第三十五話 ウィード
7449年3月12日
ロンベルト王国の南部、カンデイル地方に入った。
バルドゥックを発って僅か八日で天領を抜けられたのはまずそよ風の蹄鉄のお陰であることは疑いの余地もないが、グィネの記憶に天領の大部分がインプット済みである事も忘れてはいけない大きな理由だ。
なお、当然の話だがここに至るまでに全速での移動を行ったのは数日前の僅かな時間だけであり、それ以外は馬が軽い荷物を牽いて歩く速さ程度という、運んでいる荷物の量に比してそこそこ速い速度だった。
と言っても、その実態は日のあるうちの移動時間中はトイレ休憩と昼食時しか休みを取らなかったし、そもそも馬車の車輪の出来が違うから同じ重量でも速度は上だ。
最初の数日は路面も良く、出発したばかりなので馬も元気、おまけに新型の馬車でもあるので、乗っている奴隷たちは勿論、国王から押し付けられた平民の移民たちも素直に感心しているようにしか見えなかった。
しかし、既に一週間以上、まして三・四日前くらいからは路面の状況もだんだんと悪くなって来ている。幾ら馬車が上等で、馬も丈夫な軍馬を中心に揃えていたとしても移動のペースが殆ど変わらない事について不思議に思う者も出てきたようだ。
実は早く誰か言い出せよ、と少しだけハラハラしていた。
いつまでもこんな速度を維持したくはなかったし、今日中に誰も言い出さなければ仕方なく速度を落とすつもりだったしね。
「あの、お屋形様……お尋ねしても宜しいでしょうか?」
昼飯を食っている時に国王の遠縁の三男だかが声を掛けてきた。
名前はガロン・ザイドリッツ。
今年二十七才になる獅人族の元奴隷だ。
俺に押し付けるにあたって一度解放されて自由民になった状態で来たために鑑定して家名を見ても特におかしいところはない(7449年に奴隷から解放され新たなザイドリッツ家が興きた、としか記載がない)。
女房のマーサの方も同時に自由民になっているのでこちらも不自然な点はない。
なお、彼らに子供はいない。
俺の従士としての命名は領地についてから現地の神社に喜捨する格好にしたいのでまだ行っていない。
「なんだ?」
サラミになる一歩手前になるまで強めに燻し、長期乾燥させたバルドゥッキーを齧りながら答えた。
「あの……馬車ですが、変わった車輪ですね」
ガロンは感心した顔つきをしながら話す。
普通の馬車は状態の良い鋳鉄製の車軸に木の板を円形にしたものを両端にくっつけて車輪としている。マシな奴でも車輪のタイヤ部分に鋳鉄製の板を巻きつけて摩耗を予防しているくらいだ。
対して俺の馬車は金属製のソリッドスポークを持つだけでなく、リムも金属製な上にゴムタイヤまで履いている。
「ああ、車輪の外側にゴムを使っているんだ」
サラミを噛んでいたために俺が答える前に傍でお茶を啜っていたロッコが答えた。
「そうですか、やはりあの黒いのはゴムでしたか……」
ガロンは道端に並んで停まっている馬車の方を眺めながら感心したように答えた。
やれやれ。
このガロンという奴は誰かの手の者だと思う。
何しろ初日のトイレ休憩の時、車輪の表面に触れてステータスを見ていたという報告を受けているからね。
まぁ、状況と国王が遠縁だと言っていた事から国王の息が掛かっていると考えるのが妥当だろう。
「ゴムは万能と言う訳ではないが、こうやって役に立つ物を作る事が出来るのが便利だ。興味が有るのか?」
ロッコが余計なことを口走る前に会話の主導権を得ようとして急いで口の中のものを飲み込むと、馬車の方を向いたままのガロンに尋ねた。
「ええ。あんなに乗り心地が良くて速いのはゴムの車輪のお陰なのかと思うと興味がございます」
慌てて振り返ったガロンに、どこか期待するような口調で答えられる。
あほ。
バークッドの出身者か俺の直属の奴隷以外はゴムの生産には当面の間、誰一人関わらせるつもりはねぇよ。
「そうか。だが、お前には農地を耕して貰わなきゃならんからな。諦めろ」
べグリッツにも市街の周囲にはそれなりの面積の農地が広がっている。
そのうちの大体八割くらいが俺のもので、直属の従士や奴隷たちに耕させることになる。
直属と言っても、現地にいる従士も結局は直属と言えるからどうにも変な表現になっているな……。
うん、今後は俺が連れて行く者(要するに前代官のラフリーグ伯爵の家臣と入れ替わる者)を後任、元々べグリッツに在住していて、残り二割の土地で農業を生業としている平民を先任と呼ぶことにしよう。
そうすれば先任となる彼らの顔も立てやすい気も……するかな?
