第二百三十五話 エムイー!
7450年9月28日
読んでいた書類の上下をひっくり返して机の上に放る。
内容は新基準を設けた新規騎士団員の募集要項についての詳細だ。
「……いいだろう」
俺の返事を聞いて、バリュートはあからさまにホッとしたような顔になった。
まぁ、最初に出して来た案は却下してるしな。
「ご了承頂き、ありがとうございます」
書類に手を伸ばしながらバリュートは言い、今度は俺の顔色を窺うように上目遣いをする。
「ん。それで実施時期だが……」
「は。来年の四月からと考えております」
「ほう?」
四月からとはまた随分余裕を持ったね。
半年も先なんだが。
それだけの間、新たな騎士団員が入団しなくても大丈夫、ということだろうか?
「奥方様より伺ったことがございます。閣下や奥方様の前世では一年の始まりは三つあると」
は?
三つ?
何言ってんだ、こいつ。いや、あいつ?
思わずぽかんとしてしまう。
そんな俺の様子を見たのか、バリュートは一つ咳払いをすると、暦上の新年となる一月一日、軍の教育や行政経理上の新年となる四月一日、そして商会などの経理上の新年である設立月の一日だと言った。
一部、軍の教育における新年が防衛大学校と少年工科学校(作注:現、高等工科学校)だけにしか相当しない事が間違っている(一般の幹部自衛官や自衛隊員、また各種術科学校などは四月一日が教育の開始日だとは限らない)し、また、会社の決算年度についても必ずしも設立月ではなく、多くの企業が四月か一月を新年度の開始としているが、設立月を新年度とする企業もそれなりにあるから概ねでは合っている。
その他、旧正月という概念もあるが、転生前の日本では一般的とは言い難いからこれはいいだろう。
ミヅチは自衛隊の教育制度などについて知らなかったか、或いは知っていても一般的な学校教育……オースに学校は存在しないから、説明を省くためにバリュートにも解りやすい軍の教育と表現したのかも知れない。
「……だから四月からにしたと?」
いささか呆れたような口調になってしまった。
「ええ、まぁ……」
俺の変化を悪く取ってしまったのか、バリュートは少し気まずそうな顔になった。
彼にしてみれば上位者である俺やミヅチに忖度したのだろうが……俺ってばそんなにオースに、いやロンベルト王国に馴染んでいないように見えるのかね?
とは言え、どういう理由だろうが年度の基準は無いよりはあった方がいいのは確か。
それを四月にしたいと言い、特に大きな問題が無いのであればそれはそれでいいさ。
「いや、咎めるつもりはない。私やミヅチの前世の習慣まで気にしてくれたことは素直に嬉しいが、今後はそこまで気を回す必要はない。まぁとにかくこの件は承認するから最終的な申請書をあげてくれ」
そう言って出ていけというように手を振った。
……。
…………。
丁度いい。
騎士団の一般従士の募集要項の変更とともに、騎士候補たる従士の募集要項も新基準に改めるべきだろう。
半年も先なんだし、筆記試験用の問題作成は後回しで構わない。
……そうなるとあっちもしたほうがいいか?
ふん、誠に気は進まないが、まずは俺からやらねばなるまい。
いやいや、あんなのやんなくても……。
でも、ミヅチの出産予定日まであと二ヶ月弱はあるし、来年の春には新しい嫁さんも貰うことになる。
これから先、まとまった時間を取るのはどんどんと難しくなっていく。
やるなら今のうちか。
大昔に受けたシゴキを思い出す。
嫌な光景がフラッシュバックし、自然と眉間にシワが寄る。
一つ溜め息を吐くとインク壺にペンを浸し、新しい紙を用意した。
「えーっと……」
握力だの肺活量だの心電図だのといった身体検査は測定器具がないのでオミット。
あ、視力や色覚、背筋力とかは工夫すれば判定できる……けどいいか、追々で。
体力検定……項目はともかく、基準値なんか殆ど覚えてねぇ……後でいくらでも修正できるし、勘でいいか……。
ん~、プールも作った方がいいのかな?
