第三百三十一話 かわいがり 1
7451年8月27日
――くそっ……何なんだよ、一体!?
深い森の中、やっと安全そうな場所を見つけたので休み始めたと思ったら、敵襲の報に飛び起きる。
「全員、アー方面へ脱出! 三〇〇先のポイント・ズィーで落ち合うぞ!」
戦闘隊長を受け持っているジンジャーの号令一下、つい一〇分前に下ろしたばかりの装備を担ぎ上げてトリスは立ち上がった。
彼が担ぐ背嚢には既に他人の荷物が一五㎏も入っている。
足は震え、肩に食い込むリュックサックの革バンドが、皮膚のずる剥けた痕を刺激する。
「くっ……!」
痛みに顔を顰めながらも周囲を見回したトリスは、休んでいた全員が立ち上がって移動を開始した事を確認し、走り出した。
連日連夜の襲撃に、さすがのトリスも焦りを感じている。
彼を含む訓練生達にのしかかる負荷は、肉体的なものだけでなく精神的なものも増していた。
エムイー訓練の総仕上げ、最終想定が行われている最中に焦りは禁物なのにも拘わらず、これでは先が思いやられる。
この最終想定は今まで以上どころか、相当に厳しくなるものとの予想を立てていたのは当然だが、その程度の予想ラインなどはとっくに通り越しており、トリスを含む一四名の訓練生達はもう既に限界を迎えていると言っても過言ではない状態だ。
――訓練開始が昨日、日付が変わった頃……まだ二日も経っていないってのに……くそっ!!
スケジュールは遅れている。
まだ致命的と言う程ではないが、このまま行けば明日中にもそうなってしまう可能性は高い。
最初のケチは彼らの宿舎がある騎士団本部から、訓練開始地点までの移動中に起きた。
今までに行われた幾つかの想定訓練と同様、訓練兵舎から移動用の馬車に搭乗したのはいい。
しかし、移動を始めて一時間程経過した時点で何者かの襲撃を受け、馬車に致命的な損害を受けたと見做されてしまったのだ。
真夜中の出発だったこともあるし、今までの想定訓練では訓練開始地点までの移動中に襲撃を受けた事はなかった事もあって、見張りの為に御者台に座る者は誰一人として居なかった。
――教官殿方が“移動中くらいは休んどけよ”とか言っていたのはこの最終想定を見越しての事だったんだ……。
当初こそ、トリス達も訓練開始地点までの移動中に見張りを立てるべく交代で御者台に座るつもりだった。
そして、最初と二回目の想定訓練では実際に御者台に見張りも張り付けていた。
だが、二回とも何の襲撃を受けることもなく、無事に訓練開始地点まで到着したのだ。
“だから言ったろう? しんどいんだから休んどけって”
教官達は揃ってニヤニヤしたり、考えの足りない者を見るような蔑む感じの目つきで言っていた。
それを見たトリス達訓練生は、そのように言われた事で“訓練自体への集中のために鋭気を養っておけという事だろう。実際にその分、いらぬ苦労を背負い込む結果になったんだし”と勝手な解釈をして、言葉に甘えてしまった。
尤も、事実として前回の想定訓練である八回目までは途中何回かあった、徒歩での移動時も含めて全て何事もなかった事も確かであった。
――油断してたこっちが悪いとは言え……。
お陰で今回の想定訓練では開始地点への到着は二時間も遅延してしまった。
だが当然、終了予定時刻に変更はない。
「はぁっ、はぁっ……」
どれだけ息を吸っても吸い足りない。
――肺が破けそうだ……!
疲労の蓄積で目の奥が痛い。
「くそっ!」
悪態を吐いて歯を噛み締めるとまた一歩、痙攣し始めた足を踏み出す。
相手の数を見極め易く、倒せそうなら反撃しても良い昼の襲撃ならともかく、夜間の襲撃は出来るだけ交戦を避け、危地からの離脱を命じられているため、赤外線視力が使えるトリスとしては少しもどかしい。
彼の肉体レベルだと双月ともに新月の闇夜だろうがかなり遠くまで見通せるのに。
エムイー訓練では基本的に部隊に被害を出さないよう、徹底した指導がされる。
彼一人が闇を見通せ、襲撃者と相対できたとしても、赤外線視力が使えない者が倒されてしまえば目的の達成が困難になってしまう可能性を慮っての事である。
このような時は赤外線視力が使える者が部隊の先頭と後方に立ち、全体の誘導を行うことが良いとされている。
トリスと同様に追加で他人の荷を背負っているロッコも散っていた見張りと合流し次第、彼らを誘導して合流地点を目指して駆けている筈だ。
各想定訓練では大抵、爆薬や導火線、信管という想定の荷物が発生するのが常だが、それらは押しなべてかなりの重量物になる。
そのくらいの量がないと想定された任務が達成出来ないように考慮されているためだ。
なお、彼らが担ぐ爆薬の破壊力は、わざと実際よりもかなり低めに想定されているが、専門知識のないトリス達には、座学時に教官から教えられた計算式に基づくより他に判断基準はない。
今回も明日の夜半に行われる予定の敵軍の補給拠点を完全爆破することが主任務である。
それに先駆けて今日の昼頃行われた、敵補給部隊への待ち伏せ襲撃に始まり、こちら側の情報提供者との接触が明日の朝の予定だ。
だが、このように碌な休憩も取れずにいる状態だと明日の朝の接触予定地点までの移動すらギリギリになってしまうだろう。
――あ~捨てたい!
