第百話 思いと想い
7449年12月19日
ネルは煎餅のように薄い毛布を脇にずらした。
「んんっ! ふあ~あ」
そして藁の詰められたベッドから起き上がると、大きな欠伸をしてぶるりと身震いした。
太陽はとっくに顔を出しているらしく、窓の隙間から部屋の中に明るい光が差し込んでいる。
「あ゛~」
唸るような声を出して目をこすると、身長通り小ぶりだが形の良い胸がふるふると揺れた。
この時代、上流階級以外で寝間着を所有している者は殆どいないし、寝間着代わりに薄手のシャツ等を身に着けて寝る人もまずいない。
碌に洗濯すらしないので、唯でさえ汚い衣類が就寝中の寝汗で更に汚れるし、何より藁を敷き詰めたベッドが一般的なので何か着ているとたとえシーツが敷かれていても衣類の痛みが早まるからだ。
多くの人々は下着さえ身に着けずに寝るのが普通である。
尤も、ネルは村を出てからパンツだけは穿いて寝るようにしていたが。
昨晩のうちにテーブルに用意しておいた桶の水で顔を洗った。
水は凍りつく寸前であるかのように冷たい。
一気に目が覚めた。
洗った顔はベッドのシーツの端で拭く。
脇の下に穴の空いた、下着兼用の薄手のシャツに手を通し、ズボンを穿いた。
それから、少し厚手の生地のシャツを着る。
衣類はどれも元はそこそこに上質なもののようだが全てが着古され、汚れも目立っている。
服を着終わるとリュックサックを漁る。
リュックサックから取り出したのは革製の胸当てだ。
本来はきっちりと一式揃えた革鎧の一部だったのだが、傷んできたことに加えて嵩張るので一番重要な部分を除いて処分していた。
「ゔあ゛~、鎧も作んなきゃ……」
胸当てを装着しながらぼやく。
だが、今の彼女の所持金ではとても足りないだろう。
彼女とてそれは十分に理解している。
窓の傍まで行くと閂を抜き、跳ね上げ式の窓を開け、閂をつっかえ棒にする。
薄暗かった部屋は一気に明るくなった。
しかし、外気が流れ込んで来たことでただでさえ寒い部屋の温度が更に少し下がったようだ。
また小さく身震いをしたあとで、一瞬だけ彼女の目玉が不自然に右上の方を向く。
「ふー。え? もう八時になるの? あ~目覚まし掛けておけば……」
昨晩は調子に乗って勧められるままに料理に手をつけていた。
あんなに満腹になるまで物を食べたのはいつ以来か。
――消化するのにいつもより時間がかかったのかな?
寝坊したことについて都合の良い言い訳を考えると苦笑が浮かんでくる。
底がすり減って、そろそろ寿命が近い革サンダルを履くと部屋から出ていった。
と思ったら、慌てて部屋に戻ってきた。
再び窓を閉めて閂を掛け、これまたテーブルの上に置いてあった部屋の鍵を手にしてもう一度部屋を出た。
扉の向こう側から鍵を掛ける音がすると足音はゆっくりと遠ざかっていった。
起き抜けの用を足して部屋に戻ったネルは、窓を開け直すと椅子の上に放り出してあったローブのポケットを探った。
何枚かの銅貨と一緒に二通の封をした手紙が出てきた。
小銭はもう一度ポケットに戻し、手紙の方はリュックサックに入れる。
それから立てかけてあったショートソードを手に取ると、椅子に腰を掛けて異常の有無を確かめ始めた。
この剣は彼女がベンケリシュの迷宮に潜っていた頃に誂えた、そこそこにお高い品だ。
他にも弓や槍など使い慣れた武器も持っていたがデーバス王国の首都ランドグリーズを脱出する時に宿に置いてきてしまっていた。
……剣に異常は無いようだ。使っていないのだから当たり前だが、長年冒険者として暮らしてきたネルには習慣となっている行為だった。
剣帯を身に着け、剣を佩いた。
ベッドの中をゴソゴソと探ると腰に巻くタイプの財布を取り出した。
中身に目を通してから、財布部分が背中の方になるように腰に巻いた。
くたびれたリュックサックを担いでその上からローブを羽織る。
ローブの背中の部分が大きく盛り上がっている。
改めて部屋を見回して忘れ物がないかを確かめると、納得したかのように一つ頷いて部屋を出ていった。
・・・・・・・・・
宿のフロントでバルドゥックの街までの道順を確認し、歩き出してから数十秒。
ネルはなにやら不穏な気配を感じて後ろを振り向いた。
すると、少し離れたところをネルに向かって走ってくる男が一人。
全力疾走している訳ではないが見覚えのある顔だった。
――サージさん?
