第三百六十八話 ペット
7451年11月10日
ダート平原。
その南の中央部に広がっているミストック子爵領。
その更に中央の北の方にケルス村はある。
数日前、一個小隊の護衛を伴った貴人が村にやってきた。
言わずと知れたデーバス王国の宮廷魔導師、レーンティア・ゲグランその人である。
数日間休んで旅の疲れを抜き、これから南の海岸にある港街、カルネリへ向かって村を発つところだ。
今は村から少し離れた場所に張られていた大型の天幕の回収を終えたばかりである。
「皆、準備は良いわね?」
目の前に跪く戦闘奴隷達を見下ろしてレーンが言った。
奴隷達は声を揃えて返事をすると、レーンが用意をしてきた馬車に分乗し始める。
うち一輌は一際大型で豪華な装飾が施されている。
車体の側面に観音開きの大きな乗降扉を備え、普通の馬車よりもずっと容積が大きく、中に乗っている人物や荷物を外部の目から完全に遮ることが出来る造りになっているためにレーンがアレク専用の馬車を借り出した物だ。
つまり、本来は三公爵家専用の車輌である。
デーバス王国ではこの贅沢な馬車にしかサスペンション(板バネを利用したごく原始的なもの)はない。
勿論、このサスペンションシステムはアレクやセルが作らせたものだ。
戦闘奴隷のうちで唯一の大人、ジェリックが素早く立ち上がり馬車の扉を片方だけ、ゆっくりと開く。
と、扉を開き始めてすぐに隙間からぴょこりと顔を出す者があった。
「くぃるる~」
真珠のように美しい鱗に覆われた、ドラゴンだ。
「これマティ。今顔を出すな。奥に行ってろ」
ジェリックは言い含めるように命じながらドラゴンの鼻先を片手で奥に押しやる。
どうもエナではなくマティと名付けられたらしい。
「良いのよ。さあ乗りましょう。マティ、悪いけど私達の座る場所を空けてね」
レーンはそう言うと先に乗り込んでいたジェリックの介助を受けながら馬車に乗り込んだ。
馬車の中はかなり広く、レーンとジェリックの大人二人がゆったりと並んで座れ、その向かいにあったソファは取り外され、先のドラゴンが広い床スペースを占領している。
ドラゴンはすぐにジェリックやレーンにじゃれつこうと首を伸ばしてくるがその度にジェリックに鼻先を押し返され、それが楽しくなってしまったのか押し合いの様を呈し始めていた。
レーンが乗った後、扉はすぐに外から閉められた。
天井にある明り取りが開けられているので中は結構明るい。
なお、本来ならレーンは進行方向の奥側、つまり現在ジェリックが座る場所に座るべきなのだが、今回の旅に限り隣の扉側に座る事にしたようだ。
「では、準備が終わり次第出発してください」
扉に作り付けのスライド式の窓をずらし、護衛小隊の隊長に言うと、レーンはすぐに窓を閉めた。
数分後、馬車は車輪を軋ませながらゆっくりとケルス村を後にした。
上等な造りをしているがこの時代の設計から一歩も外れていないだけあって、馬車はかなり揺れる。
『さて。マティ、新しい言葉はどのくらい覚えたかしら? 今私が言っている事が解るなら一度頷いて』
そんな中、馬車移動に慣れているレーンは流れるように喋りかけた。
ドラゴンは喋るレーンを見て少し首をかしげた後で頷いた。
が、頷いた拍子に大きな揺れが起こり、レーンの膝に顎をぶつけてしまった。
この揺れについて、レーンとしてはなんとかして欲しい部分だと常々思っている。
慣れているとは言え、不快だし不便でもあるから当然の気持ちだろう。
だが、板バネはともかくコイルバネが作れない以上、サスペンションの性能にはどうしても限界はある。
加えてピストンやベアリングを利用した緩衝器など現時点では望むべくもないのだから、板バネのみのサスペンションが頑張ってくれたところで一度揺れ始めたら暫くは収まらないのだ。
「あ、こら! レーン様、お怪我はございませんか?」
「大丈夫よ。このくらいで心配はいらないわ」
パールドラゴンはそれなりに豊富な餌を与えられており、既にその体長は二m近くにまで急成長していたため、抱きかかえるには重く、大きくなりすぎていた。
しかし、生後半年も経っておらず、生まれ持った言語能力などは置いておいてもその性格はまだまだ子供である。
