幕間 第三十二話 湯川楓(41)の場合
その日、湯川楓は疲れていた。
反抗期を迎えた息子と娘。
「家庭のことはお前に任せている筈だ」と言って家庭について碌に関心を払わない仕事人間の夫。
彼女が毎日行う掃除や洗濯、食事など細々とした家事に対して尽くダメ出しをする姑。
いつもなら広い心で許せたそれらについて、急に大きな不満を感じてしまった。
「たまには私も贅沢をしよう」
夫へのバレンタインデーのチョコレートを買いに行くと姑に言い置いて、新宿のデパートに向かう列車に乗っていた。
勿論、雑誌で見た二千五百円のランチコースを食べに行くつもりもあった。
しかし、こちらについては流石に気が引けたのか地元駅前のコーヒーショップのランチセット六百四十八円也で済ませてしまった。
それでも、コーヒーはゆっくり飲んだけれど。
そして、目的地である新宿駅まであと十分程度、という時に事故に遭遇してしまった。
・・・・・・・・・
(なに? 助かったのっ!?)
「うぎゃ、うぎゃぎゃあっ!?」
楓は必死に冷静になろうと努めた。
子供たちや夫を残して死ぬ訳にはどうしても行かない。
あんな子供たちでも、仕事人間の夫だとしても、彼女にとっては大切な存在なのだ。
今彼女が目を離したら長男は勉強しなくなるだろうし、長女はグレてしまうかも知れない。
夫が安心して仕事に打ち込めるのも彼女が居てこそであるという事も理解している。
だから……だからこんな事故で死ぬ訳には行かない!
(お願い! 助けて!)
「あびゃ! あびゃびゃ!」
(え? 何? この声?)
あれだけの大事故である。
大勢の負傷者がいるだろうと思った。
中には赤ん坊もいたのかも知れない。
だが、他人の声ではなく、自分の声のように感じた。
口の中に血でも詰まっているのか、呼吸も苦しかった。
楓は混乱する。
なんとか血らしきものは吐き出し、呼吸を整えた。
しかし、事故のショックとも相まって精神の平衡が保てない。
それに、腹が痛い(臍帯を切除したので痛かったのだ)。
大怪我でもしているのだと思った。
(落ち着いて、私。まず深呼吸よ)
とか思っているうちに眠ってしまった。
彼女の新しい母親は急にぐったりして動かなくなった娘を心配して取り乱す。
赤ん坊の声を聞いて部屋に入って来た夫の方はもう少し冷静で、呼吸を確かめるとそれを妻に伝えて宥めた。
彼女はグレースと名付けられた。
・・・・・・・・・
十数年後。
なんとか普通に成長することが出来たグレース・ミムロットは今日も農作業を行っている。
彼女が生まれたのはロンベルト王国にあるペンライド子爵領の首都、カールムから少し内陸に離れた村、ミートスである。
転生して十余年。
あまりに長い年月は彼女から息子や娘、夫との記憶を薄れさせるのに充分であった。
転生した当初こそ訳の分からない状況に嘆き悲しんだものであったが、それも四、五回も繰り返せば無駄だと悟る。
その後は諦めも付き、新しい生を受け入れた。
自分に尻尾が生えている事に気付いたというのもある。
人間によく似てはいるが、既に人間ですら無くなっている。
それに気が付いた時、グレースは自分の死を受け入れたのだ。
ミートス村には彼女の家の他、虎人族の家族は二家族しかいない。
そのうち一家族は十年程前に新たに村の従士として移住してきた平民の家族であり、子供は長男しかおらず、その長男は数年前に結婚していた。
もう一家族はグレース同様に農奴の家族であるが、こちらには幸か不幸か、娘しか生まれておらず、二人共グレースの兄達と結婚したか、結婚する予定である。
そして今、グレースはあと僅かで十九になる。
結婚適齢期ど真ん中にありながらミートス村のタイガーマンは非常に少ない。
