第三百七十話 領主の日常 6
7451年11月13日
バスコに率いられた赤兵隊はヘスケスを脱してより約三週間でバクルニー王国の領土へ入ることが出来た。
この三週間、可能なら街道を通りはしたが、道程の半分以上は道から外れた山野を移動してきた。
加えて宿泊は全て目立たぬように街道や人里から離れた林野での野営だけだった。
そのため、隊の戦闘要員はともかく、子供や老人などの非戦闘員達には疲労の色が濃くなっている。
まだ死者こそ出していないが、毎日馬車や牛車に揺られて体力を擦り減らしている年長者を中心に不満が出始めていた。
いい加減にもうそろそろ数日は人里に身を寄せ、ゆっくりと休息したいところではある。
先程戻ってきた斥候によると、あと小一時間も進めば小さな村があるという。
「よし。今日はそこで野営しよう」
バスコの言葉に歓声が上がる。
だが、まだバクルニー王国に入ったばかり。
――ここはもう少し先の街まで我慢のしどころだな。
そう考えたバスコは「だけど、明日には出る。すまんな」とも追加した。
今度はブーイングだ。
ようやく幼い子供や老人を休ませてやれると安心した戦闘員達も不満を口にしている。
そんな隊員達を宥めるように「今暫く……あと二・三日だけ我慢してくれ」と頭を下げるばかりだった。
しかし、どうにかこうにかでも国境を越える事が出来た以上、今迄のように追手に怯えて常に神経を尖らせなくてもよくなる事は大きい。
この三週間、赤兵隊は野営時には必ず周囲一〇〇mに歩哨を配置し、移動時にも前方を中心に四方向に斥候を送るなど細心の注意を払ってきたのである。
これらがなくなり、移動に楽な街道を使えるだけでもかなり楽になるのだ。
尤も、彼の心配するジュンケル侯国の追跡はヘスケスの周囲二〇㎞以内で赤兵隊を捕捉出来なかった時点で打ち切られていた。
別に侯国の重大な未公開情報や秘密を知っていて、それを何処かに売りに行くために強行脱出を図った訳でもないのだから侯国としては赤兵隊にプレッシャーを掛けられればそれで十分だったのだ。
侵攻作戦の失敗程度で侯国に対する見切りを付けてくれたバスコを捕らえて殺せればなお気が晴れる、という程度だったとも言える。
バスコとてその程度であろうとの予測はしていたものの、安心など出来たものではなかったというだけの話だ。
・・・・・・・・・
7451年11月14日
昼。
べグリッツの騎士団練兵場。
騎士団長は忠告をすると同時に素早く一歩下がりながら両の拳を持ち上げて顎をガードするような姿勢を取り続けて言う。
「おい。丸腰のときにそんなに間合いを取るな」
彼が相対している騎士団の若手従士の格闘戦があまりにも素人丸出しで、思わず口に出してしまったのだ。
団長の脚は左足を前に出し、右足を引いている。
そのために従士に対しては左半身になっているが、その姿勢を崩さない。
「敵の動きの全体が見える場所から、半歩外だ」
半歩踏み込めば、攻撃を当てることが出来、敵が退ってもすぐに追える距離。
これが徒手戦闘での間合いの取り方だ。
「それより遠くに行かれると……ほれ」
団長は左手の拳を素早く突き出してパンチを連打する。
拳にはバンデージのように細長い布を巻いているようだ。
対する若手従士も団長同様にバンデージのみの無手だが、素早い連打に近づくことすら出来ないでいる。
その様子を見て団長はジャブを止め棒立ちになると、左手を少し突き出す。
手のひらを上に向け、こっちに来いとでも言うようにクイクイとジェスチャーをする。
その様子を見た従士は団長同様に顎をガードするように拳を構え、少し前傾しながら素早く踏み込んだ。
「がおおおッ!」
踏み込みながら大声で叫ぶ。
従士は団長よりも頭一つ背の高い獅人族であり、今の叫び声はライオスの持つ特殊技能、【瞬発】だ。
だが、その踏み込みは左右の足を交互に出すような、普通の移動方法である。
一歩ごとに構えは左右逆向きになってしまうし、後ろにあった足を前に持っていく際に体は団長に対して真正面を向く瞬間がある。
