第九十四話 ドラゴンズ・ネスト
7449年12月18日
サージは今日の指導を終えて宿に戻り、空いた時間で少し楽器を掻き鳴らして晩飯までの時間を潰していた。
ここ最近になって、漸く動物の腸を使った弦の制作も上手く行くようになってきており、満足の行く音色に気分は上々であった。
そして、そろそろいい頃合いだし、工場に行って愛する妻と一緒に晩餐に出かけようかと腰を上げたところに急ぎの報告が飛び込んできた。
「確かだな?」
サージの上機嫌に緩んだ表情は一瞬にして消し飛び、引き締まって真剣なものに変わった。
「はい! 確かに麺の固さの指定がされました! 固めです!」
――固めだとか柔らかめだとかどうでもいいよ……。
そう思いながらもサージは手にしていたリュートをベッドに放り投げ、物入れから滅多に使うことのない長剣を取り出した。
手早く鞘から引き抜いて剣に異常がないか確認しつつ更に問いかける。
「よし! 顔は見たのか?」
「いえ、フードを被っていたので顔までは……でも、矮人族のおん、女性らしいです」
――確証はないか、だが……。
サージは少しだけ落胆したが、感情を表に出すことはせずに、すぐに次の指示を行う。
「分かった。俺はすぐに店に向かうから、お前は……」
「本店と工場へはミレイユが連絡に向かっています! ヴァスルさん達のうち何人かは工場に居るはずですから、居る人は全員引っ張ってくる筈です!」
「上出来だ! お前はゆっくりでいいぞ」
ロングソードを鞘ごと掴んで、サージはすっかりと夜の帳の下りたロンベルティアの裏道に飛び出した。
同時に自らの瞳に意識を集中する。
と、彼の僅かに縦長に歪んでいた瞳孔は“グンッ”と音がするかのように大きく拡がった。
夜目の特殊技能だ。
瞳孔の広がった瞳は表通りから漏れる魔道具の明かりや、僅かな星明かりを増幅して感知し、暗い夜道もすぐに昼間のように見通しが良くなった。
一気に駆け出す。
半分以上、冒険者を引退してから一年近くが経つ。
今ではヴァスル達工場警備の戦闘奴隷らを率いて月に一~二回、日帰りでバルドゥックの迷宮に行く程度だ。
しかし、サージは未だに毎朝のランニングや筋力トレーニング、魔術の修行を怠ってはいない。
走るに当たって手に持った長剣が邪魔だが、ウェイトを背負ってのランニングよりは身軽な格好であるために、人を避けながらでもサージの足はかなりの速さを誇る。
――ふふ。麺の茹で加減の指定か……確かにアルさんの言った通りだったな。
ラーメン店を開く際に、店のオーナーであるアルはこの食べ物自体が、ある意味で魅力的なエサになる可能性を考慮していた。
ラーメンという食べ物を知っている人、つまり日本人であれば店を見かけたら一度くらいは食べたくなるだろうし、同時に店の関係者に日本人が居るであろうことも想像されて然るべきだ。
それでも来店する人ならこちらから声を掛けてもいきなり拒絶される可能性は低いだろうと考えたのだ。
また、売上に関係しない麺の固さについては敢えて公開しない事にしていた。
トンコツラーメンを食べるときには多くの日本人が少し固めに茹でた麺を好むのは有名だ。
勿論、個人の嗜好の話なので例外はあるだろうから完璧ではないが、可能性の大きそうな方に賭けただけのことである。
麺の茹で加減の非公開についても特に問題とは考えていない。
アルやサージが前世で育った日本の関東地方には、トンコツラーメンが進出してくる一九九〇年代初頭まで、ラーメン屋で麺の茹で加減を指定する客などまず存在しなかった。
日本でも蕎麦屋やうどん屋で茹で加減を指定する客はいないし、ヨーロッパ圏だとパスタの茹で加減は店の誇りなので、それに文句をつける客もまずいない。
アメリカの大衆店だとスパゲティはブニョブニョになるまで茹でるのが普通だが、それに対してもわざわざ文句をつける客など本当に極々少数派でしかない。
人は初めて食べる食べ物については「こういうものなのか」と思って、あまり深く考えることはない。
せいぜい、同業者である料理人であれば改善点について思考が及ぶかもしれないが、それでも麺の茹で加減などよりも具材やスープのレシピなどに気を取られるのが先だろう。
サージの足ならあと五分と掛からずにラーメン屋に到着できるはずだ。
――間に合ってくれよ!