同じ村には候補となる相手すらいない状況であった。
最近はグレース達の持ち主と彼女の父親が真剣に彼女の行く末について話し合っている。
彼女の叔父や叔母も別の村に売られ、そこで結婚したらしい。
遅かれ早かれ彼女も同様の運命を辿るであろうことは明らかだ。
隣村に独身のタイガーマンの農奴がいるらしい。
但し、その年齢はそろそろ四十になろうかというものであった。
その男の持ち主にグレースを売る打診をしているそうだ。
そんなことはグレースとしても勿論のこと嫌であるが、彼女にはどうにもならないことである。
奴隷の結婚に本人の意思が反映される例はあまり多くない。
今では諦めも付いている。
そんな冬のある晩。
山から恐ろしい魔物が人里に降りてきた。
冬眠に失敗したホーンドベアーである。
通常、ホーンドベアーが冬眠に失敗することはまずない。
殆ど最強の生物に近いために冬の到来前に充分に餌を取ることが出来るからだ。
だが、この年、たまたま流れてきた別のホーンドベアーに縄張りを荒らされて充分に餌を摂れなかった若いホーンドベアーが冬眠に失敗したのだ。
ホーンドベアーは恐ろしい咆哮を上げ、村外れに住んでいた狩人の一家を惨殺した。
夜中にその咆哮によって叩き起こされた村人達はまんじりともせず朝を迎える。
勿論グレースも一緒に目を覚ました。
しかし、恐ろしい咆哮を耳にして家族同様に恐怖に打ち震えた瞬間、グレースはあることを思い出した。
そして、あっという間に彼女の心に発生した恐怖心は霧散する。
彼女はすぐに自分の固有技能である【耐性(精神異常)】を発動したのだ。
咆哮の発生源までそこそこに距離が離れていたことと、家の中に居たために音量がかなり減じられていたことが恐慌の度合いを軽減していた。
家族達も怯えてはいるが取り乱すまでには行っていないのはグレースにとっても幸いであった。
転生当初、グレースは固有技能についてその存在にすら気が付かなかったが、数年後には固有技能の使い方について知っていた。
恐怖心やパニック、怒り、悲しみ、歓喜など大きな感情のゆらぎを感じた際にこの技能を意識することによって発動され、精神は平衡を取り戻すのだ。
嬉しい出来事に対して使ってもつまらないので、悲しいことやショッキングなことがある度に使っていた。
この技能にレベルはないが、今では便宜上のレベルは五に相当している。
精神に恐慌を来す家族を宥めつつ朝を迎えた時、狩人一家が全員食い殺されたことを知った。
だが、人の味を知ったホーンドベアーはまた暫く(長くても二週間、短いと翌日)したら再び襲撃して来るだろう。
領主のベーデット士爵は村の戦力だけでの防衛は不充分だと判断し、カールムの行政府に退治の依頼を出し、冒険者を雇うことを決定した。
士爵の依頼を受けた行政府では「誰も依頼を受けず、三週間を経過した場合に限り、ペンライド子爵騎士団を派遣する」と請け合ってくれた。
・・・・・・・・・
果たして数日後。
運の良いことに未だ二度目のホーンドベアーの襲撃は行われていない。
そんな折に一人の若者が村を訪れた。
カールムの行政府で依頼を斡旋されたと言う若者はがっしりと丈夫そうな体つきをして、手入れの行き届いた武具を持っていた。
しかし、ベーデット士爵は割符を持って現れたのがたった一人の若者であったことに落胆する。
彼は六人の熟練した冒険者を希望したのだ。
または、どうにかして三週間耐えて騎士団が派遣されて来るまで待つのでも良かった。
尤も、彼以外にもまだ来るかも知れないと思ってその件については触れなかった。
とにかく、村の従士達は殆ど寝ずの番を強いられ、体力的にもそろそろ限界が近いので一人でも戦力が増えること自体は歓迎なのだ。
