第六十話 偽装
7449年7月14日
午前九時の少し前。
国王直属の諜報機関である乱波の頭の一人であるマクダフ・エンブリーはベイル通りの中程にあるグリード商会の前に立った。
ステータスは偽装済みで、今はラルソイユ・キンバリーという名になっている。
「失礼。昨日伺ったキンバリー商会の者だが、豚肉の件で……」
店の前を掃いていたアンナに声をかけた。
「あ、いらっしゃいませ。お待ちしておりました。少々お待ち下さい」
アンナはハキハキと答えると店に駆け込んでサージに来客の旨を申し伝えた。
愛想の良い顔で出てきたサージを見てエンブリーは少し驚いた。
彼もこの猫人族の存在は知っていた。
殺戮者に所属して何年も経つ熟練した迷宮冒険者でもある有名人だし、殺戮者の他のメンバーとは違ってかなり頻繁にグリード商会の本部に出入りしていることも調べはついている。
しかし、その身分は番頭でも手代でもない平の従業員であり、職域は他の殺戮者のメンバー同様に警備員とされていた筈だ。
暇な時はリュートや手製の弦楽器を掻き鳴らしている趣味人にしか見えなかった。
原材料の仕入れという、非常に重要な地位を任されているとまでは思っていなかったのだ。
そちらの方は、番頭のアイゼンサイドという男でなければ古株従業員のヨトゥーレンという手代の女、又はこの男の妻であるキャサリン・バストラルという手代の女のいずれかであろうと考えていた。
尤も、キャサリンの方はサージ同様に奴隷上がりの上に未だ年若く、経験も浅いと思われるのでまずないだろうとは考えていたのだが。
――しかし、単なる下っ端だと思っていたこいつがな……。
エンブリーは目の前で微笑むキャットピープルの男を前にゆっくりと息を吐き出しながら気合を入れなおした。
……数十分後。
「そうですか、何れかの肉屋を通じて試供品を……。いえ、理解いたしました。確かに我がキンバリー牧場の豚の肉質をご存じなければ……」
エンブリーは噴き出る脂汗をハンカチで拭いながら、内心で慌てている。
まさか豚肉の採用にあたって品質の基準が存在するとまでは思ってもいなかったのだ。
王都の肉屋などでは、一部の貴族御用達の高級店でもない限りはそこまで肉質に拘ってはいない。
大抵の場合、豚肉のこの部位は一〇〇gでこのくらいの価格、この部位ならこのくらいの価格、という感じで価格付けがなされており、部位はともかくとして肉質を確かめるなんて事まではまずされない。
事実、試しにと卸販売を持ちかけた適当な肉屋では一頭あたり重量についての価格しか聞かれなかった。
――道理でバルドゥッキーがあんなに美味い訳だ。なるほどねぇ……。
それに加えて、グリード商会に豚肉を卸すには解体を終えていなければならない事も知らなかった。
事実としてグリード商会が購入する肉は全て肉屋を通して購入しているのだが、乱波組織はその事までは掴んでいなかった。
グリードは牧場に直接話をしに行く方が圧倒的に多かったので、牧場からだけでは足りない分の肉や、腸膜の剥ぎ取りの為だけに肉屋を利用していると考えられていたのだ。
しかし、実態は仕入れ量などについては牧場と直接交渉を行っていたが、豚一頭を丸々使うわけではないため、肉屋で解体加工したものを必要な部分だけ購入していたのだ。
挽き肉機という便利な物があるので豚肉は一頭全て使っていると思い込んでいた。
――これは……まずいか?