団長はニヤリと薄く微笑むと従士渾身の右ストレートを一歩進みながらも素早く上半身を沈めて躱し、カウンター気味に従士の左脇腹に右フックをめり込ませた。
当然力加減は行っており、怪我をするほどのダメージはない。
「ぐえ……」
脇腹を押さえながら従士は地に膝をついた。
「お前、そんなんで良く村で一番喧嘩が強かったとか言えたな……」
ボクシングや空手などの立ち技主体の格闘技は、地球でも近現代で花開いたものだ。
パンチの繰り出し方や立ち方一つとっても団長の方がオースの人々より優れているのは当然だとも言える。
しかしながら、この従士はただ力に頼るだけ。
「次。他に腕自慢はいないか?」
両腰に手を当てて団長が見守っていた従士達に言う。
誰も進み出てくる者はいない。
どうやら従士達に徒手格闘の訓練を付けているところだったようだ。
「さて、徒手格闘戦で一番重要なのは先に言った通り体格と体重だ。私も単純な力比べでは彼に劣るかも知れない……」
そうは言いながらも肩まで袖を捲っている団長の二の腕は相当な太さであり、腹を押さえている従士のそれと比較してもあまり変わらないようにも見える。
かなり鍛え込んでいる事は明白だった。
「……が、技と知識があれば今みたいにひっくり返すことも出来ることをよく覚えておけ。近接格闘戦は実力差があればあるほど、スピードで差をあけられるんだ。うん。一発一発のパンチやキックを繰り出す速度は私も皆と然程変わりはないだろうな。この場合のスピードとは一発出した後の次発以降を繰り出せる速さを意味する。パンチを打った後、腕を引き戻して再度打つまでの時間や、攻撃を最短距離で相手に到達させる技術のことだ。姿勢の制御などを含む体の使い方と言っても良いだろう」
団長の言葉は剣や槍の技術にも通ずる部分が多く、従士達はよく納得した。
「同じように、殴る際にも拳のどの部分をどのような角度で命中させるかも重要だ。変な当て方や、当ててはいけない場所に当ててしまったら自分の拳を痛めてしまう事もあるからな」
団長の言葉に従士達は一斉に頷く。
「よし、全員立って構えろ。左足を半歩前に出せ」
普通、騎士団では利き腕は強制的に右手になるように訓練させられるので左利きに対する配慮はされない。
「そう。それでいい。そうすると自然と体は正面に対して少し斜めを向くことになる。次に左手で拳を握ってこうして顎を守るようにしてみろ。ああ、違う。拳はただ握るんじゃない。慣れないうちは小指から一本づつ、しっかりと握るようにするんだ。人差し指まで握った後で親指をこうして握る。これが正しい拳骨の作り方だ。ちゃんと握っていないと与えるダメージも減るし、怪我の元にもなるからな……」
そうして小一時間ほど構え方や足運びなど基礎的なボクシングを教え、攻撃方法は左手のジャブだけを仕込む。
「はっきり言っておくぞ。こうした技術を知っていると知らないとではかなり違う。そして技術の熟達度合いも違いを縮めたり広げたりしてくれる。それこそ多少の体格差ならひっくり返せる程度にはな。だけど限界はある。まず、自分より頭一つ以上も背の高い相手には素手では何をしても敵わないと思っておけ。当然急所を狙ったりしてその攻撃が当たれば倒せる可能性はあるが、人も含めて生き物は本能的に自分の急所を知っている。例えば目や鼻、金的などだ。そういった場所を狙うような攻撃はまず用心されているから命中は殆ど期待できない。第一、頭一つ以上の差があれば、普通は目や鼻なんかになかなか手は届かない」
そう言って従士達を見回すと、団長は続けた。
「そういう場合はどうするか? 貴様、言ってみろ」
適当な一人を指す。
「は! 一対一になるのを避け、仲間を呼びます」
「正解。そうならないよう、特殊な命令など特別な場合を除き単独行動は禁止されている。他には?」
「……武器を使います」
「うん、正しい。徒手での格闘は最後の手段だ。他には?」
今までの教育がきちんと根付いているらしい事に団長は満足そうだ。
「……えー、魔法が使えるなら魔術攻撃を行います」
「うーん。半分正解だな。魔法も悪くはないが、相手とあまりに近いと魔法なんかより殴る方が絶対に早いぞ。他には?」
