幕間 第三十六話 連城幹也(34)の場合(前編)
「お~、寒っ……」
かなり高級なコートの襟を立てて、幹也は踏切へと歩いていた。
耳には高品質のイヤホンを詰め、学生時代からファンを続けている北欧のヘヴィメタルバンドの曲を大音量で再生している。
今日は彼が師範として務めている道場も昼稽古は休みの日で、出勤は夕方からの日だ。
住んでいるアパートから妻子に見送られて出勤し、その足でまず趣味の模型店に寄ってしまった。
こう見えて名城や峠の茶屋などのプラモデルを作るのが幹也の趣味なのであるが、身内は元より今までに会った全員が趣味を語ると微妙な表情をした事だけは理解出来ない。
ガンプラや飛行機、戦車、艦船、各種フィギュアだけが模型ではない。
本来の模型とは城郭などの建物の方が本流の筈――その考えが正しいかどうかは別として幹也はそう思っている。
この春から小学校に上がる愛娘だけが幹也の趣味に対する唯一の理解者である。
――これは水田もあるし、何かそれらしい……ブロッコリースプラウトでも植えてやれば娘も喜ぶだろうな。
そう思って顔を上げると前方を見た。
踏切の反対側からも幹也と同様に何人かの人や自動車が踏切に入ってきている。
――こっち側で正解か。
幹也が歩いているのは道の右側だ。
この道路は路線バスも走っているため、同方向へと進む路線バスやトラックの排ガスを直接浴びることがままあるため、それを嫌ってのことだ。
最近ではかなり減ってきたが、踏切待ちでもエンジンを切らずにアイドリングを続けているという、環境に配慮しないドライバーもまだまだ多い。
イヤホンからは低くリズムを取るベースとマシンガンのように叩かれるドラム、そして黒板を引っ掻くような音のギターが鳴り響いており、そこに高い声が特徴のヴォーカルの声が被さる。
ヘビメタバンドの歌詞はフィンランド語なので幹也には何を歌っているのか理解出来ない。
だが、このリズムとメロディー、そしてとてつもない肺活量を誇っているであろうヴォーカルの声が幹也の心を掴んで離さないのだ。
踏切の直前でちらりと右上を見上げた。
信号には赤ランプも点滅しておらず、竿も上がったまま。
幹也も踏切内へと足を踏み出した。
対向車は途切れているが、視界の隅でバスが踏切に侵入してきたのがわかる。
なんとはなしに顔を上げ、視線を正面に移した。
幹也と同様に線路内に侵入していたのは僅か数人であり、その数人を含め全員が左方に顔を向けていたのがわかった。
踏切の中に入ったまま大口を開けて左側を見ている男。
踏切の手前で足を止め、頭を抱えてその場にしゃがむ男女。
――?
一体何があった?
そう思う間も無くイヤホンの外側から大きなスキール音が鼓膜に届く。
これだけのボリュームを突破してきたからにはもう相当に近づいている!?
――危ないっ!?
本能的に足を止め後方へと振り向く。
コートに突っ込んだ左手に提げていた模型店のロゴが入った紙袋が翻る。
ほぼ同時に道の左側から大きな衝突音が響き渡る。
その頃には完全に後ろを向き、踏切内から脱出しようと幹也は走り出していた。
幹也の背中側からガラスの破片や細かい車両の構造材が飛んできた。
背中や後頭部に幾つか食い込んだのが判る。
中でもうなじの辺りから届く灼熱感は生命の危機を感じさせるのに充分だった。
思わず首に手を当てようと右手を上げるが、視界はそのまま斜めになり、あっという間に地面と同じくらいの高さになってしまう。
倒れた、ということだけは辛うじて理解できたが、不思議とうなじ以外は何処にも痛みは感じない。
「ごぷっ……」
血を吐き出す幹也が最後に見た光景は冷たく光るレールの表面だった。
・・・・・・・・・
生まれ変わって四~五年も経ったろうか。それともまだ二~三年か。
幹也は今日も棒で叩かれている。
幹也が生まれる前から、両親は奴隷だったのだ。
幹也の一家が仕えているのは醜悪な外見をしたボギーという種族だ。
成人のボギーの体高は平均して一七〇㎝程で、幹也がイメージする日本の成人男性とそう変わらない。
しかし、体格は幹也が知る、いわゆる“地球の人間”などよりずっと良い。
少しばかり肥満している感じを受けなくもないが、総じて筋肉質であり、少し膨らみ気味の腹も贅肉の下にはそれなりの筋肉が発達しているであろうことに疑いの余地はない。
そんなボギー達に対して幹也の父親であるゾスはきちんと直立すれば三m弱程の身長を誇る大男である。
母親のダリンもそれより少し低い程度で、ボギーなんかとは比較にもならない。
幹也が生まれ変わって一年くらいこそ両親や幹也自身もボギーと同種族だと思っていた。
だが、顔貌や皮膚の色(ボギー達は少し緑色がかった皮膚を持っているが、幹也も含め両親達は日に灼けている事を除けばアジア人同様の肌色だった)も異なっている。