走ってくる男は昨晩会っていた転生者だ。
少し薄手のシャツに膝丈のズボン。
足には黒いサンダルを履いているが、他に荷物のようなものは持っていない。
目を見開いているネルに気がついたのか、サージの方もスピードを緩めた。
「やぁ! お早うございます、ネルさん!」
少し息を切らした感じで挨拶をされた。
「お、お早うございます」
「こんな格好ですみませんね。日課のランニングなんですよ」
その場で足踏みをしながら言うサージは水でも被ったかのように大汗を掻いており、シャツは一部が肌に張り付き、髪や顎からも水滴が滴っている。
一体何時間走ればここまで汗を掻くのだろう、とネルは思った。
しかし、宿を出ていきなり汗でびしょびしょになったサージと出会った驚きに、ネルは大事なことを見落としていた。
長時間走っていたと見える割にはサージの唇は色が悪いようだし、肌も上気していなかった。
目を丸くするネルを見てサージは「ちょっと失礼」と言うと、ネルから少し距離を取って足を止めた。
それからおもむろに右手を頭の上にやる。
風魔法を使ったようだ。
明るい中でも右手の掌から青白い魔術光が迸るのが目に入った。
同時に、強烈な勢いで気体が吹き出しているのがわかる。
短い髪が派手に揺れている。
その間サージは魔法への集中のためか、瞬きすらせずに正面を見つめ、歯も食いしばっている。
じれったいほどゆっくりと手が動き、少なくとも髪や顔から水滴が無くなる(流石にシャツまでは乾いていない)までたっぷりと一分近くも掛かった。
が、ネルは単に汗を乾かすためだけに魔法を使ったサージにあっけにとられ、感心していた。
――こ、こんな事に魔法を!? あ、そういえばタオルみたいなのは持ってない……まさか、いつもこれで? しんどいのによくやるわ……。
「今からバルドゥックへ?」
「え、ええ。そのつもりです」
「朝食はもう?」
「いえ、まだ……」
「そうですか。もしよかったらご一緒しませんか? 五分くらい歩きますが、炒り卵とベーコンが旨い店があるんです」
「でも……」
「ああ、お気になさらず。未来の常連さんへ投資させてください」
ネルは一食浮いたと思ってサージの言葉に甘えることにした。
例え数百Zとは言え、全財産で一〇万Zも持っていない身であればありがたい話だ。
借りになるということについても敢えて無視する。
何しろ昨晩は最初に支払ったラーメン代の九〇〇Zだけで高級なワインやソーセージをたらふく食べさせて貰ったような物だし、有力な冒険者パーティーへの紹介状まで書いて貰っている。
そこに朝食一食分の料金が加わったところで今更だ。
――生活に余裕が出来たらまたラーメン食べに行けばいいでしょ。
ゆっくりと歩き始めたサージに半歩遅れて付いて行った。
・・・・・・・・・
「どっちから行こうかな……?」
バルドゥックの街を囲う外輪山から、眼下に広がる盆地の街を見下ろしてネルは独りごちた。
太陽はネルの頭の上にあり、燦々と照りつけているが十二月も半ばを過ぎたこの時期だと風の温度はかなり低い。
「楡の木亭とラゾーヤ亭かぁ……どっちも場所なんか知らないし、最初に場所がわかった方から行こう」
また独り言を言うと、街に向かって緩やかに下る斜面を歩き出した。
斜面の下の方、街の周囲に広がる大豆畑で働く農奴らしき男に双方の宿を訊ねると、ここから近いのはラゾーヤ亭との事だった。
ついでに、今歩いている斜面は四番通りという名の、八本ある大きな通りの一つに繋がっているという事も教えて貰えた。
バルドゥックの街は街の中心にあるという迷宮の入り口から、海に流れる川沿いの西に伸びる通りを一番として、時計回りに合計八本の大通りがあると聞いている。
四番という事は街に対して北東から入る形になるのだろう。
ネルは分かり易い地理に改めて感心する。
デーバス王国のベンケリシュもバルドゥックと同じような地勢だが、規則性など全くない道がごちゃごちゃと複雑に伸びていて、初めて来た者は「だから迷宮都市か……」と勘違いしてしまうほどなのだ。
街自体の造りはバルドゥックの方が洗練されているようだ。