なお、デーバス訛ではあるものの、ラグダリオス語についてはとっくに理解しており、現在は喋る方の練習も終えたところだ。
それについて村に到着早々知らされたレーンも度肝を抜かれる程の言語能力である。
だからこそ、レーンも早速日本語を仕込もうとしている。
オースで使われているラグダリオス語は単語の発音を日本語から置き換えた言語に近いため、どちらかを話せるのであれば習得は容易と言ってもいいからだ。
「マティ、今日は挨拶の言葉を教えるわ」
「きゅいっ」
勿論、既にラグダリオス語をマスターしているので普通に返事をする事自体は可能なのだが、マティとしては発声しやすいためどうしても必要な場合以外は単なる“了解”という意味で使う返事は喉を鳴らす方を好む。
「まず、朝の挨拶ね。おはよう、は知っているわよね?」
「きゅいっ。おはようとおはようございます、あと、おはようさん。短くしておはよ、とか、おはーでもいいはず。おっはよーも通じるかな?」
「ん~、そう来たか……」
スラングのような使い方まで知っているのは如何なものかと思い、レーンは苦笑いを浮かべた。
「言葉はね、自分と相手の立場によって少しずつ違ってくるのは知っているわよね?」
「きゅいっ」
「うん。わかってるならいいわ。なら、私がマティにおはよう、って言ったら、貴方はどう返事する?」
「……こんにちわ?」
マティは少し首を捻った後で尋ねるように答えた。
その言葉を聞いてレーンは笑みを浮かべるが、はらはらするような表情で聞いていたジェリックはあちゃーと言うように顔をしかめて天を仰いでいる。
「ああ、今の時間ならこんにちわでもいいし、決して間違ってはいないけれど、私が聞きたかったのは、今が朝だと思った場合の事。いい? 今は朝です。……マティ、おはよう」
「……おはよう、ございます。レーン様」
マティの返事を聞いたジェリックは胸を撫で下ろしすようにホッとした。
彼ら奴隷達はマティを保護して以来、言葉についてはかなり一生懸命に仕込んでいたからだ。
しかし、仕込めたのは言葉や一部の常識のみであり、時制や目に見えない物事、場面の想定など言語以外についてはまだ不十分であった。
だとしても今の時点では十分に大したものだが。
「そう。それでいいわ。なら今度は私を……サーシャだと思ってね。いい?」
「きゅいっ」
「おはよ、マティ。お腹すいてない?」
「やあサーシャ、おはよう。少し減ってるかな?」
ジェリックの顔に笑みが浮かんだ。
「うん。いいわね。お腹減ってるの?」
ほんの一時間ほど前に、ハンザキンを焼いた肉を一〇㎏も食べたばかりだ。
レーンとしては流石にまだ腹は減っていない、と思いたかった。
「ちょっとだけ……」
ジェリックは再び天を仰ぐ。
「いいのよ。今私はサーシャなんだから」
そんなジェリックにレーンは笑いかけて言った。
マティもうんうんと言うように頭を上下させてている。
「じゃあ新しい言葉。おはよう、は『おはよう』よ。おはようございますは『おはようございます』になるわ。言ってみて」
『おはよう。おはようごじゃいます』
『おはようございます』
『おはようございます』
『そう。それで良い。使い方は「ボザコー」と「ボザコートーイルー」と全く同じ』
『おはよー。おはよございます』
『もう少し練習した方がいいね』
レーンはにこりと笑って言う。
この分なら日本語の習得についてもそれほど長い期間は掛からないだろう。
・・・・・・・・・
7451年11月11日
西ダート。
その北東部にそびえるウィード山を使った分散潜入を想定した幹部エムイーの訓練が行われていた。
今の時間は日の落ちた夜間で、気温も急速な冷え込みを見せている。
カムリ准爵はジュリーと名付けた真っ黒い仔犬を入れた風呂敷を肩から提げ、腹の前に仔犬を持ってきて抱いている。
腹の虫は数時間前からぐるぐると鳴いて飢えを訴え続けているが、今朝支給された食料は堅焼きにした大判のビスケット、カンパンが僅かに四枚だけだ。
そのうちの一枚は今日の昼に小休止をした際にジュリーと半分ずつ食べてしまったので残りはたったの三枚しかない。
いくら大判に作ってあるとは言え、今朝からカンパン半分ではどうにも辛い。
――もう一枚、食っちまうか?