「……申し訳ありません。わかりません」
「逃げる事だ。逃げて間合いを遠くしろ。そして武器になるものを見つけろ。棒きれ一本でも有ると無いとでは大違いだろ?」
「はい。分かりました」
「もう一度言う。徒手格闘は最後の手段だ。無手にならないように予備の武器を持つことを忘れるな。ナイフ一本でもいい。常に何か予備の武器を持っておくのは大切なことだ」
「「はい」」
「うむ。ではここらで実践に入ろう。貴様、それから貴様、前に出ろ」
団長に指名されたのは成人を迎えたばかりの普人族の男とまだ成人にすら達していない犬人族の男の子だった。
男の子はカーライル・バスボーンという名の准爵であり、王国からの実質の人質として団長が預かっている子供だ。
前に出てきた二人を少し引き離すと団長は、
「先程学んだ事を見せて貰おうか。お互いに左手だけ攻撃に使っていい。右手と蹴りは使用禁止だ」
と宣言した。
当然合図はない。
だが、あまりに体格差が有る。
身長だけを見ても頭一つ分は違う。
そうでなくとも、この年代での三歳差は大きい。
体格は勿論、体重差も大き過ぎる。
成人の従士は戸惑い、子供の准爵も顔を引き攣らせている。
「おいどうした? もうとっくに始まっているぞ」
団長の声に二人は覚悟を決めたらしく、教えの通り半身になると左手を持ち上げて構えた。
そして、子供准爵はすぐに姿勢を低くする。
成人従士はその低い姿勢には付き合わない、とでも言うかのように進み出た。
その時点で団長は「はい止め」と対決をストップする。
まだ碌に行動していない二人はぽかんとした顔で団長を見た。
勿論二人に注目していた従士達もである。
「まず貴様。どうしてああいった姿勢を取った?」
団長はまず子供准爵に尋ねた。
「は。彼とは身長差がありましたので、身を低くすれば私を殴り辛いと考えました」
「そうか。では貴様。貴様はどうだ?」
子供准爵に頷いて、次は成人従士に尋ねる。
「は……その、彼は私よりずっと小柄でしたので、体格の利を使うべきだと考えました。確かに顔面は殴り難いですが背中などは充分に殴れるかと……」
そこまで聞くと団長は続きを遮って「私は“先程学んだ事を見せて貰う”と言ったんだぞ。そんな低い場所を殴る方法は教えていない」と静かな声で言った。
成人従士は「しまった」という顔付きになる。
そして子供准爵も同様に「しまった」という顔付きをした。
彼も低い姿勢については聞いた記憶がなかったためだ。
「私が期待したのはお互いに武器を探しに行く事だった。まぁ、その素振りを見せた時点で止めたとは思うがな。皆もいいか? 人の言葉には必ず意味がある。彼ら二人は見ての通り結構な身長差が有る。そういう時はどうしろと言った? 貴様、答えてみろ」
団長はヒュームの女の子、ベリンダ・ザーム准爵を指した。
「は! 一対一になるのを避け、仲間を呼ぶ。武器か武器になるものを探すために間合いを開ける。またはもしも可能なら魔術を使う、の三つです!」
「その通り。体格差の有る相手と戦闘するな。相当な実力差でも無い限りまず負けるからな。一番大切な事だ。ガッツを見せるのも悪くはないが、私に対するアピール以上の物はない。そして貴様……」
団長は再び成人従士に向き直る。
「体格差を活かそうとすることは間違いではないし、むしろ正しい。だが、先程教えられた通りなら貴様にあの低い従士バスボーンに対し有効な攻撃方法はなかった筈だ。ならば武器を得るか、相手が武器を得ようとするのを防ごうとするべきだったな」
そう言うと団長は微笑みを浮かべて「全員、身長の近い者同士で二人一組になれ」と命じた。
従士達は普段から身長順で整列する事もあるため、すぐに二人一組になる。
偶数人であることもあって、あぶれた者はいない。
「今日から目の前にいる奴が格闘時の貴様らの相手だ。では私の合図とともに自由に殴り合え。但し、先程の通り攻撃に使っていいのは左拳だけ、いいか? 左手じゃなく左手の拳だけだ。そして武器の使用及び今の位置から五m以上の移動、援軍要請、そして倒れた相手への攻撃も禁ずる……では、準備はいいな? ファイッ!」
