第百八十八話 錦 6
7450年3月30日
明日は日の出と同時にキールに向かうので、今夜がバークッドで過ごす最後の夜になる。
昼食の後、兄貴と親父に一緒に村を見て回りたいと誘ってみた。
すぐに折り入っての話があるのだろうと思ってくれたようで、二人はいきなりの申し出にも拘わらず、何も聞かずに了承してくれた。
そして、村の外れに来たときに俺は「ちょっと休憩しよう」と言って馬を降りた。
ここには男しかいないし、ずっと引っ掛かっていた事を聞いてみよう。
勿論、兄貴の娼館通いの件だ。
「ん? あの店か?」
兄貴は怪訝そうな顔をした。
「現役の時分には何度か行ったな。良い店だよな」
兄貴は腕を組んで頷いている。
「俺が教えてやったんだぞ……お前も行ったんだから知ってるか」
何故か親父が胸を張っていた。
そして、親父の中では俺も行った事になっているようだ。
まぁ、バークッドにとっては、主力製品の一つである鞘の最初の大口顧客だし、それを開拓したのは俺だから、そう思われている事に無理はないけど。
「いや、親父じゃないよ。騎士団の先輩に教えて貰ったんだよ」
兄貴は嫌そうな顔で親父に視線を送りながら言う。
俺はそんな顔をしているあなたに教えて貰ったんですが、それはどうなのさ?
「えーっと、誰が教えたかじゃなくてさ。最近はどうなの? 行ってるの?」
あの店はワシが育てたとでも言いたいのだろうか?
「最近は納品にしか行ってねぇなぁ……結婚してからこっち、無駄金使わないようにって外で使った金、全部報告させられてるからなぁ……」
「俺も納品だけだな……ま、シャル程いい女は居ないしな」
あ、兄貴……まさかの小遣い制かよ!?
尤も、小遣い制とは言っても限度はないんだろうが、使途について報告してんの?
バカ正直に?
それはそうと、親父は親父で子供たちの前でのろけないで欲しい。
「そう言やぁ、あそこのオーナー、お前が引っこ抜いたんだろ? どうなんだ?」
思い出したように親父が言った。
「うん。以前話した時、金勘定が得意そうだったからね。今は税の関係で……」
そこまで言ったら親父も兄貴も意外そうな顔になっていた。
なんでそんな顔をするのか聞いたら、べグリッツに娼館を経営させるつもりで引っこ抜いたと思っていたらしい。
俺の評価って……ひょっとして一人前に見られてたの、そこなのか?
だとしたら素で泣けてくる。
「とにかく、その関係で店に指示書を届けるのを頼まれて寄ったんだよ。そしたら、受付のおっさんがグリード閣下とか言うもんだから、俺のことを兄貴と勘違いした女が聞き耳立ててね……」
「ほう。で?」
「いや、もし兄貴なら是非にとか言ってたから、まさかと思ってね」
兄貴に話していた筈なのに、親父の方が興味津津な顔で聞いてくる。
元日本人の良識ある俺としては、親とこんな話はしたくない。
が、元々話題を提供したのは俺の方だった。
それに、オースにはキリスト教やイスラム教みたいな戒律の厳しい宗教なんてないし、文化も未成熟なため、妊娠さえ伴わなけりゃ姦通なんて罪でも何でもない。
このあたり、大昔の日本文化に似ている所もあるよねぇ。
まともな席で好まれる話でもないのは確かだけれど。
「……それな。昔さ、最初の納品の時、あの店で遊んだんだよ。で、帰ったあとでシャーニに言ったら一週間も口利いてくれなくてな……」
兄貴は苦笑いを浮かべながら言った。
そうだったのか……。
変なこと聞いてごめん。
「ところでさ……姉ちゃんのとこのマルツ、もう会った?」
会っている訳はないが聞いてみる。
前振りだし。
「いいや。去年の夏に行った時はまだ生まれる前だったしな。年末に行ったのはショーンだし、俺は来月の便で行くから、その時に顔を見るつもりだ」
兄貴が答えた。
親父は黙って石に腰を下ろしている。
「だよね。俺は年末に会ってるんだけど、その時、姉ちゃんに確認した事がある」
親父も兄貴も先を促す素振りをした。
「子供の魔法の教育についてなんだけど……」
二人は予想通りだというような顔つきだ。
なら話は早い。
「姉ちゃんは兄貴に相談したって言ってたから、姉ちゃんの考えは聞いてない。その時は俺に子供が出来たって知る前だったから、俺も確認しただけで自分の考えも伝えてない……」
親父も兄貴も何も言わず、黙って話を聞いてくれている。
「えーっと……俺の子供が生まれたら、ゼットやベッキーみたいに小さい時から魔法を仕込みたいと思ってるんだけど、いいかな?」
あまり気負うことなく言えたと思う。
親父と兄貴は互いに顔を見合わせ、お互いの考えでも確認し合っているかの様子だった。
こりゃあ、まずかったのかな?
