第二百五十七話 言いにくい話 3
7450年12月20日
「ううっ……」
鼻の穴に詰めていた布が一つ、ぬるりという感触を残して落ちた。
床に落ちる前に手を伸ばして受け止めたかったが、俺の両手は今、ガラスにしたばかりの鉄板を持っているところだったので、たっぷりと鼻血を含んだ布は広げていた両足の真ん中に落ちてしまう。
同時に布が抜けた鼻孔からぼたぼたと血が垂れ始める。
「ちっ」
舌打ちをしながらも手に持ったガラス板を慎重にレイノルズに渡す。
その後で俺の座るソファの脇に用意されている布切れを丸め、鼻に突っ込んだ。
「アル様、あまりご無理をされては……」
レイノルズは受け取ったガラス板を慎重に箱の中に収めながら俺に言った。
先日からもう何度も聞いている言葉だが、無理しなきゃならない程大量の注文を抱えてしまった一因でもあるレイノルズに言われてもな。
「まだまだ大丈夫だ」
俺は自然と湧き上がる笑みを浮かべて答える。
何しろこれ一枚でン百万Zの儲けなのだから、鼻血なんか幾ら垂れ流したって惜しくはない。
因みに、王都で鉄板をガラスにし始めて今日で一週間だ。
到着早々、バストラルとキャシーが土下座の勢いで侘び始めたのには驚かされた。
が、訳を聞いてみれば二人目を身籠ったとの事で、人目も憚らずにいきなり詫びを入れた事については納得が行った。
当然ながら腹も立ったが、子供が出来たというのはめでたい話だし、彼らにしてみれば心から嬉しい出来事のはずだ。
努力して笑みを浮かべつつも「で、どうするつもりなんだ?」と尋ねた。
来年からはバストラルを中心として新たな商業政策を進め、ダート平原各所で事業を立ち上げる計画であったのだから、俺の質問は当然のものだ。
それに対し、バストラルは「自分一人でも先に移り住むつもりだ」と返してきた。
それを聞いた俺は「アホかこいつは?」と思いながらも、その場では彼の提案に対して答えはせずに「少し考える」とだけ言って、彼らを帰した。
以降は商会のバックヤードに籠もって休憩を交えつつもただひたすら金属ガラス化の魔術を使い続けて今日に至っている。
本当はアルソンが生まれたことも皆に言いたかったのだが、言いそびれたまま今日まで来てしまった。
初日に帰したバストラルたちだけ除け者にするみたいな気がして言えなかったんだ……。
因みにバストラルたちとは初日の詫び以来碌に顔を合わせていない。
顔を見たらバストラルはともかくキャシーにまで不愉快な事を言ってしまうかも知れないという虞れがあったのと、何よりめでたく嬉しい気分に浸っているであろう彼らに水を差すのが嫌だったからだ。
あと、俺や彼らの気持ちが少し落ち着くまでの時間は会わない方が良いと思ったというのもある。
だが、いい加減にそろそろちゃんと顔を合わせ、今後についての話をすべきだろう。
勿論、今後については休憩時は当然、魔術を使っている最中でさえも考え続けていたのだが、これだ!という案などは浮かばなかった。
正直なところ、来年の初夏にはバストラル達二人が揃ってべグリッツへと移住してくるという大前提がある事で進められる計画だったのだし、その前提が崩れるというのならどうもこうもない。
中途半端にバストラル一人だけ移住させるのは下策だ。
なにせ、置いて行かれるマイコやキャシーの腹の中にいる子は単なる部下の子供というだけではないのかも知れないからだ。
転生者の血を引いている子なのである。
恐らくは一般的な子供とさして変わりはないとは思うが、ある程度転生者の特質を受け継いでいる可能性は否めない。
例えば、レベルアップをした際に上昇する能力値が二種類ではなくもう少し多いとか、色々考えられるだろう。
それ以前に元殺戮者のメンバーであるバストラルが傍にいないのであれば、良からぬことを企む輩もいるかも知れない。
具体的には国王とか。
俺の商会にスパイを送り込んで来るくらいだし。
まぁ、そのつもりならとっくの昔にやっているだろうからこの線はまずないとは思うけれど用心は必要だ。
そのために貴重なマジック・アイテムも貸し与えたままなんだし。
それはそうと、詫びを入れられた日の晩には計画の修正について俺の心はほぼ固まっていた。
予定を更に一年間繰り下げるかどうかの判断を下す以外にない。
そして、繰り下げないのであればバストラルやキャシーに替わる人材が居るかどうか、という話になるだけだ。
能力的に彼らの替わりを務められる者であれば、一部を除いた転生者であれば十分とまでは行かないだろうが、それなりの結果を出してはくれると思う。
しかし、その後が問題だ。
グレースやカニンガムなど騎士団の訓練従士であれば訓練期間に空白が空いてしまうし、トリスやロリックなど領地を治めさせている貴族は論外だ。
そういう意味ではベルに頼むというセンもあるけれど、先日トリスから来年の妊娠の可能性について仄めかされている以上、今彼女に余計な仕事を与えたくはない。