このようなことがあった場合、店で働く奴隷達にはサージの到着まで何としても客を引き止めておくようにと言い渡されている。
・・・・・・・・・
メン屋・グリードの店内。
「お待ちどう様です」
店員の小娘がラーメンを持ってきた。
――おお、ラーメンだ!
目の前に置かれた丼を見て、女の顔がほころぶ。
――見た目もそのままトンコツラーメ……これ、玉ネギ?
期待していた青首の輪切りになった長ネギや、細い万能ネギを刻んだものは乗っていない代わりに、みじん切りの玉ネギらしきものが乗っていた。
それ以外は、煮玉子にチャーシュー、そして刻んだキクラゲも乗っているようだし、女が脳裏に描いていたトンコツラーメンそのままだ。
「お召し上がり方はご存知ですか?」
テーブルに載せられた代金の大銅貨を回収し、お釣りの銅貨を一枚テーブルに戻しながら店員が尋ねる。
「ええ」
お釣りをローブのポケットに落としながら女が答えた。
「ハシの使い方……」
「大丈夫よ」
箸立てに手を伸ばしながら女は店員の喋りを遮った。
――もう、伸びる前に食べさせてよ!
「テーソン」
早口にお祈りを済ませ、箸を丼に突っ込んだ。
しかし、丼にレンゲまで添えてあるのを見て、まずはスープから味わおうと思い直したのか、右手に箸を持ったまま左手のレンゲでスープを掬った。
――おぅふ! 美味しい!
一口スープを口にしただけで、女の脳裏には前世の光景が蘇る。
学生の頃、美味しくて有名だというラーメン屋に親しい友人と連れ立って行った……。
就職してから、事務所の傍にあるいつも行列のできるラーメン屋にたまたま入れたときの嬉しさ……。
――はっ!? 私は何を?
慌てて麺を掴み口をつける。
ズルズルと気持ち良く啜った。
――んはぁっ! これよ、これこれ!
夢中で麺を啜り、チャーシューを齧り、煮玉子を半分食べた。
――あ、あれ?
女はここまで食べてふと気がついた。
同じテーブルに座って、隣で食べている身なりの良い精人族の男、正面で食べている、こちらも身なりの良い普人族らしきカップル達が嫌そうな顔をしていた。
――何よ?
湯気の立った麺を更に口に運ぶ段になってようやく気がつく。
――あ……音?
食事の際に音を立てるのは行儀作法を知らぬ身分の卑しい者のすることだ。
くちゃくちゃと噛む度に口を開き音を立てて咀嚼したりなどは以ての外だし、スープなども音を立てて啜るのはマナー違反だとされる。
とは言え、これらはある程度教養のある人達以上に限られるので、普通の大衆食堂などで気にされることは殆ど無い。
――ラーメンとか蕎麦とか、音を立てて食べるものでしょうが!
しかし、急に恥ずかしくなった女は自分の顔にさっと朱が差したことを意識した。
そっと周囲を確認すると、さっきの店員もまだ少し離れた傍に立っていて、目を見開いてこちらを見ている。
以降はゆっくりと音を立てないように食べることにする。
――ここはラーメン屋でしょ? なんだか負けた気がする……。
女が意識して音を立てないようにしたのを確認して、同じテーブルについた客達もそれぞれの食事に集中した。
数本だけ麺を口に入れ、音を立てないようにちゅるりと吸い込む。
――ゆっくり食べてたら伸びちゃうじゃない……でも、久々の味……出汁がよく利いてるわ。
不満は残るが、よく考えたら九〇〇Zもする少し高級な料理だ。
急がずにゆっくり味わって食べるべきだろう。
「カエダマくれ」
「はい、一七番さんカエダマ一丁!」
「へい! カエダマ一丁!」
隣のエルフが替え玉を頼んだ。
ちらりと見ると、銅貨が一枚テーブルに出されている。
また、丼には替え玉が来るまでに食べ切れるであろう、あと一口から二口分の麺も残っているようだ。
食べ慣れているようなので常連なのかも知れない。
エルフは右手のフォークと左手のレンゲを上手に使ってくるくるとスパゲティのように麺を巻き取ると上品に口に運んだ。
――そんなに気取って食べるようなもんじゃ……。
なぜだかまた負けたような気がしたが、大人しくゆっくりと味わうことに専念する。
エルフが頼んだ替え玉は、女が期待していた通り皿に乗せられて出てきた。
運んできた店員はテーブルに乗せてある銅貨を回収する。
――替え玉一〇〇Zか……。食べたいけど今は節約節約。
今更一〇〇Zを節約したところで大して変わりはないかもしれないが、女は締めるところは締めるべきだと思った。
――くふぅっ! 美味しい~っ!