彼ら夫婦を含めて国王から押し付けられた者は全部で六人、五家族いるが、その全員に対して普通の農地を割り当てるつもりでいる。
他に、別口で領地にやって来る予定のバークッド近傍の村などウェブドス侯爵領の出身者も一〇人以上居るが、彼らも基本的には普通の農地を任せるつもりでいる。
そもそもゴム園を作ってゴム製品の製造を領内でやることについてはミヅチ以外にはまだ誰にも言ってない。
「あ、いえ、そんな……」
俺がにべもなく答えたことでガロンは鼻白んだ様子になって言葉を濁した。
少し離れたところでは彼の女房のマーサが他の国王から送られた女性の平民と何やら楽しそうに話していたが、遠すぎたようでこちらの会話が耳に届いていなかったらしく、全く不自然な様子を見せることなく笑っていた。
功を焦りすぎだ。
間者として入り込むのであれば最低でも二・三年は何もせずにおとなしくしているのが上策だと思う。
それだけの時間が経てば俺の警戒心も薄れるだろうし、配置転換の要求について尤もらしい種を見つけることもあるだろう。
例えば、収穫量に左右されてなかなか生活が安定しない農業は嫌だ、と言って来たってちっとも不自然ではない。
幾ら俺が怪しんでいると言ったって、四六時中監視なんて出来るはずもないのだから、見ていないところで農作業の手を抜いて不作を装う事だって出来る筈だしね。
・・・・・・・・・
7449年3月24日
カンデイル地方に入ってからは予定通りと言うべきか、天領を通る間とは打って変わって大分速度を落としてゆっくりと移動していた。
これはグィネの記憶に地形を刻み込むためと言うより、俺の領地と物理的な距離も近いので領内で穫れた作物や鉱石、はたまたゴム製品以外の工芸品について販売する余地があるかどうか、又は何か恒常的に買い続けなくてはならないような特産品があるかどうかなどを調査しながら進んでいた事が主因である。
尤も、そのお蔭でいい時間潰しにはなった。
あまり早く到着しても本当に不自然だからね。
ああ、俺の馬車隊の移動速度自体が普通よりもかなり速いことくらいは知られたっていい。
良い馬と上等な馬車を使っているために速いのだと思われればいいし、それによる害もない。
極論を言えば魔法の蹄鉄を使用していることを知られるのだって構わない。
要は魔法の蹄鉄についてその真価を知られなければいいだけだ。
で、あれば最初から使わずに普通に移動したって良さそうなものだと思われるかも知れないが、路面の状態が良いうちに馬車の速度を測っておくべきだと思った事と、間者が紛れ込んでいれば炙り出すのに都合が良いかも知れないと考えたに過ぎない。
ゴムタイヤとショックアブソーバーの採用で俺の馬車は通常では通るのに速度を落とさざるを得ないような路面状況でも結構楽に通ることが出来るから、それが原因だと思われたとしてもあんまり問題視はしていない。
俺が重要視するそよ風の蹄鉄の真価とは、移動が路面状態に左右されないことだ。これに比べれば半日疲れないことや耐荷重が倍になることは格落ちすると思っている。
勿論双方とも重要で有り難い上に得難い能力だが、疲れないことは替え馬を用意すれば大体カバー可能だし、耐荷重についても倍の数の馬を用意するか、最悪二往復すればいい。
だけど、悪路でも移動速度が落ちない事や馬と騎手のみなら水上ですら移動可能な事だけはどうやってもカバー不可能な点だからだ。
将来的には所有する六四組の蹄鉄の大部分は軍事的に利用するつもりでいるので、一の谷の鵯越の逆落としのような状況で真価を発揮すると思っている。
尤も、ダート平原は地形の高低差は殆ど無いので、真価を発揮するような状況はかなり先の話だろうけど……。
とにかく、今日、やっと俺の領内に入った。
領地の北東部にあるウィードの街までは直線距離で一〇㎞もない位置だ。
目の前、南に聳えるウィード山を突っ切りたい衝動を我慢して、道に沿って山を迂回しよう。
・・・・・・・・・
十五時前。
ウィードの街の外に広がる農地が道の加減によって遠くに見え隠れし始めた頃。
騎乗した二人の男と出会った。
馬車隊の前方を警戒していたメックとロッコのうち、ロッコが戻ってきて報告をした。