建物が密集している街並みを見回しながら、教えて貰ったラゾーヤ亭を目指す。
――えーっと、今のが革細工屋だから……まだ先か。
四番通りを街の中心に向かって歩きながらランドマークを見落とさないように進むネル。
街の人々の様子自体はベンケリシュと大差がないように思える。
暫く進むと赤い瓦屋根をした三階建ての建物が見えてきた。
あの脇の道を左に曲がって少し行けば、右手にラゾーヤ亭の看板が見える筈だ。
ネルは教えられた通り路地を曲がった。
・・・・・・・・・
「ふーん。君が……」
フロントに呼び出して貰った精人族の男は紹介状を受け取りながら妙なことを呟いた。
ネルは、何故かはわからないが、彼がネルを知っている素振りだったことに不思議な気持ちになる。
「え……っと、私の事を?」
「ああ、聞いてる。この紹介状を書いたグリード閣下が昨晩遅く来てね。なんでも紹介状に書き忘れたことがあると、君の事を話しにね」
バースライト・ケルテインと名乗ったエルフは顎に右手をやりながら品定めでもするかのような顔つきで言った。
「ええっ!?」
ネルは驚きを隠せなかった。
彼の言うことが本当なら、昨晩の話が終わったあとリーグル伯爵はわざわざ深夜にここまで来たという事になる。
「君の宿を知らなかったから、確実に会いに来るであろう俺のところに先回りで来ただけだと言っていたが……」
ネルは声も出せない。
「あんた、彼のなんなんだ? 彼は言葉を濁して多くは語らなかったが、あの彼にそこまでさせるってのはな……粗略に扱ったらただじゃおかねぇみたいな感じを受けたよ……ま、冗談はさておき、ウチはあんたを歓迎する」
「あ、ありがとうございます……でも……」
どうにか礼を言うことは出来たが、ネルはこのエルフだけでなく、もう一つのパーティーのリーダーにも話を聞いてみたかった。
「聞いてるよ。もう一通、紹介状を持ってるんだろ? もう黒黄玉の方には……」
「あ、まだアンダーセンさんには会ってません」
ネルは慌てて返事をしたが、頭の中は昨晩会って少し話しただけのリーグル伯爵がそこまでしてくれたと聞いて少し混乱していた。
「そうか。できればウチを選んでくれると嬉しいよ。グリード閣下の推薦だからそのまま入れてもいいんだが、一応腕の方は見せてくれ。問題が無いようなら諸々経費こちら持ちで月三〇万Z。魔石の方は二分出すが、これは頼りになることが判れば半年後から一年後くらいに三分にしてもいい。魔道具や魔法の品を得た場合は獲得した戦闘で誰がどのくらい活躍したかメンバー全員で投票して分け前を決める。戦闘以外で鉱石や宝石の原石を得た場合は獲得した戦闘というものは存在しないからその時の迷宮行全体を通しての活躍を投票する。どちらにせよ最高得点を得ることが出来たら一割になるよ」
エルフが提示した条件自体はトップチームならば当然といえる。
鉱石なんかもそこそこに得るだろうし、良い稼ぎになるだろう。
「わかりました。えーっと腕を見るとおっしゃいましたが、方法は? 私、前のパーティーでは魔法使いを……」
昨夜の失敗から少しは学んだのか、ネルは値上げの交渉は行わなかった。
「攻撃魔術の使い慣れた奴と一番威力のある奴、治癒魔術はキュアーだな。あとは剣の腕ってところだ」
冒険者パーティーへの加入テストとしては妥当なところであろう。
魔法が使えるなら最速の攻撃までどのくらいの時間が必要なのか、とにかく死亡を防ぐために傷を塞ぐのにどのくらいの時間を要するのかがまず大切なところである。
加えて、一番大切な白兵戦能力だ。
「君さえ良ければ今からでもいいかい? ウチの訓練場はここからだと少し遠くてね。迷宮の一層に行く方が早い。まず誰にも見られないしね」
はい、と返事をしそうになる寸前でネルは思いとどまることが出来た。
実力を見せた後だと別のパーティーに入りづらい。
それを狙っての言葉だったのだろうが、あまりに滑らかに言葉を継ぐものだからもう少しで肯定の返事をするところだった。
――あぶないあぶない。
まだステータスも見せてないし、見てもいなかった。