芳醇な味のする白濁したスープを飲んで、改めて味の深さに感心する。
かつてベンケリシュに居た頃、当時は一流冒険者(本当は一流半)だったのでそこそこに羽振りがよかったからこの程度の値段の料理はよく食べていた。
が、それでもこれだけ丁寧に出汁を取り、深い旨味を感じさせるスープにはお目にかかった記憶はない。
まさに、舌がしびれるような旨さだった。
――スープを残すなんて昔ならいざ知らず、今じゃあとても出来ないわ。
麺や具を食べ終わった今、丼に残ったスープについても最後の一滴まで味わい尽くすつもりだ。
塩分や脂肪の摂り過ぎを気にするような年齢でも体型でもないし、摂れる栄養は全て摂らねばいけない暮らしでもある。
それよりも直接丼の端に口をつけて飲み干したい誘惑に抗う方が今は大切だろう。
隣のエルフが席を立った。
ふと気がつくと前に座っていたカップルもいつの間にか居なくなっている。
あれだけ客が並び、混んでいる人気店でいつまでも席を占領するのは、オースの人も気が引けるのだろうか?
――ふう。美味しかった。余裕が出来たらまた来よう。今度は替え玉も……。
あまりに懐かしい旨さを感じて涙がこみ上げそうになるのを堪えながら決心をした。
――冷たい水が欲しいところだけど、まぁいいわ。
女も席を立とうとした時。
「お客様、お客様は当店が開店以来一〇万人目の記念すべきお客様です。つきましては当店よりささやかなサービスのお品でございます」
皿に乗せた焼きソーセージを差し出しながら店員が言った。
因みに百千人目と言ってるが、勿論カウントなんかしていないし、来店数も一年そこそこの営業期間でそこまで多い訳はない。
「あら、そうなの?」
僅かに焦げ目がつき、表面の切り込みからじわりと脂が染み出すソーセージを見て女は素直に喜んだ。
冒険者として活動するに当たって、何とも幸先が良い幸運に恵まれたとでも思ったのだろうか。
それとも、単なる食欲であろうか。
いずれにせよ、女は浮かせかけた腰を再び下ろした。
――ん~! ソーセージも食べてみたかったんだよね! 運がいいわ!
女は直径四㎝近い太いソーセージを見て微笑みながら、こちらもテーブルに備え付けられているナイフとフォーク入れに四本指の手を伸ばした。
・・・・・・・・・
「まだ居るか? 間に合ったか?」
裏口から厨房に入ってきたサージはぜぇぜぇと息を吐きながら小声で尋ねた。
「大丈夫です。今バルドゥッキーを出して時間を稼いだところです」
厨房で働いていた奴隷が答える。
間に合ったことに安心したサージは握っていたロングソードを改めて腰に佩く。
サージが到着したと伝えられたため、女の接客を担当していた奴隷も呼ばれ、サージに質問をされる。
「目と髪の色は確かめたか?」
「いいえ、フードを被っておられるのでそこまでは……」
少し落胆するサージ。
「ですが、麺の茹で加減を固めに指定されましたし、その時にカタメとかカタメンとか言っていました。ヤワメとかヤワラカとかフツウではありませんでした!」
どうやら彼女も、そこも重要なポイントであると思っているようだ。
――だから、固さは固麺だろうが柔麺だろうが、どうでもいいっちゅーねん!