だが、若者のステータスを確認したベーデット士爵は僅かに希望の光が差したことを感じる。
漆黒の髪同様に黒い目をした若者は魔法が使える上に正騎士の叙任を受けていたのである。
しかも、郷士騎士団ではそれなりに精強だと名高いファルエルガーズ伯爵騎士団での叙任であった。
「ご領主殿。ご不安に思われるのは解りまするが、どうかご安心召されい。昨年の夏も某はホーンドベアーを狩ったことがございます」
ファルエルガーズ伯爵家に仕えていただけあって貴族に対する言葉遣いも丁寧だ。
「おおっ、なるほどそれは心強い言葉であるな。たった一人で請け負うだけのことはある!」
そうは言ったものの、ホーンドベアーを個人で倒すことの出来る豪の者などそうはいない。
士爵はその事を充分に知っていた。
だから、目の前の若者が言う、昨年の夏に倒したホーンドベアーというのも他の冒険者と共同で倒したのだと思っていた。
元騎士の冒険者の男はその日の晩から狩人一家が惨殺された家に一人で泊まり込んで待ち伏せをすると言う。
それどころか従士達の助勢も死者が増えるだけなので必要ないと嘯いた。
流石にたった一人は無謀だと士爵は諌めたものの、「大丈夫。ご安心召されい。それよりも、某がホーンドベアーを倒すまで周辺の家から人を遠ざけておいて頂きたい」と笑った。
そして、数日間自宅から追い出される事になる人々や、彼らが間借りする家の人々には「今暫くご辛抱頂きたい」と一軒一軒に腰を低くして頭を下げて回り始めた。
平民や自由民が騎士になると、とたんに偉そうに振る舞う者は多い。
しかし、村人たちの目には、彼はそのような輩とは無縁のように映った。
そして、冒険者の若者が士爵の息子を伴ってグレースの暮らすミムロット家にやって来た。
ミムロット家は狩人一家の家に一番近い場所にある。
とは言っても優に八十m近くは離れていたのだが。
その時グレースは手入れの必要な道具を持って村の従士の家に出ていたので不在であった。
士爵の息子は「彼がホーンドベアーの退治を受け持ってくれた冒険者だ。正騎士の叙任も受けている豪の者だぞ」と紹介する。
紹介を受けた若武者は丁寧に挨拶を行うと、念には念を入れて村民の安全を図りたい、ついては狩人一家の家から半径二百mは自分以外無人にしておきたいと言って退治についての大まかな方針を説明した。
説明を聞いたミムロット家の住人たちはお互いに顔を見合わせる。
解り易く方針を説明してくれたことは彼らを安心させたが、たった一人でホーンドベアーと対峙するのは無謀であると感じていた。
四日前の晩に聞いたあの咆哮は背筋が凍りつくほど恐ろしい声だったのだ。
「申し訳ない。そういう訳で今晩から暫くの間、あちらのビーグスさんの家に厄介になって頂きたい」
手入れの行き届いた革鎧に身を包み、腰に長剣を下げた若武者が頭を下げる。
奴隷の家族にもこのように丁寧に接する騎士というのも変わり者だ。
父親が一家を代表して了解である旨を伝える。
勿論、奴隷であるミムロット家としては領主の息子を伴って現れた騎士の頼みに否という答えは持たない。
領主の息子と冒険者の若者がミムロット家を辞する時。
丁度グレースが戻ってきた。
オンボロで、タイガーマンの家としては小さめの出入り口から少しかがんだ見慣れない若者が家から出て来た。
「あれ? あなた……?」
頭を上げた若武者の顔を見直したグレースが思わず声を漏らす。
「む?」
若武者の方もグレースの顔を見つめる。
が、すぐに目を逸らして別の場所へと行ってしまった。
だが、その日も暮れかかった頃。
一人一枚の毛布を持って引っ越しをするミムロット家を少し離れた場所からじっと見つめる若武者の姿があった。
グレース達が簡易的な引っ越し作業を終えたと見計らった若武者は早速彼女に近づいてくる。