「ウィードの従士だと。お目通り願いたいそうだぜ」
街には今朝早くにジンジャーとズールーを先行させて前触れを出していたためか、迎えを寄越してくれたらしい。
前の方へ行くと馬から降りていた二人の男が進み出てきて俺に挨拶をする。
やはり迎えのようだ。
「以降、私がウィードまで先導致します」
片方の男が言うと、もう一人は「私はカズム閣下に報告致しますので一足お先に失礼致します」と言って、少し離れたところまで馬を引いてから騎乗すると街に向かって駈け出した。
ここからの速度は徒歩にならざるを得ない。
騎乗している者も下馬して手綱を引くのだ。
また、俺も正式な騎士に任じられていないので馬を降り、先頭の荷馬車の御者台の脇に座った。
貴族が新たな領地に赴任する場合、その貴族が正式に騎士の位を持っていないのであれば馬車に座す事になっている。
過去に一度でもどこかの騎士団で正騎士に叙任された経験があれば馬に跨っていても良いとされている。
加えて、随員も御者以外は馬を含めた全ての乗り物から降りて歩くのがロンベルト王国の作法だ。
本来は貴顕移動用の天蓋付きの乗用馬車に乗るのが当たり前だが、俺の場合はそんな馬車は持っていないので御者台に座るのだ。
これは代官の赴任なんかでもそういった馬車を所有していない人も多いので当たり前のようにあるから恥ずかしくはないと聞いている。
御者以外のうち、馬車に乗って良いのは俺を始めとする貴族だけであり、今まで荷台に乗っていた奴隷たちや移住者たちは馬の手綱を引く少数の者以外は馬車隊の最後尾を付いて歩く。
案内の従士はすごくのろのろと歩いているが、これは時間稼ぎである。
なにしろあと四・五㎞でウィードの街に入っちゃうからね。
暫く進むと森が切れ、農地の端に差し掛かった。
農地にはそれまで農作業をしていたらしい農奴や平民たちが並び、市街区に入ると住民たちが道沿いに並んで俺たちに頭を下げていた。
市街の外れにはジンジャーとズールーの二人が下馬して俺たちの到着を待っていた。
傍に立っているのはゼノムの前任であるカズム男爵とその従士たちだろう。
勿論、普段であればここまでのことは行われない。
だが、今回はこの領土全体を治める正式な領主である俺だけでなく、ウィードを治めるファイアフリード男爵も揃っての到着なので特別だ。
当然の事だが、この光景はどうにも尻が痒くなるがこれも今まで行ってきたことの一つの成果だ。
堂々と胸を反らして礼を受けるべきだろう。
「出迎えご苦労だな。そなたがカズム男爵か?」
馬車に腰掛けたまま男爵に声を掛けた。
鑑定するまでもなく、着ているものなどから誰にでも推測は可能だが、念の為に鑑定した。
もしも間違えたら恥ずかしいからね。
「は。カズムでございます。リーグル伯爵閣下ですね?」
カズムは中年の普人族で少し太り気味の男だった。
「うむ。私がリーグル伯だ。そして一台後ろの馬車に座っている山人族がそなたの後任であるファイアフリード男爵だ」
ゼノムが座乗する馬車を教え、彼がゼノムに挨拶を終えるまで待った。
「では、居館までご案内致します。ここからは私が先導致しますのでどうぞご随員の皆さんもお越し下さいますよう……」
これは定形のセリフであって全員が居館に向かうわけではない。
お決まりのセリフを応酬し俺の随員のうち、貴族と奴隷頭のズールーだけが居館に赴くことになる。
今日は男爵の居館で休むことになる。
・・・・・・・・・
7449年3月25日
一夜明け、出発の準備を整える。
昨晩は男爵の居館のベッド(勿論藁のベッドではなく、綿の詰まった布団だった)でゆっくりと休むことが出来た。
供された食事はかなり豪華で丁寧に作られていた。
街の傍のウィード湖で捕れるというイウェイナという魚が名物のようで、イウェイナを使ったコース料理といった風情だった。
味の方は田舎料理の域を出ることはなく、素朴な味わいが特徴的な、個人的には好感が持てる食事だったと思う。
でも、魚があまり好きではないゼノムは始終仏頂面をしており、カズム男爵やその奥方、料理人らしい奴隷が心配そうにしていたのが笑えた。