「それに、説明するよりも前に箸も上手に使えましたし……」
給仕の奴隷は僅かに言いにくそうにした。
「なんだ?」
自分の思いが顔に出てしまったのか、と思ったサージは意識して柔らかい表情を心掛けて尋ねた。
「その、サージさんやご主人様のように麺を啜って、音を立てて召し上がっておられました」
「そうか……一八番だったな。テーブルは空けてるな?」
「はい」
「よし、俺が指を鳴らしたら今日はもう店を閉めろ。ヴァスル達が着いたら表と裏口の両方をしっかり固めるように言っとけ。ああ、この前買ったワインまだあったよな? 例のグラスと氷入りの水も一緒に持ってきてくれ」
サージはそれだけ言うと女の座っているテーブルに向かった。
息を整え、唇を舐めて緊張をほぐす。
店の入口に近いテーブルの十八番と名付けられた座席に一人の客が座り、バルドゥッキーにナイフを入れている。
もう何口か食べているようで、バルドゥッキーは半分くらいの長さになっている。
出来るだけ刺激しないように気をつけながら、新しく入店してきた客のようにその前の座席に座った。
客がフォークに刺したバルドゥッキーを口に運ぶ。
サージにもフードの下の顔が見えた。
バルドゥッキーの味については、どうやら充分に満足して貰えているようだ。
・・・・・・・・・
――ああ、美味しい!
女はソーセージに夢中になっていた。
皿にはマスタードも添えられており、味を変えて楽しむことが出来るのも重要なポイントだ。
テーブルの向かい側に誰か新しい客が座ったようだが、女にとってはどうでもいいことなのでソーセージの味を楽しむことに意識を集中した。
「ああ、そこに置いてくれ。うん、あとは自分でやるから下がっていい」
ラーメン屋の客にしては妙な言い草に思わず顔をあげる。
テーブルを挟んで女の差し向かいに座っていたのは、両サイドを短く刈り上げた紺色の髪の猫人族らしい若い男だ。
どう見ても金を払って誰かに刈って貰わねばここまで綺麗な髪型にはならない。
床屋に行けるような人など普通は裕福な人に限られる。
何より、仕立ての良さそうな服を着ていることも男の生活レベルがそれなりに高いことを物語っている。
男と女の視線が交錯する。
すると、男は人好きのしそうな表情を浮かべて透明に輝く(!)ワイングラスを一つ、女の前に滑らせる。
「?」
不思議そうな表情を浮かべながら、女は再び男を見た。
強い既視感を覚えるような男の顔。
女の出身地や、この地に暮らす人々とは、明らかに異なる血の混じった顔。
テーブルに用意されたアイスペールに視線を移した男は初めて女に対して口を開いた。
『まだ冷えていませんが、宜しければ……。お好みでしたら別に氷か氷水を用意させますし、別のお飲み物を用意させても構いません。勿論、お代などと無粋な事も申し上げません』
男の口からは滑らかな日本語が流れ出す。
同時に女の脳内に警鐘が鳴り響いた。
『そう緊張しないで下さい。私に害意はありません。ただ少し、貴女とお話がしたいだけです』
柔らかな物腰で話す男からは、女に対する敵意の欠片も見出すことはできない。
『ああ、申し遅れました。私はサージェス・バストラルといいます。ここの……うーん、なんと言ったらいいのかな? 総料理長みたいなもんです』
男は少しだけ照れたような表情を浮かべると頭を掻いた。
ナイフとフォークを握ったまま固まっている女を見て、男は更に相好を崩す。
『すみません、種明かしをします。ウチでは麺の茹で加減についてのご注文はわざと承っていないんです。日本の方であればまず注文をつけるであろうことを承知でね。そして、そのことは店員に徹底させています。もしも、麺の茹で加減に注文をつけてくるお客様がいらっしゃったら、何を置いても私に報告するように、と。替え玉を日本語にしているのもそのためのカモフラージュなんです』
その言葉を聞いて女の顔にも歪んだ笑みが浮かんだ。
聞いてみれば随分と簡単な罠に引っかかったものである。
それに思い至った自嘲が浮かべた笑みであった。
『……そういうこと……。気が付かなかったからには、今更ごまかしは無駄のようね……すると、これも貴方が来るまでの時間稼ぎだったって訳?』
