第三百六十三話 赤兵隊 6
7451年10月26日
ジュンケル伯国の首都、ヘスケス。
そこから一〇㎞程も北東にある小さな草原に赤兵隊が集まっていた。
今はジュンケル伯爵とその騎士団長であるロームリ子爵に対して三行半を突きつけている彼らの隊長の戻りを待っているところだ。
今回の遠征でロンベルト王国の村を襲った赤兵隊は多少の略奪品を得ていたが、ロンベルトへの侵攻戦自体は中途半端な結果に終わってしまっていた。
赤兵隊を率いるバスコはその点を指摘することでジュンケル伯爵との契約を打ち切る事にしたのだ。
尤も、その本音はプラスチック(ゴムの一種であるエボナイトだが)を作れるような者を抱えている国家と戦いたくないという消極的な物なのだが、馬鹿正直にそれを説明したところで彼の意見を容れてロンベルト王国との争いを止めてくれるとは思えなかったから、というのも大きい。
それならば、一度は占領、確保したジャロー村の警備に手を抜いて魔物の襲撃を跳ね返せなかった手際を失点として挙げ、可能な限り穏便に伯国を後にするべきだと考えた。
加えて、もう既にロンベルト王国へ侵攻してしまった以上、侵攻作戦の秘密はなくなっている事もある。
慰留くらいはされる可能性はあるが、彼が知っていた作戦はもう決行されているし、現時点で今以上の作戦については聞いていない。
要するに、知り過ぎてにっちもさっちも行かなくなる前に伯国と手を切っておきたかっただけだ。
だからと言って、当然油断はしない。
もう済んでしまった事とは言え、作戦の全容自体は知っていたし、伯国の兵力も大体理解している以上、はいそうですかと解放してくれると思うほどバスコは楽観的な男ではない。
「時間ですぜ……どうしやす?」
槍隊一番組の組長に任じられている精人族のサクロシリンが副隊長のジースに言う。
バスコは副官であるタニアすら伴わず単身でビサイン城に赴いていたが、戻る予定の時刻は少し前に過ぎている。
「行こうか……」
サクロシリンに答えながらジースはもう一度隊員達や馬車を見回した。
ヘスケスに残していた隊員達の家族など非戦闘員とは既に合流を果たし、非戦闘員は全員が馬車に乗り込んだまま出発に備えている。
問題はカモフラージュのために駐屯地に残したままの天幕くらいだろうか。
だがそれもどこかで購入は可能だろうし、天幕無しでの数日程度の野営など傭兵団に所属している者であれば余程の怪我人か病人でもない限りは耐えられる。
そして、今現在そういった状況に置かれている者は殆ど居ない。
バスコは交渉が上手く行かない可能性を考慮して戦地からは先頭を切って後退していたし、ヘスケスに残留していた者達に少しでも早く情報を知らせるために貴重な軍馬を使って先触れも送っていた。
当然、彼が指揮する赤兵隊自体も可能な限り急いでヘスケスまで後退をさせていた。
隊員達からは不満と怨嗟の声が噴出したが、それらについては一顧だにせず一心不乱に急がせた事も大きいだろう。
帰路において伯国との契約の打ち切りを伝えた際には大反対にあったが、副長のジースや副官のタニアがバスコの決定を支持し「隊長の決定に従えないのなら今すぐに抜けろ」とまで言ってくれたため大きな騒動には至っていない。
その御蔭で軍の伝令を除いて、遠征部隊のうちでは一番早くヘスケスに戻って来ている。
「ちょっと待ってよ!」
ジースの言葉に娘のタニアが反対した。
「ですが、隊長は時間が過ぎたら待つなって……」
弓組の組長、普人族のカッセイがおずおずと言う。
タニア自身もそうだが、赤兵隊の全員がここに留まり続ける危険性を理解していた。
「そうね。だけど私は待つべきだと思う。大体、バスコなしでこの先どうするつもりなの?」
タニアはカッセイを窘めるように言った。
「その為の指示だろ? それに徒歩の者も居るし俺たちの足は遅い。少しでも多く進んでおくべきだろう」
ジースは全員に出発用意の号令を掛け、馬に乗れる者全員を騎乗させる。
当然ながら万が一を考慮して全員武装は調えている。
バスコの足を引っ張る訳にはいかないとの思いもあり、後ろ髪を引かれながらもタニアは自分の乗騎に跨った。
確かに状況を考慮すれば今のうちに進めるだけ進んでおいた方が良い。
・・・・・・・・・
「くっ……」
バスコは歯噛みをしながら後ろを振り返る。