でも、これについては例え許可を得られなくてもやるしかないと思っているんだけど。
「アル、お前……」
親父が呆れたような顔をして言う。
「ファーンが何回も言ってたから、いい加減もう分かってると思ってたんだが……リーグル伯爵……いや、侯爵になろうという奴が田舎士爵家なんかに一々許可を求めるな。お前はもうバークッドのグリード家じゃないんだ。西ダートを治める伯爵家の家長なんだから、自分で判断しろ。そういうとこ、ミルーも一緒だな……ったく」
いや、うん、まぁ、そう思わんでもなかったけど……。
でも俺、その件では兄貴に一度殴られてるしさぁ。
「そうは言っても、わざわざ俺達の意向を聞いてくれるのは嬉しいもんだがな」
兄貴は髭の剃り残しでも確認するかのように頬を撫でながら言った。
「ふん、安心しろアル。ファーンも偉そうな事言ってるが、こいつだって夏にミルーから相談を受けた時には今みたいな事を言わずにそのまま持ち帰って来たんだから大して変わらん。同類だ」
親父が肩を竦めながら言うと兄貴が苦笑いを浮かべて「ミルーとアルとじゃ立場も地位も違う。一緒になるかよ」とか言っている。
「そういう事なら、分かった。自分で判断する。子供が生まれて、ある程度会話が出来るようになったら、魔法を仕込む事にする」
俺がそう言うのを、二人はそうかと頷きながら聞いてくれた。
「お前、そもそも俺達が駄目だなんて言うとは思ってなかったろ?」
兄貴はニヤニヤとした笑みを浮かべながら言う。
うん。思ってなかった。
「……まぁいい。お前も、もう子供じゃないんだから今後は全て自分で決めろ。勿論、誰かに相談したり、意見を聞いたりするのはいい。だが、許可を求めるような事は言うな。お前の希望に許しを出せるのは国王陛下くらいのものだろうよ。今んとこはな」
俺は大げさに肩を竦める事で返答に変えた。
兄貴は笑って頷いてくれた。
親父は……少し改まった顔になっている?
「アル。この際だから聞いておく……いや、確認させてくれ。お前、子供のうちから魔法を仕込むのは自分の子だけのつもりか……?」
親父は少し真剣な目つきで俺を見ながら言った。
ふふ。やっぱり親父は親父だ。
俺の考えなどとうに見透かしている。
「それは……」
俺が考えていることについて言おうとした途端、兄貴は手を上げて俺の発言を遮った。
「アル、いい。言うな。だが、自分の行動の結果、どうなるかについてはよく考えてくれ。考えるだけ考え抜いて決めてくれ。それを今俺達に言う必要はない」
兄貴がそう言うと、親父も「確かにそうだな。お前の考えは、いずれは俺達にも判るんだしな」と言って笑う。
何にしても、兄貴や親父がこういう話をしたということは、完全に俺がバークッドのグリード家から独立したと見なされている証左だろう。
恐らくは俺が伯爵位を得た時から、親父や兄貴の中ではそういう事になっていたのだと考えてもいいと思う。
正直言って、そんな事は解っていた。
……解ってはいたが、心の何処かでは親父や兄貴を拠り所にしていたんだな。
だからこそ、いちいち兄貴や親父の意向を伺うような事を言い続けていたんだろう。
それを見抜かれており、今までは嘗てグリード家に所属していた誼で甘えさせてくれていたというだけの話だ。
「ふっ……」
思わず笑みが漏れる。
妙な表現になるが、ある意味で吹っ切れた事が齎した笑みだ。
ウラヌスの首を掻いてやると、目に力を込めて親父と兄貴を見る。
「これからは何か困ったこと、頼りたいことがあれば遠慮しないで相談してくれ。必ず力になるから」
今まで情けない息子で、弟で、さんざん心配をかけたろう。
ごめんなさい。
二人共、少しだけ嬉しそうな表情を浮かべていたのがやけに印象的だった。
遂に俺はバークッドのグリード家から、精神的な独立を果たした。
・・・・・・・・・
7450年4月1日
バークッドを日の出頃に出発し、キールに着いたのは午後三時頃だった。
ビンス亭にはクローとマリーも到着しており、役人共と何か話していた。
「待ったか?」
手近にいたマリーに尋ねると、昼頃には到着していたという。