エンブリーは焦りながらもどうにか笑顔を浮かべて頷いた。
キンバリー牧場の豚はとにかく数を揃えるために適当に買い漁ってきたもので、均一な肉質など考えたこともなければ、まだ一頭も捌いていないから肉質なんて誰も確認していない。
「ええ。ウチが求めているのはバラか肩か首。あとは脂です。本当はロースなんかも使いたいんですが、流石に価格がね……」
バラはともかく、肩や首は赤身の肉で肉質はやや粗く硬いために比較的安価な部位だ。
サージからこのセリフを聞いた時もエンブリーは焦る。
――丸々一頭を捌いてもグリード商会に全部卸すことも出来ないのかよ……。こりゃあ、他の肉屋にも売り込みに行かなきゃ大赤字が出る! そうなったら流石に陛下だって……!
勿論、乱波組織にも諜報以外の正業を持っている者も多い。
年がら年中あちこちに出かけて情報収集や工作を行っている者も居るが、市井に溶け込むために仕立屋や革細工屋、行商などを営んでいる、“草”と呼ばれる者の方が圧倒的に多いのだ。
しかし、組織が確立されて以来、牧場を構え、畜産に手を染めた歴史はなかった。
「手前共の基準に達した肉質の豚肉を定期的に供給いただけるのでしたらいつでも買います。どこの肉屋に卸すのかお教えください」
サージの言葉に曖昧に頷きながらエンブリーは忙しく考えを巡らせるが、良い案など急に浮かぶことはない。
適当な相槌を打って「今週中には試供品を持って出直す」と言って今日の交渉を打ち切ると席を立つ。
「あ、バストラルさん。肩に御髪が……」
店を出る時には長年の習性となっている、同種族の男性の髪の毛の収集まで行い、丁寧に頭を下げて帰途についた。
人々が行き交うベイル通りを歩きながら、捨てるふりをしつつ指に絡めていたバストラルの髪の毛を見つめる。
――ま、運試しだ。万が一俺に合うようなら何かの際に……。
今日は牧場に帰って善後策を練る以外予定がないのでステータスの偽装を続ける意味も薄い。
男の髪の毛を飲み込むという不快な行為を行い、偽装の技能を使用する。
「ステータスオープン……」
歩きながら右手で左手の甲に触れてステータスを確認する。
「お? こりゃ珍しく上手く……あん?」
バストラルのステータスを見た時には判らなかった魔法の特殊技能のレベル。
全属性の魔法の技能を持っている事は既に調べがついていたので驚くには当たらないし、超一流とも言われている殺戮者のメンバーであればその技能レベルの高さにも頷ける。
エンブリーの目に映るサージェス・バストラルのステータスウインドウには、先ほど握手をしながらお互いに確かめあった際に見た内容と殆ど一緒のものが映っていた。
「……!」
血のような色で追加されている一行を除いて。
・・・・・・・・・
同日、深夜。
ロンベルト城のある部屋。
「もう一度言ってみろ」
厳しい顔つきの国王は目の前にひれ伏す乱波組織の頭の一人に命じた。
「は。固有技能という行がありまして、その内容は、ヌ、熱耐性です。技能のレベルは六です」
ひれ伏したまま答える乱波組織の頭。
「本当に固有技能はそれ一つだけなのだな?」
「は、ははっ」
返事を確認した国王は立ち上がった椅子に戻ると腰を下ろし、目を瞑ると腕を組んだ。
――エンブリーが嘘を言う訳はない。しかし、固有技能が一つだと……? 言い伝えでは……。
黙考する国王。
――どうする? 聞いてみれば奴隷上がりの平民従士と言う。ひっ捕らえて拷問に……最終手段か。それはともかく、バストラルなる者が猫人族であったのは幸い……あそこにはまだキャットピープルの女が数人……念のため調査させるか……?