体型自体も結構異なるうえ、何よりも体格は両親達の方が圧倒的に良い。
量はともかくとして、普段口にしている物自体は肉類(しかも味付けもしない生の内臓)が中心で、その他の食物については滅多に口にしない割には驚異的な体格である。
正面から喧嘩をすればボギーなど誰一人としてゾスには敵わないだろう。
それでもボギーに仕えているのには理由がある。
両親は揃って精神薄弱のケでもあるようで、有り体に言えば愚か過ぎたのである。
自制心が低く、怠け者である上に意地汚い。
尤も、最低限の自制心は保有しているようで、所構わず自慰をしたりまぐわったりはしないし、食べ物も子供である幹也にはきちんと与えるようにしていたのは幹也にとって少し意外だった。
だが、両親揃って火には大層な怯えを見せ、火の付いた棒でも近づけられようものなら、幹也を庇うように抱きかかえて縮こまってしまう。
これは、両親の肩や腕、背中などに大きな火傷の跡がある事とは無関係ではないのだろうと思われた。
何にせよ、その辺りをボギー達に付け込まれ、奴隷とされてしまった要因でもあるのだろう。
そして、元々大して語彙の多くないボギー達が喋る言語も碌に解さず、昔から使っていたという別の言語(こちらも負けず劣らず語彙は少ない)に固執し、夫婦間ではその言語のみで会話している。
ボギー達の言葉については、本当にいつまで経っても慣れずにごく簡単な単語しか理解出来ていないあたり、幹也にはどう擁護しようとも頭のネジが幾つか欠けているとしか思えなかった。
命令形の動詞と指示詞、ごく簡単な人称代名詞を解するのが精々で、目的語や形容詞、接続詞を含む各種助詞が交じるともう混乱してしまう。
因みにこれらは両親が元々喋っている言語にも似たようなものは存在するので、異言語に慣れていないというだけでは説明が出来ないと思っている。
両親の仕事は、どこかから得てきた麦などの穀類の脱穀や料理の他、狩りで得たらしい動物の解体・革鞣し(文字通り、口で噛んで鞣している)、そして略奪(まだ同行したことはない)の主戦力のようだ。
なお、鞣した革はボギー達の間ではそれなりの価値を持っているらしく、幹也達には回って来ない。幹也を含め両親達の衣類は鞣していない生革を腰巻きにしている程度なので常に悪臭を漂わせている。
そして、幹也がある程度大きくなった(成人のボギーよりも数十センチ低い程度)とき、初めて略奪に同行することになった。
狩りはともかくとして、略奪の獲物には小麦だけでなく、布製の衣類や金属製の刀剣などが含まれていたことから、この世界にはボギーやボギー達が彼らの言葉でドモスと呼ぶ幹也達の種族以外の種族が居るであろうことは感づいていた。
ついでに、獲物が加工品である事から、それら略奪の対象種族は原始人より多少マシな程度の文明や文化しか持たないボギーやドモスなどよりも余程高度な文明を築いていることも想像がついている。
何しろ棲家からして、まるで縄文時代のような草木を編んだテントのような家屋しかないのだから。
「ヤツラ、コロセ」
ドモスにも解るように敢えて簡略にしたボギー語で、幹也達は耳を疑うような事を命じられた。
略奪とはどこかの集落に盗みに行く事だと思っていたのだ。
まさか殺して奪う文字通りの略奪だとは思って、いや、信じたくはなかったのである。
驚いて抗議しようとした幹也のすぐ脇で両親は野太い棍棒を手に崖下の街道を通る馬車隊に向かって駆け下りて行った。
幹也も慌てて後を追うが、両親達のようにひょいひょいと崖を駆け下りる事は出来ない。
そんな幹也の目の前で両親は雄叫びを上げながら棍棒を振り回し、あっという間に馬車隊の護衛や御者を殴り殺してしまった。
勿論、馬車隊に帯同していた護衛も抵抗を試み、御者も逃走を試みてはいたのだが、ゾスやダリンは駆け下りながら大人の頭ほどもある大きな石を投げて馬車を引く馬に命中させ、一撃で首をへし折って逃走を阻み、射掛けられた弓矢なども物ともせずに護衛を一撃一殺で仕留めたのだ。
当然、刀槍で攻撃してきた者もいたが、両親は幹也も舌を巻くほどの剣技(?)で攻撃をいなし、接近戦では傷一つ負いはしていない。
まさに大人と子供の殺し合いで、まともな勝負にすらなっていない。
ここで幹也は大切な事に気が付いていた。
護衛達は両親の事を「オーガ」と呼んでいたのだ。
――オーガだと? 言われてみれば確かに……。
短くて太い脚に較べ倍ほどにも長い腕や、受け口気味の下顎からはみ出すように伸びている大きな犬歯。
純粋なドモスであろう両親程ではないとは思われるが、そのどちらの特徴も幹也は受け継いでいる。
鏡を見た事はないので顔付きまでは知りようもないが、幹也も両親と然程変わりのない顔つきをしているのであろう。
要するに幹也の感覚では結構醜い筈だ。
幹也達がオーガなのであれば、ボギーは何なのだろうか?
