第百八十話 新米領主は忙しい
ちょっとだけ前話に書き足しました。
7450年3月20日
「大丈夫なのか?」
アルが心配そうに声をかける。
「まだ全然だし。休んだらそれだけ体なまっちゃうし」
ミヅチはアルの鎧のバンドを締めながら答えた。
まだ日の出前の暗い屋敷の中、エボナイト装甲が灯りの魔道具の光を鈍く反射している。
「ん、そうかもな。義姉さんが妊娠した時も暫くは稽古していたし……だが、無理はしないでくれよ」
そう言うとアルはミヅチの鎧のバンドを締めてやった。
――毎日鑑定してステータスの変化を記録したいところだが、そうも言ってられんよな……。
一瞬だけしかめ面をして、ミヅチの背を叩くと二人はまだ暗い空の下、外に出ていった。
「じゃあ、ひとっ走り行くか!」
「ええ!」
不寝番で屋敷の警護に当たっている従士に片手を上げて挨拶を送ると、二人は肩を並べて走り始めた。
・・・・・・・・・
「こ、侯爵に昇爵ですか!? おめでとうございます、閣下!」
普段はあまり感情を露わにしない筈の女性が珍しく興奮した様子で声を上げる。
ここは行政府の領主執務室。
アルは事務官長のインセンガ准女爵と報告を兼ねての打ち合わせを行っていた。
「ああ。ありがとう」
「あら? あまり嬉しそうではありませんが……?」
「いや、そんなことはないぞ。嬉しいさ」
「何かご心配事でもおありですか?」
そんな言葉を聞いてしまえば、アルとしては面白くない。
「心配事だらけだ」
――なぜそれがわからないんだ?
ランセル、ドレスラー、エーラースの各伯爵領を領有すればいずれ人材難に陥ることは火を見るより明らか……そんな、苦慮することが多いであろう未来を思えば領主としては頭が痛くなる。
その気持ちを共有して欲しいところであった。
「閣下。暫くは今の方々も居てくれるのですから、そう思い悩む必要などございませんじゃありませんか」
「そうは言うがな……」
上機嫌で話す事務官長にアルは渋い顔だ。
そして、
「ランセル伯爵領……いや、中西部ダート地方で一二人、中部ダート地方で一〇人、東ダートで九人。最低でもこれだけの貴族が必要になるんだぞ」
と続けた。
――しかも二〇年以内にだ! 二〇年、たった二〇年で三一人も貴族を……あ、中部ダートにはアンダーセンがいるから男爵級は一人埋まってるか。
ぐっと言葉を飲み込んで、睨むように事務官長を見つめる。
が、インセンガ准女爵は涼しい顔で「その件についてですが、それほど大きな問題だとは思えませんわ」と受け流す。
「……各地方の領主である伯爵は私が兼任するのは当然としても、男爵級の太守だけで一〇人、村を任せる士爵に至っては一七人も足りぬのだぞ。この中には私や太守の下で補佐にあたる士爵は含まれていない。それに、貴族はともかくとして、従士は一〇〇人近い数が必要になる。これが大きな問題ではない、と言うのか?」
アルのこめかみに血管が浮き始める。
「ええ、まぁ……」
しかし、事務官長はそんなアルを見てもどこ吹く風と言った様子だ。
流石にこの態度は面白くない。
が、普段の事務官長を知っている以上、アルとしては頭を冷やす他ない。
彼が知る事務官長は、根拠もないのにこんな事を言う程楽観的な性格をしていないのだ。
「ほう。何か良い方法でもあるのか?」
あるならすぐにでも言って欲しいところである。
「まず、領主となる貴族の方ですが、実は既に多くの売り込みが来ております」
インセンガ准女爵は事もなげな顔つきで言った。
「売り込み?」
アルの片眉が上がる。
「ええ。現時点でその数は七人ですが、これは閣下が手配したという人集めのお触れがまだ浸透していないからでしょう。基本的には天領……王都の傍の村や街を預かっておられる男爵以下の方々から成人したお子様についての売り込みですので人材的には微妙なところですが、それでもこの短期間でこの人数です。皆様、わざわざ早馬を使ってまで直接手紙を送られて来ていらっしゃいます。少なくとも意気込みは本物でしょう」
仕事の報告をする時のような、いつもの無表情に戻ったインセンガ准女爵は、今のアルにとって意外な事を喋り始めた。
「聞いていないぞ、そんな話は」
アルは意外な面持ちで言う。
ドラゴン退治に赴く前、先々月の終わり頃の時点で、そんな話は全く無かったのだから無理もない。
尤も、工事人夫を始めとする人集めのお触れを国王に奏上し、認められたのが昨年の年末であるからして、幾ら何でもその時点では早すぎる。
が、今はそれなりの時間が経過しているのは確かであった。
とは言え、大した時間が経過した訳でもないので、アルとしては自らの脳内に用心の警鐘を鳴らさざるを得ない。
「陛下からの間者を警戒なさっておいでですか?」
「……」
インセンガの問いにゆっくりと頷くアル。
――こういう所には気が回るくせに……いや、わかってて言ったのか?