山中にある適当な石に腰掛けながら頭に叩き込んだ地図と今まで移動してきた歩幅と歩数を計算し、現在地を割り出す。
誤差は一五パーセント程度であろうか。
さっきまで起きていて、准爵同様に腹を空かせて切なそうに鳴いていたジュリーは眠り込んでしまったらしく、声も立てずに動かない。
――いや、いつ終わるともわからないし、限界まで我慢すべきだな。
空にある主月の角度を見るに、まだ二〇時にもなっていない。
彼の脳内に展開されたウィード山の地図はかなりいい加減なものだ。
――皆との合流地点まであと二㎞あるかないか……四時間以内に行けるかな?
鼻の頭を掻きながら考える。
距離を考えると平均時速五〇〇mで移動しなければならない。
今朝から今までのペースを保てるのならそう難しくはない。
何しろ時速八〇〇mを超えるペースでここまで移動してこれたのだから。
だが、ここから集合場所までの距離のうち、半分程度はかなりの急斜面を横断しなければならない。
はっきり言ってかなりの難所だ。
明るい昼間でも移動速度は時速五〇〇mを切ってもおかしくはない。
抱いたジュリーがもぞりと動いた。
――鼻を鳴らしていないし、寝返りかな?
二ケ月以上も一緒に過ごしてきたジュリーの行動はもう手に取る様に分かっている。
今夜は主月は出ているが、三日月だし犬は元々夜目が利く訳でもないので夜に起きたとしてもすぐに寝てしまう。
カムリ准爵も狼人族のため夜目は一般的な普人族と同程度しか利かない。
その時、彼から少し離れた木の幹の向こう側で明かりが灯った。
明かりは彼との間に木の幹を挟んで点けられており、暗順応して久しい准爵の視力の邪魔をしないよう、細心の注意を払われて灯されたようだ。
――あんな所にいたのか……。
明かりの方から目を背け、准爵は苦笑いを浮かべる。
明かりを灯したのは准爵に随伴している筈の助教だろう。
暗くなる寸前に交代したのは気が付いていたが、空腹と移動に専念していたために今の今まで助教の存在を忘れていた。
助教は魔法が使えなかった筈なので魔道具でも使ったのだと思われる。
――確か、ケイネスタンと言ったか……。
准爵同様に三十路を越した精人族の男性だ。
先だって行われたエムイー訓練において、驚異的な体力と非常に高度で研ぎ澄まされた戦闘技術を見せつけた男で、領内の南東部にあるベージュ村の従士である。
エルフなのでインフラビジョンを使えばそれなりに暗闇でも見通せる筈だが、地図には温度差がないので明かりを灯さなければ見えないのだろう。
これが猫人族や虎人族、獅人族であれば今の月明かりでも充分に地図を確認出来る。
もう二分は休んだ。
――行くか。
よっこらしょと声が出そうになるのを堪えながら立ち上がり、歩き出した。
「きゅう~」
大きく揺れたからかジュリーが目を覚ましてしまったらしい。
風呂敷の中でもぞもぞと動き始め、ふんふんと鼻を鳴らし始めた。
「腹が減ったのか……俺もペコペコだよ。合流地点まで行って時間に余裕があればまたカンパンを食おうぜ」
ぐにゃぐにゃと動くジュリーを宥めるように風呂敷の上から撫でながら小さな独り言を呟く。
思えば、この仔犬はグリード侯爵の訓練時も、ケイネスタン達一般の訓練時にもいなかった存在だ。
当初は妙なお荷物を預けられてしまったものだと考えて困惑した准爵だが、実際に一緒に過ごしてみるとジュリーが居ることで想定訓練においてかなり精神的に救われている事が理解できた。
夜になると冷え始めるこの時期、体に温かい仔犬が触れていると、自分は一人ではない、と感じられ、この小さな命を守り、共にあるということに勇気づけられた。
朝、ジュリーが目覚めて元気に動ける時は勝手に夜露を舐めて水分を取り、准爵を導くように跳ねるように駆けてくれる。
その姿にはどんなに救われたろう。
呼べばすぐに彼の下に戻るので逸れる心配はほぼないし、ジュリーが通れるような場所は大抵の場合准爵も安全に通ることが可能だ。
休息を取る際に抱き上げてやれば、嬉しそうに顔を舐めそれがまた准爵に元気を分けてくれる気がした。
疲れて眠ってしまえば確かにお荷物ではあるが、確かな重さは守るべき息子を思い出させてくれる。
既にジュリーは准爵にとって大切なパートナーと言っても過言ではない。
――俺達騎士団の幹部は年長者が多いし、団長の温情かもしれないな……。
そう考え、薄い笑みを浮かべて准爵は重い足を運んだ。