彼女の家族達は素早く目配せをするとその場から遠ざかる。
引越し先のビーグス家の者達も全員が家の中に引っ込んだ。
勿論、若武者を恐れてのことではない。
それよりもグレースに「頑張れよ」と声をかける始末であった。
何故なら若武者はタイガーマンであったからだ。
グレースの両親達はどうにかして若武者にグレースを見初めて貰いたいと願っていたのだ。
「やぁ、少し話をしても良いかな?」
柔らかい物腰で若武者がグレースに話しかけた。
「何でしょうか? 騎士様」
グレースにも思うところはあったが、ラグダリオス語で問われたのでラグダリオス語で答える。
『失礼、あなたは日本人かね?』
若武者は苦笑いを浮かべつつ今度は日本語で問い掛ける。
『ええ。そうです。貴方もあの事故で?』
『そうです。ふふ。今回の仕事はいつも以上に気合を入れる理由が出来ましたな』
笑みを浮かべながら若武者は言う。
そして、少し表情を改める。
『失礼だがステータスを見ても?』
了承して右手の甲を差し出すグレース。
『了解した。もし貴女が希望するなら奴隷の身分から解放してやれると思うが、どうかね? ああ、申し訳ないが恐らく解放出来るのは貴女だけだ。流石に家族の分までは……その……』
グレースにとっては青天の霹靂である。
『ありがとうございます。でも、私にはお礼が……』
流石に無償でという訳には行かないであろう。
彼女は奴隷としては価格の安い農奴だがタイガーマンは頑健なので、農奴の中では獅人族同様に比較的高価な部類に入る。
『うん。だが、今回依頼料は三百万Zだ。今晩中、いや、少なくとも他の冒険者がやってくる前にカタを付けられたらそれは全て私が頂けることになる。その時は依頼料代わりに貴女を貰い受けたいと伝えよう。三百万もあれば貴女を買い取れるだろうし、現金を払わなくて良いのであれば士爵も貴女の持ち主の従士に交渉してくれることだろう』
何を言い返してよいか分からずにただ驚くだけのグレースに対して若武者は言葉を継ぐ。
『借りについてはいずれ返して欲しいとは思うがね。だが、解放しても自由民か……少し困ったな』
僅かにバツの悪そうな顔をする若武者。
『何がです?』
『自由民だとこの領地から出られないんだ』
それはグレースも知っていた。言われるまで思い出さなかったけれど。
『……奴隷から解放して頂けるというのは非常にありがたいお話です。嬉しいご提案をありがとうございます。でも、折角のご提案ですがお断りさせてください。自由民になれたとしても手に職もない私ではお金を稼げません。ですから、人頭税を払うこともすぐにままならなくなると思います』
グレースの言葉を聞いた若武者は少しだけ驚いたような顔をする。
『手に職がないって……失礼。以前はどのようなお立場で?』
グレースは一介の主婦であったことを告げた。
『ならば大丈夫。問題はないと思います。定食屋でもやれば宜しい。調味料や慣れた食材など足りないものは多いが普通に食事が作れるのであれば新しいメニュー等売れ筋のものなどすぐに作れます……』
彼が言うにはもう少し大きな街に行けばこのミートス村よりは大分マシな食材が手に入るそうだ。少し工夫すればオースの貴族ですら食べたことのない料理を作れる筈だとうけあった。
『でも……』
遠慮するグレースに若武者は優しく微笑みかける。
『……少し時間は掛かるかも知れないが心当たりがないこともない』
王都の傍、迷宮都市として名高いバルドゥックに知り合いの日本人が居るらしい。
その日本人は仲間の日本人達や戦闘奴隷を使って迷宮に挑む危険な冒険者として活躍し、その世界ではかなり大物として名が通っているとのことであった。
また、そこそこの商会も経営しており、商売も上手く行っている。