先程からのインセンガの態度を思い返しながらアルは頭を整理する。
「ミヅチからも聞いていない話だぞ」
「それは当然でしょう。何しろ奥様にもご報告申し上げておりませんから」
「は?」
「連絡は全てここ数日内に到着致しましたものですから……一日二日を急がねばならない話ではございませんし、近々閣下もお戻りになられるとお聞きしておりましたので」
「そうか」
アルは不満気な顔つきで返事をした。
彼にしてみれば「それにしても売り込みがあった、とか件数は何件だったとかくらい言ってもよかろうに」という気持ちだったのだ。
「申し訳ありません。このところ、奥様のご様子が、その……お腹をかばっておいでのようで……私にも経験がございますものですから……すみません。以降、このような件については即座に閣下か奥様にご報告するように致します」
インセンガは言い難そうに頭を下げる。
ようやっと、ミヅチやアルから懐妊についての報告が無かった事に思い至ったのだ。
そのためか、心の底から申し訳無さそうな顔つきであった。
「あ……すまん。まだ言っていなかったが、ミヅチが妊娠したんだ」
アルも申し訳無さそうな顔で言った。
その言葉を耳にして、インセンガは応接のソファから立ち上がった。
「お……おおっ」
「お?」
何か言おうとして言葉に詰まりながらもインセンガはアルが座る執務机に向かって来る。
「おめでとうございます! これでご領地も安泰です! おめでとうございます!」
先程の侯爵への昇爵よりも大きな声、明るい表情、机に乗り出すような姿勢にアルは大きくのけぞった。
「お、おう。ありがとう」
「いえ、後継者を望むのは臣下として当然の気持ちです。心よりお慶びを申し上げさせていただきます。誠におめでとうございます!」
「そ、そうか。ありがとう」
アルはインセンガの気勢に面食らいながらもなんとか返事をする。
「しょ、正直に申し上げさせて頂きますと、私は不安で仕方がありませんでした……いえ、閣下や奥様の能力やお人柄にではありません。お互い……その……異種族でございましたでしょう? その……今となっては取り越し苦労と言うものでしたが」
「ああ、すまんな」
「私、本当に心配でした。閣下は新たなご夫人を娶るおつもりは無いとおっしゃっておられましたし……」
「ああ、それな。実は……」
アルは新たに第二夫人を設けることになる、しかも相手は公式に認められている国王の娘である事を伝えた。
「おお! なんと喜ばしい! おめでた続きではございませんか! あとはご懐妊頂いた奥様には心安らかにお過ごし頂くばかりです!」
「うん……」
手放しで喜ぶインセンガに対して、アルの表情には少しばかり苦いものが含まれている。
「いやぁ、しかもお相手の方はヒュームだと言うじゃありませんか。これでもう、閣下に弱点はありません! すっかり安心です」
「弱点って……」
「いいえ、弱点でした。閣下はいずれ独立すると仰られておりました。そういう方にお世継ぎがいらっしゃらないのは大きな弱点です。我々行政府に勤める者共の間でも密やかに囁かれておりました」
「そ、そうなのか……」
「ええ、そうです。流石に閣下や奥様のお耳に入るような声では申し上げられませんでしたが、全員気持ちは一緒です!」
「ぜ、全員が……」
アルは焦りを含んだような表情になっている。
本人としては、素早く反逆の芽を摘み取って見せたばかりか、検地や馬車鉄道などで信頼を得、ドラゴンを倒したことで更に大きな信頼を得られていると思っていたのである。
それはそれで領内に大きな安心感と信頼感を齎していたのは確かではあった。
就任後僅か数日で領内の軍事力である騎士団を完全掌握。
これ以上無いほどに素早く反逆者を倒し、裁きでは大きな度量を見せて死刑者の数も信じられない程に最小限で済ませた。
スラム地区に巣食っていた“名無し”や犯罪者を狩り出して、少なくとも領都であるべグリッツの治安は大幅な向上を見た。
領内各地の検地を行って税収も上げた。
それによって今まで甘い汁を吸っていた領主達の反感を買うかに思われたが、その気持ちが醸成される前に馬車鉄道を敷き始め、あっという間にその有用性のみならず、将来性をも見せつけてしまった。