数騎の騎兵がたった今バスコが出てきた城の裏門から飛び出して来たのが見えた。
契約の打ち切り自体は勢いで押し、うまく行ったものの、やはり交戦相手国の出身だからか追手が掛けられてしまったようだ。
尤も、ビサイン城に居るジュンケル軍は半数以上が今回の遠征に出ていたためか、予想通り追手の数は少なかった。
また、バスコら赤兵隊から契約の打ち切りが通達される事は完全に予想外だった事もあって、いそいで命令したであろう事が追手達の格好にも表れている。
追手はほぼ全員が胸甲など重量のある装備を身に着けたままのようで、防具一切を身に着けていないバスコよりも速度は遅いだろう。
恐らくはビサイン城を警備していた騎士達に急いで命じたためだと思われる。
それにしても、バスコ一人に対する物としては充分な数だ。
――やはり一筋縄では行かなかったな……。
乗騎に鞭を当てつつバスコは予め想定していた逃走ルートの一つを選択した。
赤兵隊の駐屯地となっていた場所とは異なる方向だ。
伯国と契約していた傭兵団の戦闘員は全て出払っているため、傭兵団の駐屯地を通っても追手の戦力的に大きな問題はないが、多少の馬と騎手も居なくはない。
駐屯地を走り抜ける際に追手達が大声でバスコの捕縛や殺害を叫んだら徒に追手の数を増やしてしまう。
と、バスコの数十m先を走っていた半透明のバスコの背にクロスボウの太矢が突き立ち、半透明のバスコが落馬したのが見えた。
「ふんっ!」
タイミングを見計らって乗騎を少し右にずらす。
その瞬間に落馬して足元まで迫っていた半透明のバスコは姿を消し、また数十m先を疾走し始めた。
ちらりと後ろを振り返ると、追手の中の一人がクロスボウを投げ捨てたところが見えた。
冷静に考えて、急いで放たれた追手であれば、もう巻き上げ済みのクロスボウを所持している者はいないと思われる。
――急いで正解だったな。
正面を走る半透明な自分自身の姿を睨むようにバスコは眉間に皺を寄せた。
契約打ち切りに時間を掛けてしまっては、城内の警備体制を整わせ秘密裏に始末されてしまったかも知れないし、追手だけでなく待ち伏せの危険も増大した筈だ。
この程度の追手で済んでいるのは、今月の契約費用も受け取らずにとにかく急いだからだ。
――この分なら……。
もう少しで市街を抜け、耕作地へ出ることが出来る。
そう思った瞬間、先を走る半透明の軍馬がつんのめるように転ぶと同時に、騎手であったバスコが馬の背から放り出されるように宙を飛んだ。
馬の脚に矢が命中したようだ。
瞬間的に馬の左腹を蹴りながら首を押す。
軍馬はバスコの意の通り手前を変更し、左手前になった。
倒れた馬や放り出されたバスコは即座に消滅し、再び数十m先を駆けている。
――おー、危ねぇ。油断禁物だな……やはりタニアを連れて来なくて正解だったか。
もうクロスボウは無いと早合点してしまった事を反省しながら脳内で行っていたカウントを意識した。
乗騎を全力で走らせてもう一分も経っている。
流石にそろそろ速度を落としてやらないと馬が潰れてしまう。
ちらりと振り返ると追手の馬とは結構な距離が開いている事が分かった。
先程の射撃は射程ぎりぎりからのバスコに対する狙撃が外れたものだろう。
追手の様子を窺いながら襲歩から駆歩に速度を落とし、すぐに速歩程度までにすると、やっと一息つけた。
耕作地の外れまで移動して、馬から降りる。
そして、彼と同様に速度を落とさざるを得なかった追手達へと右手を向ける。
距離はまだ二〇〇m近くも開いており、当然バスコが使える攻撃魔術の射程外だ。
だが、予め精神集中を行って魔力を練っておくことで射程内に入って来た瞬間に射撃が可能になる。
ついでに言うと、そういった魔術攻撃の態勢を見せることで追うのを断念するか、再び全速力を出させて散開してくれる事も期待しての行動だ。
それなりの装備を着込んだ人間を乗せたままあれだけの速度を出させていた以上、もう一度襲歩で駆けさせてしまえばもう追えなくなる。
果たして、追手達はバスコの期待通り全速力で散開してくれた。
――そりゃ、誰だって魔術攻撃は嫌だしな。
追手達の様子を見て、ふっと笑い、バスコは再び馬の背に乗った。
今度は速歩程度にまで抑えている。
時速にして十数㎞程度の速度だが、この速さならばあと数分は駆けさせられるだろう。