心の底から面倒だけど、仕方がない、か。
書き進めながら、どんどんと表情が渋くなっていくのを自覚した。
・・・・・・・・・
7450年9月29日
副団長のバリュート士爵以下、カムリ准爵、バルソン准爵、そしてクローとマリーの五人を団長執務室に呼び出すと、昨日のうちに書き上げた書類を読み聞かせた後にバリュートに手渡した。
内容は、来年四月からの新基準による騎士候補たる従士の入団試験の要項についてである。
これについては元々結構前から言っていたからか誰も不思議そうな顔をしていない。
最後に付け加えられた「但し、貴族家の家督候補者については試験の全項目を免除する」という一文も当初から残してあるからであろうか。
「それから次。現役の騎士又は従士に一つの資格を追加する。資格の名は……エムイーだ。なお、この資格を有したからと言ってなにかで優遇されるなどと言った措置はない」
続けて資格取得基準を読み上げ、記載した書類を手渡す。
黙って聞いていた五人だが、今度こそバリュートの手にある書類が注目を集めた。
なお、エムイーという言葉自体にはなんの意味もない。
強いて言うなら、マルソー・エンゲラ(Marceau Enguera/スペルは俺の知っている単語からの勝手な予想)の地球での表記の頭文字である。
「か、閣下……」
「……」
「これは……」
「本気ですか?」
「なんとも……」
五人とも絶句している。
まぁ、自衛隊のレンジャー資格や地球各国の特殊部隊を真似して、精鋭を育て、ゆくゆくは現時点では量産のきかない新兵器、ライフル銃を預ける兵士として育て上げたいというだけのものだ。
「そなたらはこの基準に基づいて、明日の昼までに各種想定下での訓練計画を策定しろ。ああ、基準さえ満たしていれば最初はどういう内容でも構わん」
訓練想定は偵察や潜入、破壊工作など何種類もある。
勿論、空路潜入など自衛隊のレンジャー訓練では可能だが、オースでは不可能な物などについては別の項目に変えてあるし、移動距離や携行する荷物の重量などの各種基準も調整してある。
どちらかと言うと本物のレンジャー訓練よりは少し厳しくなっているだろう。
これは、例えば持久走や荷物運びなど、一項目に限った記録なら地球のアスリートはこの世界の人より優れている部分もあるが、騎士の叙任を受けたり従士として何年か過ごした者の各種能力の平均や一般的な農民の各種能力の平均は、地球の同じ職種の人たちよりもかなり高いと思われるからだ。
「おい、返事は?」
絶句したまま黙っているので催促をしたらやっと返事が帰ってきた。
「そう心配そうな顔をするな。全員にこの資格を取得しろなんて事は言わんよ。エムイー資格取得の訓練はあくまでも志願者や幹部の推薦のみが対象だ」
五人は少しホッとした顔になった。
「だが、その受験者についての合否の判断や基礎訓練などについて、最初はそなたらにやって貰う他はないからな。初回は多少無茶な内容になったとしても構わんさ」
ここまで言ってやっと「そういうことか」と納得顔になってくれた。
「では、かかれ」
さて、最初の受験者は俺なんだよね。
明日の昼に上がってくるはずの各種想定訓練についてチェックしたら明後日から各種検定だ。
本当にやりたくはないが「できる」という証明をするためにも失敗は許されない。
今日はもう帰ろ。
屋敷に戻り、ミヅチに頭を下げた。
「ちょっと大切な話がある」
「どうしたのかしこまって?」
ミヅチは不思議そうな顔で聞いた。
臨月の直前だし、お腹もかなり大きくなっている。
「明後日からの数週間、特に最後の一〇日くらいはここには碌に帰れないと思ってくれ」
「は?」
明らかに不満そうだ。
「出産直前なのにすまん。だけど、今のうちにやっておきたいんだ」
「何を?」
「レンジャー訓練」
「はぁ?」
こいつは何を言っているんだ? という顔だ。
無理もない。
趣旨を説明し、何とか納得して貰うことが出来た。
ミヅチは安っぽい普通の女みたいに「こういう時に家にいてくれなかったことについて、一生忘れない」とかは言わない。
……思うくらいはあるのかも知れない、かなぁ?