過去に会社を経営していたフィオは適任な気もするが、商業政策とか新事業云々より石炭についての調査の方が余程重要なため、外す訳には行かない。
そうなると、あいつしかいないだろう。
ん? ジャバだよ、ジャバ。
商業政策の策定とか今年行われた大市の運営も上々だったから喜々として取り組みそうだし、元は一代で娼館をゼロから一流店にまで築き上げた実績もあるから、飲食業も……同じ水商売とは言え畑違いかなぁという気がしないでもないのでなんとも言えないが、全くの素人よりはかなりマシだろう。
それに元々彼に期待していた出納官長についても当面の間は兼任させたっていい。
出納については数字に強い奴なら独創的な発想などはいらないから誰か別の者を鍛えて補職してもいいのだ。
例えばサミュートとか。
ジャバはその顔に似合わず、先進的な発想が出来る男だし、そういう意味では結構やる可能性も高いと思う。
駄目だったら駄目で、失敗した経験すら身の肥やしにするだろう。
そして、そうなると今度は一年後のバストラル達の身の振り方が……幾らでもあるか。
流石に王都に居続けさせるつもりはないのでこのまま、という訳には行かないが、来年以降のダート地方には仕事など山のようにあるのだ。
「ちょっと一休みする……バストラルを呼んでくれ」
そう言うと背凭れに背中を預けた。
三〇分も経たないうちにバストラルとキャシーがやってきた。
キャシーはマイコを抱いている。
謝ろうと頭を下げる彼らに「もういいよ」と言って立ち上がった。
このバックヤードにはソファがないから店の中に場所を移すためだ。
恐縮そうに身を縮めながら後を付いてくるバストラルとキャシーの視線を感じながら店を見回す。
ガラスの嵌った引き戸のお陰で明るい店内には数人の客が居て、ヨトゥーレンに支払いをしていた。
店は駄目だな……。
何十枚もある金貨を数えているのはレイノルズの妻のサーラで、彼女から金貨を受け取って箱に収めているのはヨトゥーレンの長女のアンナだ。
テーブルの上にはガラス板の入った箱が乗っている。
客はどこぞの貴族かその家令らしく、仕立ての良い服を着た初老の男性であり、店の前には彼の奴隷か下働きらしい者達が姿勢良く立っている。
俺は客に会釈を送りながら外に出た。
店の外には中から見えた者たちだけでなく、更に何組かの客が待っていた。
馬車ではなく、徒歩で来ているのは衝撃でガラスが割れるのを恐れての事だという。
まだ運搬中に割れてしまったという客はいないらしいが、レイノルズたちは厳重に梱包した上で人の手で運ぶのがガラス製品の持ち運び方だと販売時に教えていたようだ。
まぁ、整備されているとは言え道にはそれなりに凹凸もあるし、馬車も性能が低いから結構ガタゴトと揺れるので万一を思えばそれが正解だと思う。
彼らにも会釈を送り、宿に向かって歩き出した。
・・・・・・・・・
宿に取った部屋には応接セットが有る。
バストラルとキャシーをそこに座らせると、リンビーがお茶を淹れてくれた。
「すみませんでした……」
バストラル達が口を揃えて謝ってくる。
「もういいって言ったろ? 大切なのはこれからだ」
バストラルもキャシーも、もう充分に反省しているようなのはとっくの昔に判っている。
「あ~」
キャシーの抱いているマイコが楽しそうに手を伸ばしてキャシーの顔に触った。
「元気に育ってるみたいで何よりだな」
「ええ……お陰様で」
申し訳無さそうな顔をしていたバストラルが申し訳無さそうな顔をしたまま答える。
まぁ、それ以外の表情は出来ないだろう。
「べグリッツに来るのな、再来年でいい」
俺がそう言うとバストラルとキャシーは揃って頭を下げた。
「ですが、遅れが……」
と言いかけるバストラルを片手で制し、「お前さ、まだ乳飲み子も居て身重の嫁さん放っぽって軽々しく単身赴任するとか言うな」と言う。
続けて「出来ちまったものはしょうがないだろう。そんな事より、嫁さんを大事にしてやる方が先だ」と延べ、肩を竦めた。
「だ~」
マイコが声を上げ、俺は彼女に視線を移す。
頭の上部には小さな猫耳が生えており、顔色も良い。
アルソンももう生まれた時のようなしわくちゃの猿顔ではなくなっており、心の中で「アルソンの方が可愛いな」と思いつつもマイコを見ているだけで笑みが浮かんでくる。
……バストラルとももう数年越しの付き合いとなる。
キャシーもだ。
彼らが結婚し、子供を産み、育てる環境を作れたのは、勿論俺一人の手柄ではないだろう。
だが、その大きな要因になれたことは誇っても良いと思う。
俺は、俺に付き従ってくれた者を幸せにしなくてはならない。
それはバストラルのような転生者だけではない。
俺の領土に暮らす誰もがより良い生活を営み、安心して子供を生み、育てる事が出来るようにするのだ。
上を見、先を見ればキリがないが、当面の目標はこれだ。
涎を垂らしながら意味不明の声を上げ、キャシーに手を伸ばすマイコを見て改めて思った。
致命的なものでもなし、一年遅れるくらいどうだというのか?