先の戦では大手柄を上げたとも言われている上、今回はドラゴン退治である。
しかも合計して三桁にも上る数の上等な魔石や貴重な鱗まで戦利品として領内に持ち帰っているばかりか、デーバス勢力圏下の村を三つ占領のおまけ付きだ。
そればかりではない。
今ではこの地の経営についての仕組みや、それに伴う事務処理についてもほぼ完全に理解しており、専門の担当者も舌を巻くほどに、間違いや粗を指摘できるまでになっている。
誰がなんと言おうと、就任して一年も経たずにこれだけの事が出来る人物などそうはいない。
しかし、インセンガを始めとする役人達の間では、それで終わる訳にはいかない。
世継ぎがおらず唯一の配偶者も異種族。
そんなアルは、領主として、そして君主として大きな欠陥を抱えているようにしか見えなかったのは当然であった。
何か事があってアルが死んでしまえばそれまでという、非常に脆い体制。
アルの死後、配偶者のミヅチを盛りたてようにも、ミヅチ自身の気性は元々アルに同道していた冒険者であり、アルの死が戦死であれば自分一人ででも仇討ちに行きかねず、悪いことにそれを抑えられる力を持った者もいない。
加えて、戦死だろうが病死だろうが暗殺だろうが、アルが亡くなったのであればミヅチは再婚が可能だが、最悪に近いことに彼女の種族はこの辺りでは珍しいダークエルフである。
国内から新たな配偶者を探そうにもロンベルト王国で貴族位を持つダークエルフなどミヅチ本人を除いて一人もいない。
どうしたって世継ぎに困るのは火を見るより明らか。
首尾よくミヅチがアルのあとを継いだとしても、王国から難癖をつけられ、ミヅチは良くて解任、悪ければ暗殺されて西ダートは天領に戻るだけだろう。
次に赴任して来る代官が単純に無能である事は考えにくいが、どんな人物かわからない以上、不安しか無い。
代官の性格や引き連れてくる人材によっては、事務官長の首など簡単にすげ替えてしまえるのだから。
ましてや役付のない職員など言わずもがな、である。
彼女を含む体制側としてはこれ以上にないほど脆いのがこれまでの西ダート地方なのだ。
そこにミヅチ懐妊に加え、同種族の第二夫人を娶ると言う。
事務官長として、領地経営のナンバーツーとして、インセンガにしてみればこのニュースはこれ以上にないほど嬉しいものだったのである。
これらの事情を聞いて、アルは改めて自分の甘さに臍を噛んだ。
が、今更どうしようもない事ではあるし、あと一年足らずの間に解決も見えている。
「……っか。……閣下!」
「んあ、ああ。なんだ?」
「それで、乳母の人選はお済みですか? 老婆心ながら申し上げさせて頂きますと、バリュート士爵家はお子さんも既に大きいですし、デーニック卿やバルソン卿などに申し付けるのがよろしいかと……」
「え? なんで?」
「なんで、って、奥様はご出産のあと軍務や執務にお戻りになられるのでしょう? 以前伺った時にはそう仰って……」
「ん~、まぁ、ミヅチが軍を引退する訳にはいかんからな。だけど、子供は二人で育てるつもりだったんだが?」
「二人でって、閣下もですか!?」
「勿論だ。生まれたら私もミヅチも事務処理は重要な決裁だけを中心にして、量については大幅に減らすつもりだから時間は作れるさ」
アルにしてみれば当然の答えである。
魔力増大法については生まれるまでの間に許可を取るつもりなのだ。
そして、大貴族となり侯爵位まで射程に収めた今、流石にヘガードやファーンも否定はすまいとも考えている。
「いや、でも……」
「でもなんだ?」
「奥様がご出産の頃、いえ、ご出産なされて少し経てば新しい奥様をお迎えするのではありませんか? 誠に申し上げにくいのですが、お世継ぎも多い方がよろしいと思いますし……」
「ん、ああ、そっちね……」
――そりゃあ、あの娘との間にも子供を作らないといけないって事は分かってるが……。
「そうですよ。そうは言っても別れ難いでしょうから最初の数ヶ月だけならともかく……何にしても赤ん坊や幼児というものはすごく手が掛かります。そういうものなんです」
「そうだな……」
――そこまで手ぇ掛かってたかなぁ?