思ってないとは思うけど。
でも、少なくとも表面上は俺の立場などについてしっかりと理解を示してくれるし、あからさまに不満そうな顔もしない。
そんなところで俺にストレスを与えたくはないのだろう。
だからこそ、俺もミヅチには少しでも気持ちよく過ごして欲しいと思う。
そのために出来ることなら何でもしてやりたい。
何しろ俺の夢に対して、無条件で協力してくれているのだし、駄目な時や事柄などは遠慮なく指摘してくれる。
そして、俺の子供まで生んでくれようとしているのだ。
本当に得難い、佳い女だと思う。
でも、出産までまだ余裕があるからと明後日からの検定なんかは出来るだけ見に行きたいと主張するのには困った。
まぁまだ寒くもないし、実際にやるのは俺なんだし、天気さえいいのなら別にいいけど。
・・・・・・・・・
7450年10月01日
今日はエムイー資格の体力判定日。
昨日のうちに訓練項目や内容について全て目を通し、チェック済みだ。
そして、バリュート以下の五人については現在の任務に加えて臨時のエムイー教官に任じた。
「は? 最初の受験生は、か、閣下が自ら……?」
「そうだ。厳しい基準だが、充分に突破できると証明せねばならんからな」
「し、しかし……」
「もう決めたことだ。それに、今この時期を逃してしまうと私は今後纏まった時間を取るのが難しくなってしまう。そなたらの都合もあるだろうが、出来るのは今のうちしかない」
「は、はぁ……」
「じゃあ用意を頼む」
バリュートたちを執務室から追い出すと何故かミヅチも一緒に出ていこうとした。
慌てて呼び止める。
「お前は行かなくていいよ」
「え? 私も来年にはレンジャー、じゃない、エムイー資格取るつもりだし、行くわ。あ、ところでエムイーって何?」
「いや、お前まで無理しなくていいよ……あと、エムイーは、エンゲラの頭文字だ。マルソー・エンゲラだからエムイー」
俺と一緒にシャドウドラゴンと戦い、奮戦した末に命を落とした戦闘奴隷の名を聞いて、ミヅチは目を丸くした。
「そう……マルソーの……」
ミヅチの顔から表情が消えた。
他の女の名を冠した資格を創設したからと言って、嫉妬心を抱くような奴じゃないだけに、なんだかそれ以上に不穏な空気を放出し始めた、ような気がする。
「……じゃあ恥ずかしい結果に終わる訳にはいかないわね」
「あ、ああ」
俺の返事は掠れた。
「じゃあ行くわ」
待て、などと言わせない雰囲気を纏い始めたため、声が掛けられなかった。
・・・・・・・・・
幾つかの決裁を片付け終え、訓練場に行くとバリュートたちは用意を済ませていた。
三〇〇m走のコース計測が行われ、パンパンに土が詰められた土嚢や懸垂用の鉄棒ならぬ身長より高く積んだ木箱などが並んでいる。
また、各種計測用なのだろう、幾つもの時計の魔道具もテーブルの上に並べられている。
そして、比較計測を命じられたらしい、俺と同い年の古参だが若い従士が二人。
種族は二人共俺と合わせるためか普人族だ。
「はぁ……やるか」
のろのろとミヅチやクローなんかがたむろって打ち合わせらしき話し合いをしている場に到着した。
「すまんな。待たせたか?」
ミヅチの後ろ姿に声をかけた瞬間。
「貴様、エムイー訓練を舐めているのかっ!」
いきなり怒鳴られた。
予想だにしていなかった行為にぽかんとしてしまう。
なお、ミヅチの周囲にいた騎士たちや従士たちは全員ぎょっとしたような顔になった。
そりゃそうだ。
ミヅチは今まで騎士団内の人目のつくようなところでは俺とじゃれ合うような会話すらした事がない。
呼び名こそ団長だの閣下だの、場合によっては貴方だのと言うことはあったものの、基本的には俺を最上位者として立ててくれていたのだし、皆もそれを当然と思っていたふしがあるだけに、無理もないだろう。
「え? 何を……」
「貴様に許された発言はこの訓練期間中は『エムイー』だけだ! 分かったら返事をしろ!」
「は? え?」
何言ってんの?
と、言うか、今日やるのはエムイー訓練じゃなくて、その訓練を受ける資格があるかどうかの体力判定なんだが。
だがミヅチの目は真剣だ。
それ以前に妊娠中にそんな大声で怒鳴るとか、色々と良くないんじゃないかな?
その、胎教とか?
「どうやら言葉が分からないようだな、この蛆虫野郎!」
ええー、なんか色々と混じってるっぽいけど、これに付き合うの?
俺が?
「え、エムイー?」
「声が小さい!」
「エムイー!」
「まだ小さいぞ、タマナシか、お前は!」
なぬ!?