当然、金も沢山持っている。
その男に連絡を取って事情を話せば必ず何とかしてくれるとの事であった。
それを聞いたグレースは希望を感じる。
しかし、どうにも若武者の表情は浮かないものであるようだ。
理由を尋ねるとその男に若武者はなんらかの借りがあるようだった。
恩人となる若武者にそんな負担はさせられないと考えたグレースはやはり申し出を断ろうとする。
グレースとしてはもう二十年近くをオースで農奴として過ごし、諦めることに慣れていた。
一時でも夢を見せてくれたことに感謝するべきだとすら思った。
そんなグレースを見た若武者は、微妙な表情を浮かべて別の案を話しだした。
『もう一つ方法が無い事もない。……今から言うことは日本人であった貴女にはかなり失礼なことになるが、どうか怒らないで欲しい。私が貴女を購入した後すぐに解放し、その場で私と結婚するという方法がある。私は平民なので貴女はそれで平民になることが出来る。勿論、私は修行中の身の上なのですぐに離婚することを約束する。本当に失礼な言い方になるがよく知らない貴女と本気で夫婦になるつもりもない』
それを聞いたグレースは思わず噴き出してしまう。
『面白いことを仰るのね。勿論怒りませんし、むしろそこまで私のことをご心配頂いたことについてお礼を言います。ありがとう。でも、それで貴方にどんな得が?』
若武者は少しだけ真剣な表情になる。
『当然、金銭的な得は無い。社会的な得も無いだろう。だが、徳は積める』
この返答はグレースにとっても意外だった。
徳を積む?
『言ったろう? 私は今、修行中の身なんだ。もし仮に、貴女が将来に亘って何の礼もしなかったとしてもそれはそれで構わない。勿論、私だって人間だ。面白くはないだろうし、信じていたのに裏切られたと腹を立てるかも知れない。……と言うか、多分立てる。だが、結局それは私が感情を害するだけの話であって、それで貴女が奴隷の身分から解放されたという結果が得られるのだ。僅かの金銭と私の感情だけでその結果が得られるのであればそれで良い、と思う』
それは徳を積むということになるのだろうか?
グレースはそう思うが、この男が彼女を騙そうとしているのではないことだけは理解した。
彼女にしても奴隷というのは嫌だったのだ。
『……離婚前提ね。でも、こんなプロポーズ、初めて聞いた』
若武者は頬を掻きながら照れくさそうに笑う。
『出来る限りのお礼はします。どうか私を救い出して』
・・・・・・・・・
二日後に再び来襲して来たホーンドベアーの咆哮を聞くなり若武者は槍を執って潜んでいた家から飛び出す。
死闘は数十分もの長きに亘って続いた。
彼を援護しようと駆けつける従士達はホーンドベアーの咆哮により尽く腰が抜け、恐慌を来して役立たずであった。
不思議な事にフィオは咆哮の影響など微塵も受けず、的確に距離を取って槍を突き入れている。
畑を間において数百mも離れ、安全圏からそれを眺める士爵一家と村人達。
最後に思い切り槍を突き入れた時には歓声が上がる。
「あれこそ国一番の無双者よな」
「流石はお館様のお連れになった冒険者!」
口々に適当な事を言って誉めそやしている。
とにかく、ベーデット士爵の予想は良い意味で裏切られたことになる。
「士爵閣下。ホーンドベアーは退治致し申した」
腕に負った傷を魔法で治したものの、血塗れになった若武者が士爵に報告する。
「うむ、見事であった! 大したものよな! どうだ? 私に仕えてみないか? そなたであれば新しく従士家を興すに値するであろう」
若武者を勧誘する士爵であったが、勧誘された方は自分は未だ修業中の身であるとそれを丁寧に断る。
「ですが、一つお願いがございます」
若武者は村の農奴の娘を嫁に欲しいと願い出た。