女はナイフを皿に置き、フォークでソーセージを指しながら言った。
男が頷くのを見てローブのフードも背中に下ろす。
肩口辺りで乱雑に切りそろえられた黒髪が現れた。
『それに、今知ったんだけど、日本人の生まれ変わりは全員が黒髪黒目だと思っていたけど、どうやら……』
『ああ、すみません。この髪は染めてるんです』
男の言葉に女は目を丸くする。
髪を染める。
たったそれだけで一見して日本人には見られにくくなる。
随分と抜けていたものだ、と女は更に自嘲の度合いを深めた。
『一人きりってのは頭も回らなくなるんだなぁ……』
女は口の中でだけ小さく呟いた。
『ところで、お名前をお伺いしても……?』
『ああ、すみません。私はネイレン・ノブフォムと申します。ネルとお呼び下さい』
『ネルさんですね。では私のこともサージと。ああ、宜しければ私のステータスも……』
そう言ってサージはネルに左手を伸ばした。
右手は万が一のために空けておきたかったのだ。
ネルの方は伸ばされたサージの左手の一点を見つめている。
『リング……ご結婚なされているのですか? ステータスオープン』
『ええ。まだ子供はおりませんが。妻は日本人ではありません。私もいいですか? ステータスオープン』
二人はお互いのステータスを確認する。
『元素魔法を全て……魔法の才能がお有りのようですね』
サージは穏やかな声音を心がけて言うが、彼の目が一瞬だけギラリと不穏な光を宿したのをネルは見逃さなかった。
『貴方もね。ワインを頂いても? 酔わないように水割りがいいわ。氷も』
『ああ、これは失礼』
サージは指を鳴らして店員を呼ぶと氷と井戸水を持って来いと命じた。
『ところで、このグラスは……?』
『ええ、ご想像の通りガラスです。私どものオーナーの意向で、大切なお客様にのみ使用する事になっている食器です。尤も、使うのは今回が初めてなんですが』
返事をしながらサージは手を伸ばしてネルのワイングラスに少しだけワインを注いだ。
次いで、グラスを割らないようにまず水を注ぎ、そっと氷を浮かべる。
よほど酒に弱い体質でもない限りは子供でも酔わないような薄いワインになった。
自分のグラスにはワインをそのまま注ぎ、ボトルをクーラーに戻すとグラスの脚を持って軽く持ち上げる。
『何への乾杯?』
ネルもそれに合わせてグラスを持ち上げる。
『奇跡的な出会いに』
サージはそう答えるとお互いそっとグラスを打ち合わせた。
『あの、この店のオーナーっていうのは、やっぱり……?』
『ええ、我々と同じ転生者です。ああ、私達はオースに生まれ変わった人のことを転生者と呼んでいるんです』
『ふーん。その人は今日は?』
『残念ながら今日はここに居りません。明後日にはご領地からお戻りになると思いますが』
領地という言葉を聞いてネルは驚いた。
『領地って、その人は貴族なの?』
『ええ、昨年、正式な「伯爵」に封ぜられ、西ダート地方を領有しました』
『コーントって?』
『えーっと、日本語だとなんだろ? 伯爵? かな? 英語だと確かカウントと言うはずですね』
『ああ、アウルかぁ……って伯爵!?』
ネルは驚きを隠せずに目を見開く。
『元々貴族だった人なの?』
『まぁ、貴族と言えばそうですね。でも、すっごい田舎の……士爵? の家の次男ですから、単なる准爵でした。私は昔、農奴だったんですが、色々あって今はその人の従士になっています』
『村長って……士爵の事? そんな人がアウルになったの……?』
『ええ、隣にあるバルドゥックの迷宮でワイヴァーンを斃して、その鱗から作った武具を王家に献上した褒美ですね。ああ、あそこに飾ってあるのは同じくバルドゥックの迷宮の最深部で斃したシャドウ・ドラゴンの頭の剥製です』
『あれ、ほ、本物だったの……? 触ってもいいですか?』
『勿論。どうぞ』
剥製になった今、ロンガルザムリュゾルファレンなどの固有名はステータスには出ないが【シャドウ・ドラゴンの剥製】という表記は残る。
ステータスを確認したネルはすぐに戻ってきた。
『迷宮に行ってたって事は、その人は冒険者をやっていたのね?』
『ええ、私も』
『あなたも?』
ネルは迷宮に入る冒険者であれば元素魔法に反応した目つきも頷けると思った。