両手で抱えている、ライフル銃を模して三本まとめて縛った長剣の束が重い。
鞘に納められていることもあって、その重量は四㎏以上になっているかもしれない。
弾薬想定の小さな箱は一つ二〇〇グラム近くもあり、それが三〇箱分ある。
それだけでもかなりの重量と体積を食われている。
加えて、護身用に携行が許されている各人の近接武器。
トリスも魔法の剣である炎の剣を左腰に提げているが、長物である上にそれなりの重量もある。
そして、剣が活躍するのは、極稀にある昼間の弱い魔物と出くわした時くらいだった。
正直言って、全て標準装備として必ず身につけておくように、と最初に渡されたナイフでも事足りただろう。
だが、やはりダート平原の内部を踏破するとなると、ナイフ一本では心許なかったのも確か。
今回の想定訓練では出くわしていないが、スタッグライノやマンティコア、ラミアなどと出会ってしまえば、いかなる場合でも魔法の使用が禁じられている以上、それなりのダメージが見込める近接武器や弓矢は絶対に手放す訳にはいかない。
ジンジャーや騎士団から参加した者など、この瞬間も長さ四mもある槍を担いでいる者も複数いる。
お陰で追加で背負う羽目になった荷物にも彼女達の分が紛れている。
やっとトリスの赤外線視力に、森の切れ目らしき場所が映った。
休憩前に決めた周辺の地図を思い出すまでもなく、あそこがポイント・ズィーだ。
木々のない開けた場所。
トリスは用心深く観察を行い、危険はなさそうだと判断する。
ポイント・ズィーは下草が夜露に濡れていることで、照らす月明かりを乱反射して一種幻想的な雰囲気を醸し出している。
軽く叩かれた肩に反応し、トリスは低い声で「異常なし」と告げた。
「よし……じゃああそこで大休止の続きだ」
掠れそうな声でジンジャーが命じる。
その頃にはロッコと一緒に見張りについていた者達や、今夜の教官であるバルソン准爵も追いついてきた。
それ以降は全員無言のまま肩の荷を下ろすとそれを枕に寝転がる。
腹も減っているが、今日は夕食として乾パンを少し食べているので限界まで空きっ腹という訳ではないため、見張り担当以外の全員が直ぐに目を閉じた。
・・・・・・・・・
「エム……カロ……ン……エムイー・カロスタラン……」
ゆさゆさと揺すられると同時に名を呼ばれた事でトリスは意識を回復する。
目を開けるよりも先に腰の物入れに入れてある時計の魔道具に手を当て、時刻を確認する。
――二二時四三分……見張り交代か。
目を開けると当然ながらまだ暗い。
大休止に入ってから三〇分くらいだろう。
分かってはいたが。
これから二〇分間、トリスが見張りだ。
トリスは頭を振って意識を覚醒させると、起こしに来たロッコに頷いて立ち上がった。
代わりにトリスの荷物の隣に自分の荷物を置いていたロッコはもう横になり始めている。
彼の担当方向である東側に二〇m移動すると、生えていた木に腰掛けるのに丁度良さげな瘤があるのを発見した。
腰掛けてみると少し暖かい感じがする。
――こりゃロッコも使ってたな……。
周囲に視線を飛ばしながら、トリスは今回の想定訓練の先を予想する。
今回の想定訓練の作戦立案時、大休止は二時間とされた。
移動距離や定められた時間などからそう決めざるを得なかったからだ。
なお、当然野営などというのんびりした選択肢は真っ先に排除されている。
トリスに限らず訓練生の誰しもが、野営のように、天幕の中で雨や夜露に濡れずに連続で数時間休みたいという欲求は当然ながら持っていたが、それだけ連続した休息時間を確保する事はまず不可能だと予測されていた。
野営のための準備時間すらも惜しかった事と、少しでも荷物を減らさないと幾何級数的に負担が増大する事について、既に学んでいた事も大きい。
何より、作戦立案時に戦闘隊長をしていたロリックが「そうする」と決定し、異論はなかった。
その際には珍しく教官も殆どダメ出しをしなかった事も後押しとなっている。
――畜生、少し寝ちまったからかな? 頭がボーッとする。
今のきつい状況と比較したらバルドゥックの迷宮で冒険していた時など、児戯にも等しく思える。