その代わりに依頼料である三百万Zは要らないと言う。
それを聞いた士爵以下村人たちは驚き、喜んだ者が多かった。
・・・・・・・・・
「ステータスオープン……これで、貴女は平民だ。国内ならどこにでも行ける」
ペンライド子爵領の首都カールムの神社で結婚の儀式をして貰ったグレースと若武者。
これでグレースの名前は慣れ親しんだグレース・ミムロットからグレース・ヒーロスコルとなった。
「ありがとうございます。この御恩は……」
結婚してその場で離婚するのはあまり行儀の良い行為ではない。
せめて一日か二日、時間を置いてからもう一度神社に行くことを考えていた。
「うん。私もお金は必要だからいつか返してくれれば助かる。それとな……」
これからの当座の生活や旅費として必要であろう金を渡そうとするフィオの手をグレースが止める。
「知ってます。そのお金を私に渡したら、貴方、十万Zも残らないでしょう?」
「む。それは……確かにそれはそうだが……私はすぐにでも稼げるから心配は要らぬよ」
「私もヒーロスコルさんに付いて行きたい。修行の邪魔はしないと約束もします」
「しかし……何度も言うが、バルドゥックには知り合いが居る。アレイン・グリードという普人族か、ロートリック・ファルエルガーズという男を訪ねれば必ず悪いようにはならん」
グレースはその話は今までに何回も聞いている。
彼女としては幾らフィオの知り合いだと言っても、そんな顔も見たことのないようなどこの誰とも知らない男達など頼るには値しないと思っていた。
あの恐ろしいホーンドベアーをたった一人で打ち倒す勇者以上に頼りになる者など居るはずないとすら考えていた。
しかしフィオは「解放するのに金の無心をした訳でもないし、むしろ日本人を紹介したんだから私の貸しとなる。そもそも修業中の私に付いて来るなど……」とグレースの同行を拒み続けている。
フィオはミートス村からカールムまで軍馬で丸一日の行程の間中、ずっとグレースの説得を続けていたのだ。
グレースとしては最後の手段に訴えるしかない。
「私、あなたの妻ですよね? 離婚するつもりはありません」
「えっ!?」
貴族でない者の離婚は自由だとは言え、死別でない限り当人たちが揃って神社に行かないと離婚については執り行って貰う事は出来ない。
勿論、フィオ自体のステータスに特に変わるところはない。
しかし、次回の結婚時には正直に二人目の妻であると申告しないと雷に打たれてしまう。
グレースはグレースでヒーロスコル家の第一夫人というステータスがある限り新しい結婚は無理だ。
フィオ自身については当分の間、まともに結婚する気は無いので何らマイナスは無い。
しかし、グレースは問題だろう。
離婚したとしても何らかの事情で改名が行われたことはステータスに残っているのだ。
「妻を捨てるの?」
「ええっ!? そんな……!」
「旅には道連れが必要でしょ?」
「いや、そういう問題じゃ……」
「結婚したのに!」
「いや、それは、離婚するから」
「結婚すると最初に言ったのはあなたでしょ?」
「ええっ!? それはそうだが、しかし! 話が違う!」
「……ごめんなさい。無理を言ってるのは解ってます。でも、暫くでいいから一緒に居させて下さい」
「む……とにかく、北にあるベロンドの街には行くつもりだったからそこまでなら……」
ベロンドの街は五千人ほどの人口があり、複数の街道が接続している。
今いるカールム程大きくはないが交通の要所とも言えるので、隊商護衛の依頼はいろいろな行き先を選べる上に選択肢はカールムより多いのだ。
勿論神社もある。
離婚だって受け付けてくれる。
バルドゥックに行くにしても通り道だ。
フィオにはどうにも女に甘いところがあった。