勿論、ゼノムが魚料理があまり好きではない事を説明した上で、俺は大好物だと言って美味そうに食っていたので彼らの顔からもすぐに心配そうな表情は消えたけど。
ウィードにはゼノム、ジンジャー、ケビン、グィネと数人の奴隷を置いていく。
グィネに領地を見て回らせたいが、彼女はゼノムの従士なので彼女は彼女で前任者からの引き継ぎもあるからだ。
ラルファが来てからゆっくりと回らせても遅くはない。
また、ここでトリスとベル、ロリック、カーム、ビンスなどとは別れる。
彼らも彼らの村に向かわねばならないし、引き継ぎがあるからだ。
人員輸送の馬車も三台が彼らにくっついて行くことになる。
この馬車は後日ウィードまで戻され、俺の使っている馬車もウィードまで戻り次第、ベルを中心として、各領主が抱える従士たちや奴隷が再びバルドゥックまで戻って第二陣の皆を連れて来る手筈になっている。
そして第二陣が到着した後、領土内の街や村を治める土着の領主たちと正式に顔合わせを行う予定だ。
今日はウィードの西にあるダモン村を通り過ぎ、その先のハロス村で一泊する予定だ。
べグリッツに到着するのは明後日になる。
代官であるラフリーグ伯爵が治めるべグリッツはともかくとして、昔から土地に根ざしているダモン村やハロス村、そしてゾンディールの街を治める人たちはどういう人なのだろう?
俺に対してどういう気持ちを抱いているのだろうか?
好意的であれば何一つ言うことはない。
無関心だとしても、唯々諾々と従ってくれるのならば、まぁ文句はない。
俺の持っている情報はごく僅か。
領民からの評判などを纏めたものだけだ。
それによるとあまり評判が良くない人が一人だけいるが、その人は一番北のヘンソン村を治めるラノクス士爵という人で、暫く会う予定はない。
■馬車の移動速度について
路面状況が比較的良い場合、成人男性は10kg程度の荷物を背負っていても時速4km前後の速度で移動可能です。
また、騎手を含めて自分の体重の4分の1(荷馬の場合、体重は500~600Kg前後、軍馬の場合は700~900kg前後)程度の荷を運んでいる馬は時速6~7km程度の速度で移動可能です。
普通の馬車の場合、大体において荷馬は自分の体重の3分の2程度の荷物(馬車の重量を含む)を引くのが普通です。この場合の速度は時速3~4Km前後です。
これらの速度はその人や馬が持つ耐久値以下の距離(耐久値1は1Kmに相当)を能力値的なペナルティなしに移動可能で、適宜休憩を取る場合の速度です。
当然路面状態が悪くなるに従ってこの速度は落ちます。
また、当たり前ですが短時間であればもっと速い速度で移動することも可能です。
整備が行き届いていない標準的な路面の場合、移動速度は大体3分の2程度になります。
ぬかるんでいたり、石がゴロゴロしているように路面状況が悪い場合は半減します。
続いて荷台に対する振動ですが、路面状況の良い場合を振動率100とすると、標準的な路面状況で振動率150~200、悪い路面状況で200~300くらいです。
(※振動率100で梱包されていないグラスなどの脆弱なガラス製品は周囲のガラス製品と接触の拍子に割れます。振動率120くらいでは通常の梱包がなされていても脆弱なガラス製品は約半数が破損しますが、ボトルや花瓶など少し耐久性の高いものなら梱包無しでも大多数が無事です。振動率150くらいになるとそれらの物も標準的な梱包だと約半数が破損してしまいます。
因みに、水を混ぜたり、綿に染み込ませたりしていない、ニトログリセリン原液が低速爆轟する振動率は14と設定しています。
上記に対してアルが作ったゴムタイヤ、タングステン製のボールベアリングを採用した車軸と軸受けを使った馬車の場合、自分の体重と同じ重量まではペナルティがないとお考えください。
要するに、運べる重量的には1.5倍の性能を実現しているという訳です。
(正確には金属部品が増えている分、馬車の重量自体は同じ容積でもアルの馬車の方が重いので1.5倍とまでは言えませんが)
また、サスペンション的なショックアブソーバーもありますので荷台に対する振動は路面状況の良い場合は30%減。標準的な路面の場合は50%減、悪い路面状況の場合には70%減となります。