「あ、ちょっと話が……」
クローに袖を引かれ、皆から少し離れた場所に連れて行かれた。
話を聞くと、当初の予定通りクローの両親の購入は出来たが、マリーの両親についてはキールを離れたくないとの事で、べグリッツへの移住は叶わなかったそうだ。
「それからさ……」
そして、クローの持ち主やバフク村の領主、ラクロワ士爵についての話を聞いた。
四〇を過ぎたクローの両親を一〇〇〇万Zだと言い張って、びた一文負けなかった持ち主を宥めはしたものの、結局圧力すら掛けることも無かったという。
……ふーん。そういう人なのね。
相手の足元を見て交渉した事自体には全く腹は立たない。
むしろ当然の行いでもあるから、クローもそこは同じ気持ちだという。
だが、物には限度と言うものがあり、分には相応というものがある。
交渉というのは、必ず未来を見据えて行わねばならない。
そういう意味でラクロワ士爵という人は、クローとマリーに、延いては俺と未来を共有したいという気持ちが無かったのだろう。
この先、付き合う必要がないという判断をしたからこそ……最後のチャンスだからこそ、絞れる時に絞っておこうという交渉になったのだと思われる。
ひょっとしたら違うかも知れないが、俺としてはそう考えざるを得ない。
もしくは、単に目先の金にくらんだだけとも考えられない事もないが、どちらにせよそういう人や、そういう人の薫陶を受けたような人と付き合っていくのは難しいだろう。
「そうか。おい!」
役人のサミュートを呼びつけ、バフク村の縁者は受け入れ候補に挙げられていたか尋ねた。
「確か、一人居たかと」
「あそこからの受け入れは考慮しなくていい」
「は。畏まりました」
サミュートが下がると、入れ替わりに貧相な体つきをしたおっさんとおばさんが進み出てきた。
「あの、ウチの両親です」
クローが紹介してくれた。
「そうか。私がリーグル伯爵だ。騎士バラディーク夫妻には騎士団の中核として大変に役立って貰っている」
彼らは、俺が差し出した手を代るがわるに握ると、こちらがちょっとびっくりするくらいに遜って挨拶をしてくれた。
そんな両親をクローが少々呆れたような目つきで見ている。
丁寧に挨拶してくれる良い両親じゃないかとは思ったが、クローの目つきを見ればその為人については何となく想像ができた。
この日はすっかり日が暮れた頃、往路でも宿泊したトマルグ村の宿に投宿した。
因みに、クローの両親は馬車の荷台に乗せてやっていたが、役人どもと同様に乗り物酔いに苦しんでいた。
その様子を見て、少しだけ気の毒になったが予定もあるので見て見ぬ振りをせざるを得なかった。
・・・・・・・・・
7450年4月2日
朝早くにトマルグ村を発った俺たちは、途中にある街や村は全て迂回し、昼過ぎにサミッシュ地方の首都であるザーラックスに到着した。
どうせジンダル半島に行くのであれば間にあるヨーライズ子爵領にも顔を売っておきたい。
この地で産出する鉱物資源に貴金属は殆どないが、鉛や鉄などの卑金属類は品質は低いもののかなり多い。
鉄道のレールに使いたいし、サミッシュ地方を通り抜け、ジンダル半島まで続く鉄道路線も引きたいから、本命はその交渉のための寄り道である。
その過程で将来の貴族を数人引き受けることすら計算に入れている。
街の周囲に広がる耕作地を抜け、市街に入ると空気は一気に様変わりをする。
一番わかり易いのは人糞などが発する臭気だ。
通りのそこここにうんこが散乱し、野良犬なんかの死体も転がっており、不潔度が跳ね上がるのだ。
農業が中心の村などでもそれは同様とも言えるが、貧乏領土とはいえ首都ともなるとそもそもの人口が違うし、密度も跳ね上がるから不快さの度合いが数十倍も異なるのである。
俺のイメージだと、過去に訪れたことのある都市でダントツに清潔な雰囲気だったのはウェブドス侯爵領の首都であるキールだ。
比較的若い街ということもあって、拙いが一応の都市計画らしきものの下に開発されているらしく、生活排水を流すドブ川などもあちこちを巡らされているため、そこがトイレの替わりとして利用されているケースが多いせいもあるだろう。