些か乱暴な訓練だが多少の怪我であればすぐに直してやれるという自負も団長には有る。
加えて、実際に殴り、殴られる痛みを知らなければならないという考えもあった。
団長の傍では子供准爵と少女准爵が壮絶な殴り合いを展開しているが、所詮は子供同士であり、左腕のみの攻撃。
お互いにまだ有効打は与えられてはいないようでかすり傷程度だ。
団長の周囲のあちこちで殴りつけたり殴られたりする音がし、苦痛に耐える声も上がってきた。
しかし、攻撃方法を限定しているためにまだ大怪我をするような者は出ていない。
だが、顔を腫れ上がらせたり痣を作っている者はそれなりに出始めたようだ。
「そこまで。全員止め!」
適当な頃合を見計らって殴り合いを止めると団長は「殴っても殴られても痛いだろ?」と笑った。
「その痛みをよく覚えておけ。人を傷つけるという事は相手に苦痛を強いる事だ。傷つけられるという事は命の危険を感じる事だ。苦痛を与えるならひと思いに殺してやるのも慈悲のうちだし、傷つけられる事を避けるのは自分の命を、ひいては貴様らの後ろにいる領民たちや土地を守る力を維持する事に直結する。戦場で死なないように訓練する事は必要で、当たり前の事だが、それをよく理解するんだ。では、本日の徒手格闘の講義はここまで。痛みの酷い者、我慢できそうにない者は治癒してやるから遠慮せずに申し出ろ。以上、解散!」
解散を命じたものの、大部分の者が治癒を求めて団長の前に並んだ。
・・・・・・・・・
従士達の治癒を終え、アルは団長執務室に戻る。
「ふい~、疲れた……」
こめかみを押さえつつ席に着く。
今回のように、今までにも連続して多くの治癒魔術を掛けた事はある。
その度に精神的疲労でヘトヘトになってぼーっとしてしまう。
そのためか、アルが使う椅子は大変に座り心地の良い高級品を王都から購入して使っている。
だが、回転機構やリクライニング機能はない。
勿論、簡易に高さを調節出来るような機能なども備えていない。
地球でもそのような機能を持つ椅子が誕生したのは二〇世紀以降になってからだ。
「椅子くらい作らせるか……だけどなぁ、そんなん出来るのトールくらいだろうし、奴は一人しかいねぇし……」
椅子一つとっても満足なものが出来るにはそれなりの時間を必要とするのは自明の理。
トールにはもっと重要な物を作って貰わねばならないのだ。
「まぁ、いいか椅子くらい……」
背凭れに背中を預け、これ以上無いくらいにだらしない姿勢で呟いた。
屋敷に帰れば寝心地の良いウォーターベッドもあるし、今だってその気になればソファに寝っ転がる事も出来るのだ。
「よっこいしょ……げぇ……こんなにあんのかよ」
机の未決書類入れに入っている書類を見て顔を顰めながらも姿勢を正して手を伸ばす。
小さな溜め息を吐きながら、引き出しからインク壺とペンを取り出した。
そして書類に目を通し始める……。
「……はいはいっと」
何枚目かの書類にサインをしている時、執務室の扉がノックされた。
「カロスタラン士爵閣下がお越しです」
執務室の外に立っていた当番従士の声がした。
「入れ」
扉が開けられトリスが入室してきた。
アルは書類から顔もあげずに「どした? 今日の報告は夕方だろ?」と声を掛ける。
トリスは苦笑いを浮かべながら机の前に立った。
「今夜はエムイーも休みの筈ですし、報告がてら食事でも如何かと思いましてね」
そう言うトリスの顔を見上げてアルは苦笑を浮かべる。
「いいけど、もう少し待ってくれ。他は誰か誘ってるのか?」
「ビンスとロッコが空いてるらしいですから来るそうです」
「まじかよ、あいつら来るなら海胆行けねぇじゃん」
「まぁまぁ、そう言わずに」
「わかった……一六時には行けると思うから先行っといてくれ」
「はい。カムランで席取っておきますね」
「ああ、頼むわ」
トリスが出ていった後、アルは軽い溜め息を吐いた。
「今夜はアルソンとゆっくり風呂に入ろうと思ってたんだがな……」