――アルさんは睡眠時間には相当気を配っていたし、休憩も必ず取っていたな……。飯も満足な量食えたし……。
皆が眠りやすいように土のベッドを作り、結構上等な温かい毛布もあった。
食事は、余程の事がない限り一日に一回は温かい物が食べられた。
水だって喉が渇けば好きなだけ飲めたし、迷宮内での生活は考えられる限りそれなりに快適であったとすら言えるだろう。
――しかし、今回も襲撃は矢か……。
報告によると、見張りに対してどこからともなく矢が飛来し、そばに立っていた木の幹に命中したという。
矢の鏃は取り外され、替わりに染料のついたタンポで覆われており、攻撃力自体は皆無に近い。
たとえ命中したところで目にでも当たらない限りは傷一つ負うことはないだろう。
最初の襲撃こそ魔術が使われ(実際の被害はなかったのでウォーター系の攻撃魔術だと思われる)たため、トリスやジンジャーなど殺戮者のメンバー達はアルの襲撃かと考えていた。
襲撃者にあの騎士団長が混じっているとしたら、色々な意味で大変なことだ。
それもあって、殺戮者のメンバーを中心に作戦に手が加えられた。
具体的には見張り役を増やす事だ。
しかしながら、そのお陰で移動速度は多少なりとも落ちる羽目になったし、休憩時の見張りローテーションも厳しいものになってしまった。
そして、今この瞬間まで反撃が許される昼間の襲撃は、偶発的な魔物との遭遇以外無かった、という点も実に嫌らしい。
――アルさんなら襲撃には魔法を使う筈。ということは、今回の襲撃役はクロスボウの名手だというカムリ准爵か……そう言えば今回の訓練中、カムリ准爵の姿は見ていないし。
溜め息を吐きながら周囲に視線を走らせる。
異常は、ない。
――それはそうと、流石にキツイ……。……くそぅ、あの女。ダブリンと言ったか? 騎士だってのに、まともに荷物も担げないとは。なら最初からエムイーとか受けるな……いかんいかん、こんな事を考えちゃまずい。
常に冷静であろうと努めるトリスも人である以上、不平や不満とは無縁ではいられない。
誰かのフォローに回る事は仕方がないが、いつもいつもだと流石に不満くらいは抱く。
――ひょっとしたら荷物を持ってもらって当然だと……くそっ、そんな訳ないのに。
騎士ダブリンは平民出身の二三歳。
正騎士の叙任を受けて二年目の普人族の女性だ。
それなりの資質に恵まれ、訓練を受けてきている。
体力も戦闘技術も、おそらくは咄嗟の判断力や指揮統率の能力もトリスが知る日本の同年代の女性とは比較にならない。
今回の最終想定訓練も当初こそ、荷物を持ってやるトリスに感謝の言葉を述べていたが、度を越した疲れからか、空腹からか、それとも渇きからか、昨日あたりから無言だった。
どうにかこうにかトリスは交代時間まで耐え、次の見張り役と交代すると再び短いが深い眠りに落ちていった。
・・・・・・・・・
大休止が終わり、簡易地図を基にした移動前のコース確認の時。
「という訳で襲撃者は、最初の移動中の時こそ断言は出来ないが、今はアルさ……団長閣下ではないと思う。皆はどう考える?」
トリスは思い切ってそう言ってみた。
「エムイー・カロスタラン。実は私もそう考えていた」
真っ先にロリックが頷く。
すると我も我もと賛同者が現れた。
――やはり皆考えることは一緒だったか。
皆の合意を得た事でトリスは表情を緩めた。
・・・・・・・・
7451年8月29日
昼前。
トリスたちエムイー訓練生が獣道の先に姿を見せた。
隊列は昨日確認したままの縦列の左右に一人づつ見張り役を置いているだけだ。
足取りはかなり重そうで、いい感じにヘロヘロになっている者も見受けられる。
まだ遠すぎて表情までは窺えないものの、雰囲気は良さそうだ。
ふん。
疲労や睡眠不足から移動速度はかなり落ちているが、最初からそれは織り込み済みだろうし、この分ならスケジュール的には多少余裕もある。
加えて、昨夜の爆破は上手く行ったみたいだし、今朝はガレオン・リザードというそこそこのモンスターも怪我人を出さずに倒した事もあって調子に乗っているのだろう。