次点が王国中西部の海岸沿いにある観光都市ドラン、三番目が王都ロンベルティアという順となる。
ここらあたりまでは俺と同じ時代に生まれ育った日本人が、ある日突然この街で生活しろと言われたとしても、それなりに上等な区画であれば大きな不満を覚えながらもどうにかこうにか、ギリギリのところで我慢できる可能性がある。
あくまで可能性なので、半数以上の人は耐えられないとは思うけど。
……べグリッツ? うん、まぁ、そうねぇ……このザーラックスよりは数段上になったとは思うけど、正直言ってまだまだだね。
恐らくは街の目抜き通りと思しき道を進み、適当な宿を取る。
着替えと休憩を取る間に、クローとマリーを行政府に向かわせ、先触れとした。
彼らには二時間後に行政府か、屋敷のどちらかで領主に直接挨拶をしたいと言付けている。
当然先方の都合などは考慮していない。
なぜなら、この地の領主はヨーライズ子爵だからだ。
俺よりも位階の低い子爵なのでウェブドス侯爵とは異なり、遜る必要はないのである。
むしろ、下手に遜ると相手に要らぬ混乱や不安を与えてしまうから、ちょっとだけ偉そうに振る舞うのがコツなのだ。
このあたりは伯爵位を授爵するにあたって、さんざん講釈を受けていたので機微は分かっている。
汚れた衣服を脱ぎ、下着だけになってひとしきり部屋でゆっくりと体を伸ばす。
三〇分ほどでベッドから起き上がり、持ってきた石鹸を使ってナイフで伸びかけた髭を剃り、顔も洗う。
ゆっくりと着替えてロビーに行くと、クローとマリーが戻っていた。
挨拶は屋敷の方で受けるらしい。
あと三〇分程で道案内を兼ねた迎えの馬車が来るという。
馬車が来たが、想像よりかなり小さい。
乗れるのは大人が四人といったところだろう。
それもギュウギュウに詰めて。
常識的なら向かい合わせで二人しか乗れない。
馬車に乗れる人数制限もあるため、挨拶にはクローだけを伴うことにした。
・・・・・・・・・
馬車はところどころに泥濘が残る凸凹道をゆっくりと走り、じきに目的地に到着した。
クローに聞いてみると、この場所は行政府の庁舎の隣らしい。
俺の屋敷と同じくらいの敷地面積に、石造りらしい二階建ての俗っぽい建物だ。
建築様式は王都やバルドゥック辺りによくある和風ではなく、重厚な木製の門もよく似合う洋風な感じである。
玄関の前で馬車から降りると妙な香りに鼻がくすぐられた。
僅かに甘いような感じの香りだ。
なんだろうこれ?
変な香水でも使っているのだろうか?
「ようこそお越しくださいました。私がヨーライズ子爵ヴァッヘンでございます」
玄関の前に立っていた五〇絡みの男性が進み出て来て頭を下げた。
隣に立っている女性は奥方だろう。
「はじめまして。リーグル伯爵アレイン・グリードです。隣の領地にも拘わらずご挨拶が遅れましたが、こちらの方に向かう用事ができたものですから、折角なのでお顔を拝見させて頂こうかと……ステータスオープン」
差し出された手を握りステータスを確認する。
子爵の手は老人のように乾いた感触がした。
「ほう。こちらの方に……」
「え? ああ、私の出身はジンダル半島なので……」
「なるほど」
適当に挨拶を重ねながら、招かれるまま屋敷に足を踏み入れた。
客間のソファにクローと並んで腰をうずめ、そこそこ高級品らしいお茶を啜りながら、しばしの間歓談した。
ヨーライズ子爵領は平地が少ないため、穀物の生産量はあまり多くはないが、木材や鉱物資源はそこそこな量が採れるのでなんとかやって行けているらしい。
予め調査していた通りの内情を聞いて、用意していた言葉を口にする。
「なるほど。私の領土でも木材や鉱物資源は得られますが、生産量は今現在でギリギリ需要を満たせる程度です。可能なら是非購入させて頂きたいものです。実は今日、お伺いしたのには理由がありまして、これらの貿易に関するお話をしたかったのです」
こちらから出せるものは穀物が主体になるが、購入したいものは山程ある。
関税率など細かな事は後回し。
まずは領主への根回しをせねばなるまい。
そのために来たのだから。