……いや、大変だな。
商業の発展は大切だ。
ダート地方の経済基盤を広げる事は人々の生活レベルの向上に繋がるし。
でも、目の前にいるマイコから父親を奪う事は出来……俺との付き合いが長いんだからそれくらい我慢させ……そう、ダート地方には合計で二〇万人近くもの人が暮らしているのだ。
彼らの事を考えれば、バストラル家に我慢を強いる事くらい当たり前……か?
俺の心のある部分は「それは土地を治める為政者として当然」とか「大を活かすために小を」とかなんとか囁いてくる。
しかし、目の前のマイコを見るにつけ「目の前の幸せすら守れないで何が」とか「うっせーな、俺の土地なんだし俺の好きなように」とか悪魔か天使の囁きみたいな考えに同調する部分も出てきた。
こういった事に正解はないのだろう。
強いて言えばバストラルに単身赴任をさせるのが正解に近いような気もするが、ま、いい。
アルソンが生まれたという、領土に、俺にとってこれ以上ないほどにめでたい事があったばかりだ。
世が世なら犯罪者ですら恩赦とかの対象になってもおかしくない。
それに、当初は俺と一緒にべグリッツに行きたいと言っていたバストラルの意向を無視して無理やりロンベルティアに居残らせたばかりか、商会の面倒も見てもらい、バークッドの従士たちは勿論、俺の奴隷にまで教育を施してくれたのだ。
これくらいの役得……役得? まぁいいか……ご褒美……ってのもちょっと違うか。
とにかく、うん、いいや。
そして、なんの気無しにキャシーの腕に抱かれていたマイコを改めて鑑定した。
【 】
【女性/18/4/7450・猫人族・バストラル家長女】
【状態:良好】
【年齢:0歳】
【レベル:1】
【HP:1(1) MP:1(1) 】
【筋力:0】
【俊敏:0】
【器用:0】
【耐久:0】
【経験:0(2500)】
これを見た俺は大きなショックを受けた。
キャシーが第二子を身籠り、予定されていた色々な計画が崩れそうな事などどこかに飛んでいった程だ。
マイコもアルソンも新生児であり、違いは両親とも転生者かという点と両親の種族がどうかという点くらいだと考えていたのだが……。
アルソンのレベルは生まれて二ヶ月くらいが経った今でもゼロだ。
そして魔力もゼロであり……。
とにかくマイコとは異なっているところがある。
いや、アルソンが普通でマイコがおかしい?
赤ん坊のステータスとかアルソン以外は碌に覚えていないからなんとも言えないが……。
慌てて取り繕おうとして別のものに視線を向けようにも、どうしてもマイコに目が行ってしまう。
仕方ないので目を瞑り、アルソンのステータスを思い浮かべようとする。
「どうかしましたか?」
俺の様子におかしなものを感じたのであろうバストラルの声もどこか遠くから聞こえるようだ。
心臓は早鐘のように鼓動を打ち、心ならずも目眩がするような気もする。
親としては心配だし、仮にアルソンが普通だとしても、そうなると今度はマイコの方が心配だ。
「いや……ちょっと魔術……疲れたのかな……目眩が……」
「大丈夫ですか!?」
「顔色が……!」
「ご主人さま!」
キャシーやリンビーも何か言っているようだ。
固く目を瞑って、頭を振るとゆっくりと目を開けた。
もう大丈夫、だと思う。
「すまんがちょっと休みたい。一人にしてくれないか?」
そう言ってソファから立ち上がるとベッドに足を向ける。
うん、本当にもう大丈夫だと思うけれど、落ち着いた環境に身を置いて考えてみたい。
とは言え、何も考え付かないような気もする。
しかし、流石に今の状態では他に頭を使うことなど無理な相談だろう。
ああ、そう言えばアルソンが生まれた事について、バストラルたちは元より、レイノルズたちにも伝えていなかった。
今日はその件もバストラルたちに伝え、その後レイノルズたちにも伝えて皆で飯でも食いに行こうと思っていたんだっけ……。