国王は腕を組み、目を瞑って微動だにしない。
――奴は自ら別の世界から生まれ変わったと言ったらしいが……。突飛な行動や言動を無理矢理納得させるための方便に見せかけるにはいい考えだと感心したものだが。ちっ、それだけでは無かったということか……。あの野郎、自分に注意を惹きつけることで……。
暫し黙考した後、国王は目を開ける。
「ザイドリッツ。そなたはどう考える?」
同様に目の前にひれ伏している別の頭の一人に尋ねた。
「は……」
声を掛けられたザイドリッツは伏したまま言葉を詰まらせる。
乱波の頭とは言え転生者がどういうものか、国王より貧弱な知識しか持っていない。
が、今のやり取りで一つだけ彼にも知識が増えた。
転生者は複数の固有技能を持つこともある。
若しくは複数の固有技能を持っているのが普通である。
ということだ。
だが、その程度の知識が増えたとて、今はあまり関係がない。
「根拠はございませんが……」
ザイドリッツは前置きをすると話し始めた。
「ひょっとしてリーグル伯爵の下にはもっと多くのテンセイシャが居る可能性もございますな」
ザイドリッツとしては一度あることは二度あると考えただけで、本当に何の根拠もなかった。
「そなたもそう思うか」
しかし、国王は十分に考えられることだと思って頷いた。
――まぁ良い。こちらには奴の姉もいるし、もうすぐ甥か姪も生まれる。南の壁は優秀なほど助かるというものだしな。それにつけてもエンブリーの偽装は大したものだ。
国王は上機嫌になると、重要な情報を齎すことに成功した乱波組織に褒美を取らせることにした。
・・・・・・・・・
7449年7月20日
「ゾンディールの去年の鉄の産出量は……結構あるんだな」
「ウィードと合わせれば充分じゃない? 一年はかかるでしょ?」
ミヅチと二人、行政府の領主執務室で話をしていた。
話題は来年の夏くらいから開始する予定の工事の件だ。
工事は領地を挙げて行う大規模なものになることが予定されている。
その内容は物流の速度や量を上げるために領内の重要拠点を結ぶ馬車鉄道の敷設である。
線路を敷く予定地を選定するためにラルファを伴ったグィネに各地を見て貰い、線路の候補地を絞込むのにそれなりの時間が掛るだろうとの予測から取り敢えず来年の夏頃に本格的な工事を開始するつもりでいる。
でも、そんなのどうなるかわかったもんじゃないので、現時点ではあくまで“仮”の予定に過ぎないんだけどね。
当然工期についても現時点では全く不明であり、今年の秋くらいにべグリッツ内でお試しの工事を開始し、それにかかる労力や時間を計った上でないとなんとも言えないだろう。
また、路線についてだが、まずはべグリッツからウィードとゾンディールを結ぶ事を第一段階とする。
その後、道中の適当な村を中継地として南の方へ軌道を伸ばし、最終的にガルへ村まで線路を延ばすことを第二段階とする。
当面は単線で、適当な村や中継地となる水場の傍に交差用の複線を用意することで凌ぐが、最終的には全線の複線化を目指すつもりでいる。
この馬車鉄道が完成すれば領内の人や物の行き来が活発になり、商業の規模も大きくなるだろう。併せて内需の拡大にも期待が持てる。
勿論、内需の拡大を支えるには流通する金の量が増えなければならないので、他の領地(特に流通している金の量が桁違いである天領)との交易を増大させなければ話にならない。
兄貴との約束もあるのでゴム製品を作って輸出する訳には行かないが、なぁに、商売の種なら他にも幾らでも転がっているさ。
例えば、挽き肉機を量産して販売したっていいのだ。
または、挽き肉機を元にして作った製麺機で乾麺を大量に作って売ってもいい。
うどんだのパスタだの蕎麦切りだの、乾麺の需要は高いと思うんだ。
ソースなんか買った奴が勝手に作ってくれるだろ。
唐辛子がないのがあれだが、最初のうちはオリーブオイルとニンニクと塩だけで食わせたってウケるだろうし。
今回の話でエンブリーの使った特殊技能の「偽装」についてお忘れの方は、
幕間 第十七話 戸村勇吾(事故当時35)の場合
のあとがきを御覧ください。
また、エンブリーって誰だっけ? という方は
第三十話 王家の秘密
を御覧ください。