幹也は思い出そうと努力したが、目の前で惨劇が繰り広げられた事に心を奪われ、そのような疑問はどこかへと消えてしまっている。
そんな幹也の前では両親が馬車の幌を毟り取っていた。
絹を引き裂くような悲鳴が耳を打つ。
三輌の馬車のうちの一つには、いろいろな荷に混じって女性や子供も居たようだ。
――やっぱり人間……だよな?
金切り声を上げる女性にはまだ幼い子供が抱きついている。
ダリンは両脇に子供を抱きかかえたまま錯乱したかのように叫ぶ女性から子供を毟るように奪うと、二人纏めて足を持ってぶら下げる。
ゾスは女性の首根っこを掴んで荷台の上から引き抜くように持ち上げた。
女性に続いて二人の子供も火が付いたように泣き叫ぶ。
そして……ダリンは躊躇なく地面に打ち付けた。
一発で子供は沈黙した。
母親らしき女性は首を掴むゾスの腕を引っ掻いている。
ボキン――。
嫌な音がした瞬間、ゾスの腕を引っ掻いていた女性は抵抗を止めて体をだらんとさせた。
そして、やっとボギー達がやって来る。
幹也は気が気ではない。
何しろ、戦利品とでも言うべき女性をゾスは殺してしまったのだ。
幹也の常識では、このような場合、オーガだのゴブリンだのオークだのと言ったファンタジーなモンスターは人間の女性を犯して愉しむものだったからだ。
しかし、意外な事にボギー達はまだ息のある護衛(どうやら女性も含まれていたらしい)やゾスに殺された母親には目もくれない。
それどころか馬車の荷物を漁り、死体からまだ使えそうな武器や防具を剥ぎ取ることに夢中だった。
体格が近いからか、護衛の人間達が着用したり使用していた武器や防具はそのままボギー達も使えるようだ。
しかし、ボギー達のリーダーはいきなり棍棒で幹也を殴りつけた。
「オマエ、ハタラク、ナイ、ダメ!」
ある程度身体も大きくなっていることだし、もう既に大して痛くはないのでは無いかと思っていた幹也だが、それでもまだドモスとしては子供だった事と棒で殴られることに慣れていないからか、骨の髄まで響くような痛みに頭を抱えて蹲ってしまう。
ゾスとダリンが慌てて駆けつけて取りなしてくれなければもう何回か打擲されていたことだろう。
幹也に唾を吐きつけてリーダーが去ったあとで、ゾスとダリンは腰紐にぶら下げていた鞣した革袋を取り外して幹也を見た。
その顔には醜い顔が更に歪んで醜悪と言ってもよい笑みが浮かんでいる。
「お前、今日は碌に働いていないからな。まだまだ名前はやれんな(作者注:意訳)」
濁声でゾスが言うと、ダリンも「次に頑張ればいいよ(作者注:意訳)」と言って子供から服を引き剥がして裸に剥いた。
「ああ……」
幹也も「戦闘を経験しないと名前が貰えないのか」と理解して頷く。
と、同時に猛烈に嫌な予感がこみ上げる。
――まさか……まさか……今まで俺が食っていた動物の内臓って……。
「今日はチビがいるから美味しいよ(作者注:意訳)」
嫌な予感は的中し、幹也はその場に蹲って腹の中身を吐き出した。
勿論、幹也が食べてきた大多数は人間ではなく普通の動物の内臓であることに間違いはないが……。
なお、内臓以外の食いでのある筋肉部分はボギー達の物である。
人間は動物のように丈夫な皮膚を持っていないことから解体の手間は狩りで得た動物程には掛からない。
腹部を噛みちぎり、革袋に内臓を落とし入れた後は手足を千切るだけで済む。
その点ではドモスやボギーにとって楽な獲物だった。
・・・・・・・・・
更に二年ほどが経過し、幹也もゼスという名を貰っていた。
身長も伸び、もう成人のボギー達の背を超えている。
ついでに、生前に学んでいた格闘技もあって、ボギー如き鎧袖一触で倒せるだろうという自信も付いている。