しかし、追手達の馬はもっと遅い常歩でもそれだけの時間の移動には耐えられない。
軍馬はそれなりにタフだが競走馬ではない。
短時間のうちに二回も襲歩をさせてしまうと、数分でも停止して休ませてやらないと肺出血で潰れてしまう。
ただでさえ高価な馬、ましてや生産数の少ない軍馬などそう簡単に潰す訳には行かない筈だ。
現在、ロンベルト王国と交戦状態となってしまったジュンケル伯国としては一頭の軍馬も貴重な筈で、このような事で失える程裕福ではない。
・・・・・・・・・
ジースらに遅れること一日でバスコは赤兵隊に追いついた。
これだけ時間が掛かったのは追手を巻く為にヘスケスから北西方向へ向かった為だ。
勿論ジースらも駐屯地から出る際には野戦演習を行うと言って出てきたため、当初はヘスケスから北西方面へ向かっていたが、すぐに街道を外れると北からヘスケスを大回りして北東に向かっていた。
計画ではジュンケル伯国の北東にあるダムス地方、グラナン皇国ヘラルド伯爵領との境に程近いヒリッツの街方面へと進み、ヒリッツの手前二〇㎞程の地点で伯国の東にあるベルダン地方、グラナン皇国ホスラン伯爵領に向かう。
そしてベルダン地方を経由して南東にある隣国、バクルニー王国へと向かうのである。
本当は最初からロンベルト王国へと向かいたかったのだが、ヘスケスからロンベルト王国へ直行すると、赤兵隊に後続している筈のジュンケル軍やオーガ団と鉢合わせしてしまう。
それを避ける為と、逃走方向の欺瞞の為だ。
ヘスケスから一番近い国境線、外国はバスコの出身地でもあるロンベルト王国だ。
ヘスケスからロンベルト王国へ向かう近道は、先般の戦場から引き揚げてきた南東方面と北側からデマカール山を迂回する北西方面になる。
勿論デマカール山を突っ切るという荒っぽい方法もないではないが、これから雪が降ろうというのに馬車や荷車、そして徒歩の者を伴って山中を移動するなど自殺行為以外の何物でもない。
最終的な赤兵隊の目的地もそうだが、バスコとしてはデマカール山を北から迂回してロンベルト王国へ向かったと思わせたかったのである。
国境はともかく、グラナン皇国内でも領境さえ超えてしまえば追手に対して一応は安心が出来る。
当然ながら多少の困難を覚悟して道なき道を進み、関所などは迂回して密越境をするつもりである。
それでも休日など取らず最低限の休息のみで一週間も歩けばベルダン地方へと到達可能だとバスコは考えていた。
■バスコが一度ヘスケスまで戻ったのは隊の非戦闘員達の確保は勿論ですが、契約を正式に打ち切った事にしたかったらです。何も告げずにヘスケスから逃げ出してしまえば敵前逃亡と見做されてもおかしくはありません。
その場合、いずれは悪評が広まり、赤兵隊と契約する者は激減するでしょう。
しかし、正式な形で契約を終了させたのであれば今後も赤兵隊は傭兵団として問題なく活動が可能になります。
勿論、契約は契約当事者のどちらかが打ち切りを宣言し、双方共に秘密が無い状況であればすぐに打ち切りが可能という内容で締結されています。
そうでないと傭兵団は戦況が不利になることを予想しても逃げられませんし、逃げてしまえば悪評が付いて回ることになるために、これは一般的な契約内容です。
なお、ジュンケル伯国の軍備や兵力の状況などはある程度の期間ヘスケスで暮らして居る者であれば誰でも知る事が出来るような情報ですので秘密とまでは言えません。
■「手前」とは乗馬用語で馬が歩いたり走ったりする際にどちらの脚を前に出すかを言う言葉です。
左脚を前に出すのが左手前で、右脚を前にするのが右手前になります。
歩かせたり、普段の移動時のようにゆっくりと走らせている場合はあまり関係ありませんが、バスコの逃走時のように急いで走らせている場合は右曲がりの道は右手前、左曲がりの道は左手前で走らせないと遠心力で外側に膨れてしまい、上手く曲がれません。
今回はカーブではありませんが手前を変更することで馬の脚の運びを変化させて、矢を躱させました。
また、襲歩という程に全速力を出す事が出来るのは訓練された軍馬のみ(か地球で言う競走馬くらい)です。
荷馬など普通の馬は全速力を出しているように見えても、実際には駆足程度がせいぜいでしょう。