「エミーッ!!」
大声を出したらなんか縮まった。
「よし、いいだろう。予定時間に五分遅刻。腕立て五〇!」
「はぁ!?」
「返事はいかなる時でも『エムイー』だと言ったはずだ! 一〇回追加!」
っ、くそ。
バリュートやカムリ、バルソン達はまだ目をまんまるにしているが、クローやマリーは笑いを堪えている。
「エミーッ!!」
腕立ての姿勢を取る。
「一ぉつ!」
ミヅチの掛け声に合わせ腕立て伏せを始めた。
「二ぁつ!」
ふん、腕立ての五〇や六〇、毎朝一〇〇回を三セットやってる俺にしてみれば軽いもんよ……。
……。
…………。
「六〇!」
終わった。
ふっ。
丁度いい準備運動だ。
「よし、立て! 最初は三〇〇m走からだ。あそこだ。用意をしろ!」
「エミーッ!!」
今度こそ追加で怒鳴られないよう、ミヅチが指差した場所へとダッシュで移動する。
……ふぅん。
見たところ、ちゃんと六〇mで折り返すようになっているらしい。
上出来上出来。
「……おい、貴様。いや、エムイーグリード! 準備はどうした!?」
は?
しっかりと戦闘用の半長靴も履いてるし、薄手のズボンとシャツで身軽な格好もしている。
「え、エムイー?」
何となく疑問形のような感じで声を発する。
「お前はそんな格好で戦場に行くのか? 鎧はどうした!?」
「着てる訳ねえだろ!」
「さっさと着用して来い! グズ野郎!」
「何言ってんだッ!?」
「早く行った方がいいぞ? 遅刻一分で腕立て一〇回だからな」
「まじかよッ!!」
く、くそ。ここから屋敷までどんだけあると思ってんだよ!
……。
…………。
三〇分後、一・五㎞も離れた屋敷からゴムプロテクターを着て戻った俺は汗に塗れながら三〇〇回も腕立て伏せをさせられた。
俺が鎧を着に行っていた間にその場にいた全員にミヅチから何らかの説明があったらしい。
バリュートたちの気の毒そうな目つきが心に刺さる。
だが、確かにレンジャー訓練とはこうしたものであった。
腕立て伏せを終え、ぜぇぜぇと息をついて立ち上がる。
合計で腕立て三六〇回に往復三㎞走。
しかも復路は鎧を着用しての全力疾走だ。
さ、流石の俺も堪えたぜ……。
「よし。これでやっと始められるな。グズのエムイーグリード。バディがいなくて良かったな」
「く、くそったれッ!!」
三〇〇m走のタイムは自分で作った基準である六〇秒ギリギリだった。
続く五〇〇g投擲は何とか四九m。
五〇kg土嚢運搬五〇mは一〇秒。
懸垂は六八回。
腕立て伏せは一八一回。
二分起き上がりは四六回。
かがみ跳躍は九八回。
どれもこれも碌なインターバルはない。
自分で策定した基準値は超えているが、流石にヘロヘロだ。
俺と一緒に参考計測をした従士たちも基準値は超えているが、俺とは違って鎧着用なしなのがなんとも解せない。
おまけに懸垂だの腕立てだのについては俺よりもだいぶ早く終えている(懸垂以降、二分起き上がり以外は時間制限ではなく限界回数なので、俺と同様の回数までもたず、従って俺よりも休憩時間は長い)。
そして、体力検定陸上の部の山場、二〇〇〇m走だ。
鞘付きの長剣を三本纏めて縛った物(合計で四kgを超える重量だ)を持たされて九分以内に走破しなければならない。
ところでこれ、俺の公式記録になっちゃうのかな?
余計な準備運動とかなけりゃ、いや、それ以前に鎧なんか着てなきゃもっとずっと行けたのに。
ちょっと切ない気持ちに襲われるが、唖然として押し黙ってしまっているバリュートやクローたち、そして参考計測の従士たちを見て溜飲を下げることが出来たので良しとする。
あ~、二〇〇〇m走の記録?
七分五〇秒だったよ。
あとは着衣での水泳か。
こっちはどんな泳ぎ方でもいいから制限時間無しで一〇〇mを泳ぎ切り、一〇m以上の潜水が出来ることと、足の着く深さでの一分間の立ち泳ぎ(完全に足を伸ばす事もできない浅い深さに加えて顎と両手の親指を水面上に出し続けなければならないので、実はこれが一番しんどい)。
そして溺者救助法を習得していること。
水泳についてはプールを作るという作業にかこつけて、精神はともかく少し体を休められたうえ、流石に鎧は脱いだので難なくクリアーできた。
一応、最初の三〇〇m走と最後の二〇〇〇m走以外はレンジャ、もとい、エムイー訓練生の体力調整訓練後の基準値をクリアーしているし、明日からは座学と体力調整訓練をすっ飛ばして想定訓練に入るんだが……。
山野での行動が中心になるし、野宿もする事になるから、ミヅチの参加は絶対に無しだな。
読者の皆様。
今年も一年、応援ありがとうございました。
来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。