そして、食人についての忌避感などとっくに摩耗していた。
だが、まだ武器を操る複数のボギーを相手取って勝てるとまでは確信出来ず、渋々ながらもボギー達に従っている状況であった。
――もう少しでかくならないとな……。
せめてボギー達より頭一つ分は大きな身体が欲しいところだった。
因みにもう既に夢の中で神とは出会っているが、十数分もあった会見時間は元の人生に戻る方法(当然納得の行く回答は得られなかった)や幹也の死後に残された妻や娘の安否、生活に困っていないかなどのオースでは役に立たないが、ゼスにとっては重要な質問などで費やされていた。
彼自身は気が付いていないが、頭の回転も年齢や種族に引き寄せられていた部分が大きい。
そんなある日。
ボギー達に導かれていつもの略奪へ向かった。
今日の獲物の馬車は、たった一輌だが、しばらくぶりの略奪にゼスの血もふつふつと沸き立っている。
ゼスの身体に流れるオーガの血のせいであろう。
だが、この日の獲物は今までと全く異なり、苛烈に抵抗を行ってきた。
――何だあれ?
転生してから初めて目にする魔法の技に目を奪われたばかりか、あっという間に両親やボギー達を殲滅されてしまったのだ。
胸に石の槍(?)を受けたゾスは、そのたった一撃で動きを鈍らせてしまった。
ダリンも小さな炎の矢に目を奪われてしまった隙に恐ろしいほどの槍術で腹部や胸部を貫かれ戦闘力を奪われていた。
そればかりか、ゾスやダリンの後に続いていたボギー達すらもが碌に抵抗する間もなく殺されて行くに及び、ゼスは復讐心に火が付くよりも黒い肌をした人間達の戦闘力に恐れをなしてしまった。
そして、体力の続く限り、可能な限りの速さでその場から一目散に逃げ出した。
逃げる背中に幾つかの矢のような物が命中した感触はあったが、幸運な事に槍のような大物の攻撃は命中しなかった。
・・・・・・・・・
恐怖に我を忘れて森を駆ける事数時間。
小さな川にぶつかったことでゼスは余裕を取り戻した。
矢の当たった背中数カ所はズキズキとした痛みを訴えてくるが、我慢出来ない程ではない。
それなりに酷い怪我ではあるが致命傷とまでは言えないのだろう。
この場所は以前に来たこともあるので、ボギー達の棲家まで戻ることは可能だ。
だが、ゼスにはそのような考えはない。
両親を弔ってやりたくはあるが、あの場に戻ることは恐ろしかった。
数日経ってから戻り、両親だけでも弔おうという考えも無いではないが、いつまでも帰って来ない襲撃チームについて、ボギー達も捜索するであろうし、そんなボギー達と鉢合わせでもしたら目も当てられないと思われた。
――さっきのあれは一体……もしや、魔法か? ……いや、そんな馬鹿な……とは言え、俺自身オーガになってるし……っつーか、魔法があるとか聞いてねぇよ!
恐怖が収まった代わりに混乱する心を持て余しながら、ゼスは川に身を浸し、傷口の洗浄を試みる。
やはり致命傷からは程遠いようだ。
――仕方ない、これからは独りで生きていくしかないな。
まずは同族を探すのもいいだろう。
両親の思考力があの程度で、それがオーガの標準なら……なんとでもなる。
ゼスが思うに、ボギー達もそれ程高度な思考力は有していないと思われた。
もう少し成長して更に力を蓄えられたのならば、ボギーが如き、ゼスの敵ではない。
彼が生前仕事にしていた総合格闘技もオーガの肉体があれば充分に力になる。
それ以上に、丈夫な棍棒が一本あれば大抵の敵には遅れを取らない自信もあった。
念の為の補足ですが、一般的なオーガはゾスやダリンのように必要以上に火を怖がることはありません。
また、ボギーというのはホブゴブリンのことです。