アルは自分の赤ん坊時代の事を思い出す。
――おっと、俺は別格か。姉貴……の赤ん坊の頃は知らんし、ゼットやベッキーはソニアも居たしなぁ……バークッドの従士や奴隷達、アイラードを生んだ後のミュンはどうしてたっけ……殆ど興味なかったから覚えてない……。
実際はアルも両親には相応の負担を掛けていたのだが、転生者であったことに加えてミュンが居たこともあって、他の家庭よりはその負担も小さかったのは確かだ。
――まぁ、場合によっては乳幼児期は乳母ってのもアリかも。仕込むにゃ早い方がいいだろうが、三つ四つのうちは流石に無理だろうしなぁ……。
「ですから、乳母は必要です。年の近い友人を作るためにも、ましてや奥様がご家庭に入らないのであれば……そうでなくとも第二夫人を娶るとなれば閣下のご家庭内の……」
「いや、でもウチには住み込みのメイドもいるし、家令も子育ての経験があるし……」
――よく考えたらあの子の部屋がないな。いや、部屋くらい客間を一個潰せば……。
アルはしょうもないことを考え始めたが、インセンガがそれを断ち切る。
「まぁ、ご出産自体はまだもう少し先の話ですから、その件に付きましては今は頭に留め置いて頂ければ……それよりも閣下」
「ああ」
「話を戻しますが、確かに申し込みのあった七人の中には陛下からの間者も含まれていることは考えられます。しかしながら、流石に七人全員とは思えません。面通しだけでもされては如何ですか?」
「ん……そうだな。それに……」
――嘘看破を使えばいい。
「何か?」
「基本的には『鉄道路線』の建設要員だから、教えることを教えたら領外に放り出すって手もある、と思ってな」
「そうですね。でも、それでは少し勿体なくはありませんか?」
「まぁ、な」
「そこで私に案がございます」
「案? 言ってみろ」
「はい。ご領地の拡大に伴って、いずれ人材について不足するのは目に見えていますから、いっそのことデーバスに近い村でも任せてしまうというのも手ではありませんか? 開墾にパトロール、デーバスの攻撃に対する備えなど忙しいでしょうし」
正論であった。
辺境の村に突っ込んでしまえばそうそう移動することもままならない筈である。
奴隷など手足になるような者を連れてきたとしても、少人数でダート平原内を移動すること自体、かなりの危険を伴う。
「む……確かにそうだな」
「でございましょう? 気軽に村から動くことも叶わないでしょうし……」
「わかった。そなたの案を容れるのもよかろう。だが、面通しくらいはするぞ」
「それは当然でございます」
アルはインセンガに対する評価を一段上げた。
「それと。閣下のご出身であるジンダル半島をお治めしておられるウェブドス侯爵家にお願いしてみるのは如何でしょう? こう言ってはなんですが、地方の貴族家であれば独身の子を持て余している方もそれなりにおられましょう。一〇人や二〇人程度ならすぐにでも送って来てくださるのでは?」
「む……確かにな。それについては私も考えんでもなかったが……」
「と、申しますと?」
「いや、私がこの地に赴任した時に従士や奴隷を……ああ、貴族とは違うか」
「ええ。言うだけ言ってみては如何でしょう」
「そうだ……な」
「では、決裁も溜まっておりますし……そうですね、三日後にはご出発ください」
「え?」
「こういうのは急いだ方が先方も時間を掛けて選定できるでしょうし、閣下が直接赴かれてお願いした方が真剣味も伝わるうえ、礼儀にも適います」
「……また出掛けなきゃなんないのか」
「何か?」
「いや、何でもない」
「そうですか。では、遅くとも二週間以内にお帰り下さいませ」
「にしゅ……」
「可能でしょう?」
「ああ」
――こうなったらバークッドまで足を伸ばすかな?
「あと、何人かお連れ下さい。いつも少ないですから」
「……そうだな。従者の選定を頼む」
「承りました」
――行くなと言ったり行けと言ったり……仕方ないけどさぁ。俺、今年に入ってから自宅のベッドで寝たの何日もないんじゃ……しかも出掛けるときはいつも急ぎで馬走らせて。……こういうの何つったっけ? ああ、ブラックな環境って奴か。残業代も出張手当も出ないのに……。それならせめて子供くらいウチで、自分の手で育てたいもんだよな。