『はい、あのドラゴンと戦った時は全くの役立たずでしたけど、私もドラゴンの吠え声は聞きました。……あの人は、戦闘奴隷とたった二人でドラゴンを斃したのです』
『すごい冒険者だったのね……』
ネルは薄いワインを一口飲んだ。
『このソーセージとラーメンを作ったのは貴方?』
『まぁそう言ってもいいでしょうけど、残念ながら私一人では作れなかったでしょうね。妻を始めアルさ……ああ、その伯爵が持っている料理が得意な奴隷なんかにも大層な協力を得ました』
この言葉を聞いてネルは用心する。
サージは今、その伯爵の名を言い淀んだ。
しかし、サージの方もネルの出身について大体のアタリを付けていた。
細かな言葉の違いやアクセントで南方、それもデーバス王国の出身だろうと思ったのだ。
それも、ロンベルティアに来たのはつい最近だろう。
この街に一月も暮らしていたのであればリーグル伯爵やドラゴン退治のことを耳にしない人はいない。
そろそろ本題に入るべきだ、とサージは思った。
『それはそうと、ネルさんは今どんなお仕事を? ロンベルティアにはお仕事で来られたのですか?』
『た、旅の途中で立ち寄っただけです』
ネルは「旅の途中とか、なんとも嘘くさいなぁ」と思いながらもとっさに出てしまった言葉は呑み込めない。
『旅って……』
少しおかしそうな顔をしてサージが言う。
『ええと……もし貴女が宜しければ、この店で働いてみませんか? 単なる店員でも月給で二〇万は保証できます。もしも店長を目指すということであればもう少し色を付けることも可能です』
この給料については一般の相場よりも充分に高いが、将来治療院を開こうというネルとしては不充分である。
また、一流冒険者(本当は一流半)であった自分であればバルドゥックの迷宮に行きさえすればもっと稼げるという自負もある。
『やっぱりご不満なようですね。ですが、これ以上だと……商会長である伯爵に相談が必要です』
『えーっと、私、明日にはバルドゥックに行きたいので……その人が来るのは明後日なのでしょう?』
『ほう、バルドゥックへ……ネルさんも冒険者だったのですね』
『ええ、まぁ……』
『もし宜しければ迷宮の一層くらいはご案内できますよ。これでも毎月一度は行ってますから。ああ、そうそう。お気に召したようですので、そのソーセージ……バルドゥッキーという商品名なんですが、ハーブ入りやチーズ入りもあります。せっかくなので召し上がりませんか?』
面倒な事になりそうなので、そろそろ立ち去りたかったネルだったが、今言われたソーセージの誘惑には抗し難かった。
――他にぞろぞろと出てくる訳でもなさそうだし、伯爵は明後日にならないと来ないって言うし……まぁ、私でも日本人は雇いたいと思うだろうし……それに、一緒に行く行かないは置いておいても、迷宮の話は聞いておいた方がいいだろうし、変なこともされそうにはないし、ソーセージを頂くくらいいっか。
ついつい話し込んでしまった。
ネルがふと気がつくと、いつの間にか店からは客の姿が消えていた。
――あれだけ混んでいたのに?
『あ、あの、私、結構遅くまで……』
ネルがそう言った時。
店の扉が開かれた。
「ベ! い、いらっしゃいませ!」
手持ち無沙汰そうに厨房や離れたテーブルにいた店員達が立ち上がって声を上げた。
――あ、まだ営業中だったの?
思わず振り返って入り口の方を見たネルの視界にまず入ってきたのは、革鎧を身に着けたまだ子供のようなあどけなさも残る男女が二人。
普人族のようだ。
続いて入ってきたのは犬人族の男だ。
「イ、中頭! いらっしゃいませ!」
店員達から声が上がる。
そして、もう一人。
埃にまみれたボロいインバネスを羽織った男だ。
『アルさん!』
振り返って入店者を見ていたネルの背後でサージが立ち上がったのが分かった。
※本来、ワイングラスを持つときにはソムリエがワインの状態を確認するときやテイスティング時は別として、脚ではなく、胴を持つのが正しい作法です。
しかし、二人は前世、脚を持つほうが良いとされた間違った知識を身につけたままだったのでしょう。
また、ワイングラスで乾杯をする際にはグラスを打ち合わせることもしません。




