傾げる。
何しろ彼らが携帯している食料らしきものは一人当たり数枚にまで減ってしまった乾パンと、僅かばかりの炒った豆類しかないのだ。
全員分を集めたところで、明日以降の栄養摂取を考えるとここでの食事に割り当てられる量などたかが知れている。
あの大きな鍋に入れてしまえばスープどころか色の付いたお湯程度にしかならないのは誰もが理解できた。
「ほれ、さっさと始めないと湯が沸いちまうぞ!?」
両手を腰に当ててデーニックが言う。
「まさか!?」
何を思ったのか、血相を変えたミヅチが憤激した様相でトリスを睨みつけた。
教官達の間に一斉に緊張が走る。
その様子に、思わず腰の剣に手を伸ばす者もいた。
「口から糞を垂れる前には必ずエムイーを付けるんだよ!」
ミヅチに足払いをしながらキムが怒鳴る。
足払い一発で地面に倒れたミヅチはかろうじてシロを庇うことに成功していたが動かなかった。
いや、動けなかった。
・・・・・・・・・
念のためミューゼ城で待機を続けたが、午前中のうちにミューゼ城を発っていた。
ゼノムや戦闘奴隷たちは万が一もあるので供をさせずにミューゼに置いてきた。
ミューゼを発ったあと、領都のラムヨークに立ち寄ってエーラース伯代バルトリム伯爵に戦闘結果や捕虜などの件について下知をした。
伯爵は俺が誰も供を引き連れていない事を知ると「どうか数人でもお連れください」と懇願してきたのには参った。
彼にしてみれば当然の発言であることは理解するが、なんとか振り切ってウラヌスを駆る。
ラムヨークから西に伸びるウィーザス街道を全速力で走り抜き、終点のウィードに着いたのはすっかりと日も暮れた午後六時。
今日の昼過ぎまで雨が降っていたらしいが、今は上がっており晴れている。
が、当然ながら辺りは既に暗くなっている。
幹部エムイー訓練が予定通りのスケジュールで進行していたならば、例のイベントは今日の昼――俺が空きっ腹を抱えてウィーザス街道を走っている頃に行われていた筈だ。
ウィードに駐屯しているザーム公爵騎士団の詰め所で簡単な食事をしたあと、ウラヌスを預けてウィード山に踏み込んだ。
本音を言えばここまで暗くなってから山になんか行きたくはないが、万が一を考えればエムイー訓練学生たちの心のケアをしてやりたい。
まぁ、意味をよく考えろ、とか言うくらいしかないんだけどさ。
それでも他の誰かが言うよりも騎士団長である俺が言う方が伝わりやすいだろう。
リーグル伯爵騎士団もまだ大した人数でもないし、ましてや訓練学生たちはミヅチは言わずもがなだし騎士団の幹部が中心なので元々俺との距離は近い。
グィネが作ったウィード山の地図で昼に行われていたお食事会の場所と今夜のチェックポイントの位置を確認する。
お食事会には二時間くらいかかるものと見込んでいる。
場所はウィードの街から北東に五㎞程離れたあたりだ。
そこから北西方向に八㎞程度の地点が今夜半のチェックポイントになっている。
ウィード山の北側中腹だ。
山の中だし、移動時間の半分以上は暗くなってからの移動になるからこれでもギリギリの距離だと思う。
彼らの中ではミヅチが赤外線視力を持っているので、暗くても二~三m先の仲間の背が見えるのなら山の中でもミヅチが先導することで行軍は可能だ。
……順調なら今はこの辺りかな?
だとすると……。
長期ライトを使って早足で行けば俺なら三時間でこの辺には到達可能か……。
問題は方角を見失ってしまう事だが、ウィード山中の夜間行軍は俺も経験がある。
最悪の場合でも特徴的な岩のある山頂を目指せば遭難の可能性はない。
念のために干し肉と乾パンを腰の物入れに突っ込むと、鎧下のみの格好で(自慢の冥越鱗はミューゼに置いてきている。ルビーやジェスが戻る時に持って帰ってきてくれる事になっている)山に足を踏み入れた。
雨は上がっているとはいえ、下草が濡れているだけでなく、地面も少しぬかるみ気味なのが嫌な気分にさせやがるぜ。
・・・・・・・・・
ひぃひぃ言いながら夜の山中を歩くこと三時間。
折からの晴れ間で副月の明かりが辺りを――長期ライトの範囲外まで――照らしてくれた事が良かったのか、あまり迷うことなく目的地点らしき場所へ到達することができた。
しかし、誰もいない。
小休止には絶好の場所なんだが、まだ来てないのかな?