因みにガレオン・リザードはブレスを吐かないフロスト・リザードみたいなモンスターで、疲れて体力が落ちている上に、魔術が禁じられている彼らにはかなりの強敵だった筈だ。
草でカモフラージュをした革製のヘルメットの位置を直し、草叢に身を潜め続ける。
ドーランがないのでそれっぽい草の汁や泥で顔に施したカモフラージュが汗で流れる。
この暑い最中に待たせやがって。
実はもう二時間くらいここに潜んでいるんだよね。
……この想定訓練が終わるまで、まだ二十四時間以上ある。
訓練生たちに渡してある魔法の治療薬は二本だけ。
まずはそれを無くしてやるべきだろう。
発見されるギリギリまで身を潜め続け、いい感じまで近づいて来たところで襲いかかった。
あー、勿論真剣じゃない。木刀だよ。
だが、掛け値なしの全力を振り絞ったためか、隊列の先頭を歩いていたロッコの太腿を砕くことに成功した。
「いっ……!?」
驚愕に目を見開き、痛みを堪えるロッコ。
片足折られちゃ動けまい。
「襲撃だ! 散開!」
「相手は?」
「鎧を着てる。一人!」
口々に叫びながらも必死に散開して、反撃体制を整えようとする訓練生たち。
だが、やはりノロいな。
もう三日三晩も碌に食ってないし寝てないしで、仕方ないんだけどね。
「糞、カムリ教官か?」
あー、カムリ准爵なら今日から休暇だから今頃家で寝てるさ。
ロリックの腹を蹴るが、流石に手は抜く。
でも、「うっ」とか呻いたきりで何も出来ないまま倒れちめーやんの。
まぁ俺でもそうなるだろうけど。
木刀を振ってジェルを遠ざけ、トリスへと突進する。
「なっ!? あ、ぎゃっ!」
アルさん、と言いかけたんだろうが、その前にロッコ同様に太腿を折ってやった。
さぁ、やることを済ましたので脇目も振らずにとんずらだ。
・・・・・・・・・
昼過ぎ。
報告によれば、予想通り奴らは虎の子のヒーリングポーションを使ったらしい。
そりゃあ、あの二人が自力で移動出来なくなっちまえば明日の正午迄に騎士団本部まで戻ることは不可能だ。
仲間を見捨てる事を禁じてはいないが、取り返しがつかないくらいに大幅な減点になると言い含めてある以上、当然の選択だろう。
そして、俺は襲撃時にロッコとトリスの目を見ていた。
他の全員が死んだような目つきになっていたというのに、奴らは揃ってまだ目に光を灯していた。
それを消してやる。
何せ、自分一人がいくら頑張ったところで任務の達成は出来やしないと言う事を骨身にまで思い知らせ、挫折を経験させるのもレンジャ、もとい、エムイー訓練の目的の一つなのだから。
今度は奴らの肋骨でも折ってやればいいだろう。
なぁに、折ってから二十四時間以内に治癒魔術を掛けてやれば後遺症なく治るよ。
第一、骨折なんて応急処置がちゃんと出来てるなら二十四時間経ったところで問題なく治せるんだし。
あはは。そういえば肋骨は応急処置なんて出来ないか。
でも、粉砕してやるとか、折れた先が内臓に刺さったとかじゃなけりゃ問題にはならない。
……加減が難しいな。
腕でいいか。
狙いやすい上に荷物を持てなくなる。
肩が理想かな?
荷物は当然、背嚢を担ぐのも難しくなるだろうし。
そうなった時こそ、奴は必ず余裕をなくす。
部隊のお荷物となるのだから。
俺?
俺も心が折れる寸前だった。
何度投げ出そうかと考えたことか。
何せ、彼らよりもずっときつい内容だったんだし。
因みに俺の場合、想定訓練の最中の休憩時間で寝過ごしてしまい、挫折を味わった。
寝過ごした三時間を取り戻すのに血反吐を吐く思いをし、締め切り時間丁度というギリギリでのゴールが挫折だった。
実は数十秒間に合っていなかったんだ。
だけど、バリュートが「規定には本日の一五時〇〇分迄の到着とあります。現在時刻は一五時〇分四〇秒。一五時一分になっていないので合格です」と言ってくれたんだ。
俺には相棒もいなきゃ訓練部隊もいないから、起こしてくれる人は居なかったのが敗因とも言えるが、そんなもの、単なる言い訳に過ぎない事は俺自身がよく知っている。