尤も、ある程度の情報は既に知っていたようだが、リーグル伯爵と話したのであれば全元素の魔法の技能を持っていることくらいは伝わっているだろう。
「えーっと、申し訳ありませんが、腕を見ていただくのは黒黄玉の方の条件をお伺いしてからにして頂きたいです」
「……わかった。でも、明後日には迷宮に入るから、遅くとも明日の朝には返事を聞かせて欲しいな」
本来、バースがリーダーを務める緑色団は明日から迷宮に入る予定だった。
しかし、ネルの加入を考えると迷宮に入る前に最低限の連携訓練くらいはしておきたかったので、急遽予定をずらしていた。
「わかりました。出来れば今晩中にもお返事致します」
ネルは丁寧に頭を下げるとその場を辞した。
ネルが次に向かったのは当然の如く楡の木亭だ。
楡の木亭は先程のラゾーヤ亭よりも豪華な造りで、料金もさぞ高いのだろうと思われる。
フロントでアンダーセンを呼び出して貰うようにお願いすると、こちらも話が通っていたらしい。
ロビーでの面談ではなく、部屋まで通されたのだ。
ネルは案内の係に先導されながら、改めて自分の格好を見る。
なんだか場違いのような場所に来てしまったと思ってしまった。
レッド・アンダーセンと名乗った普人族の女はネルの顔を見て少し微妙な表情をしたが、初対面のネルは気が付かなかった。
「……どうぞ、座って頂戴」
レッドは部屋のソファに腰を下ろしながら向かいの席に手を向ける。
「失礼します……」
ローブを脱いでリュックサックを足元に置きながらネルもソファに腰を下ろした。
「あの、リーグル伯爵から紹介状を……」
今更思い出したかのようにリュックサックの蓋を開けると紹介状を取り出して手渡した。
レッドは受け取ると封を切って中身に目を通す。
「……」
目を通しながら畏まって座るネルの顔を見た。
すぐに紹介状に視線を戻す。
――この顔立ち……。グリード君の行動……。親父には言うのはマズイ……か。でも……どうするべき?
レッドは悩んだ。
――性急な事をして万が一にも彼を怒らせたら……。
レッドの脳裏に浮かぶ過日のリーグル伯爵の姿。
本来なら騎士団が総掛かりでないと滅ぼせないヴァンパイアに対して、僅かな人数で立ち向かった男。
その熟練した魔術の技は、見たことも聞いたこともない超高度な恐るべき魔術を瞬間的とも言うべき早さで何度も繰り出していた。
――親父が言うには独立を目指しているそうだし、そうなると彼の領地は王国にとっては重要な壁に……。いや、あんな糞親父……!
国王も彼女にはある程度の事情を話していたようだ。
――彼は……私を……。私は彼を……どうしたいの?
ヴァンパイア事件の折、勘違いとは言え一度は覚悟を決めた男。
だが、男はレッドになんの感情も抱いてはいない。
レッドにしてもあの時までは男を特別に意識した事はない。
今ではすっかり忘れていた事だし、このような出来事でもなければ絶対に思い出さなかったであろう。
――今更……もう子供だって無理なのに……。
胸に去来する男の声――助けに来たぞっ!――今行く!――。
――なんであんな昔の……何も焦る必要はない……な。
僅かな時間悩んだだけで、結局は暫くの間棚上げにすることに決めた。
「緑色団の所には行った?」
紹介状を封筒に戻しながらレッドはネルに尋ねた。
「はい。でも折角なので双方のお話をお伺いしたいと思って……」
ネルは少しだけ申し訳無さそうな顔で答えた。
「ウチの条件は……」
レッドはバースと全く同じ条件を言う。が……。
「絶対に誰にも言わないと約束するなら、固定部分に更に一〇万Z上乗せしてもいいわ」
「え?」
レッドにしてみれば半年くらい黙っていて貰えさえすればどうにでもなると踏んでいた。
半年も経てば固定報酬を一〇万Z程度上げても不思議ではないからだ。
「どう?」
「う、腕を見て貰えますか!?」
ネルの決断は早かった。
尤も、彼女にしてみれば緑色団だろうが黒黄玉だろうがバルドゥックの迷宮冒険者などそもそも知らないのだ。
――うん!一流の冒険者なら少しでも高く買ってくれる方に行くべきよね!
鼻息荒くそう思っていた。