地面を観察すると少し前に誰かが通った痕跡を発見した。
ありゃ。
こりゃなかなか頑張っているようだ。
結構早いのね。
でも、少し前に通ったのだろうし、ここからそんなに離れてはいるまい。
まだ近くにいれば俺のライトが見えているかもしれない。
今回は不意打ちを仕掛ける訳ではないので隠密はどうでもいい。
生命感知を使って探してみようか……。
おおう、感知範囲ギリギリまで離れてるのか。
これだけの距離があれば俺のライトは見えていない可能性もあるな。
なら折角なので汗を乾かしておこう。
この時期とは言え、流石に山の中を三時間も移動していれば汗がひどい。
鎧下を上だけ脱ぎ、乾燥の魔術で体と髪を乾かす。
ついでに脱いだ上着も乾かした。
本当は全部脱いでシャワーくらい浴びたいところだったのだが、このウィード山にだってモンスターは生息しているのだ。
まぁ、ダート平原内に比べれば大した相手ではないが。
のんびりシャワーを浴びている間に不意を打たれて殺されないまでも、怪我をして痛い思いをするのは嫌だからね。
……さて。
夜半のチェックポイントに先回りも悪くはないが、俺は長期ライトも使い放題なんだし足跡を追う方がいいだろう。
下草を踏んだ跡なんかは地面の足跡を見るまでもなく分かり易いし、何よりちょっと動けばすぐに生命感知の効果範囲に捉えられるだろうしね。
もう一度地図を見て、どういうコース取りで進んでいるのか予想してみる。
昼間なら問題なく進めそうな森は方角を見失う可能性を考えると……いや、日が落ちるよりも前には晴れていたんだった。
ネイタリも見えているし、時刻と月の方向がわかるなら今自分が進んでいる方角がわからなくなる事は考えていないかもしれないな。
多少ずれたところで大体合っていれば修正は可能なのだから。
だとすると、少しでも足場の良さそうなルートを選ぶだろうなぁ。
彼らに渡している地図はいい加減なものだが、訓練の第三想定でほぼ一緒の場所を使用している。
第三想定で通った時は昼間のはずなので、それを覚えている奴がいればこっちのコースを行くだろう。
程なくして追いついた。
相手は疲労困憊でのろのろ歩いてるんだし、コースの予想が合っているのなら追いつかない方がどうかしてる。
なお、煌々と魔術の明かりを灯しながら近づいてきたためか、彼らと合流する五〇mも手前で教官をしていた騎士団員に誰何された。
彼は騎士ガレインと言って、この夏に行われたエムイー訓練の修了者だ。
俺のライトに照らされて、胸に付けてあるエムイーの徽章が見える。
あ~、徽章の金剛石部分にシャドウドラゴンの鱗を使ってるからか、光を反射するな。
布製のワッペン的な物も作った方がいいだろうか?
ミシンがないので刺繍するなら手作業なんだよな。
そういえば前世の小学校の時の家庭科の授業で使ったミシンは電源不要の足踏み式だった。
ならば作れる気もするが……分解なんかした事ないし構造なんかさっぱりだよ。
それはそうと、予定通りならこの時間、と言うか、この行程の教官はキム(夜中の夜目は赤外線視力よりも有効だ)とラシュハッドの筈なんだが?
「あ、団長!」
「うん。訓練は順調か?」
「はい」
「そうか。私も訓練に合流する」
「分かりました。こちらです」
「そういえば、昼飯はどうだった?」
会話している間にクローの背中が見えてきた。
強い明かりを発しているからか、こちらを振り返る姿もある。
犬を抱いている奴は……。




