幕間 第二十二話 氷上恭司(事故当時29)の場合
はい、いつもの胸糞悪い話です。
嫌な人は読まないことをお勧めします。
その日、氷上は座った電車の座席の隣に置いたカメラバッグに右手を重ねながら、ぼーっと車窓から流れる景色を見ていた。
昼下がりの上り線はそんなに混んでもいないし、先頭車両なので空席も目立つから座席に置いていてもカメラバッグは邪魔にはならない。
今日はこれから都心にあるスタジオでスーパーのチラシ撮影というつまらない仕事だ。
零細スタジオにカメラマンとして就職出来たのはいいが、寝る暇もないほどの激務が続き、いいかげん転職も考えて行動しないと同棲している女との結婚も難しそうだと悟ったのが……五年、いや六年前だった。
しかし、子供の頃からの趣味が高じ、写真の専門学校を卒業してからなんとかプロカメラマンになれたという自負もあってなかなか新しい仕事に転職するという冒険に踏み切ることは出来なかった。
同棲していた女とはそのあとすぐに別れていた。
下りの列車とすれ違った。
風圧で窓がガタガタと鳴り、うとうとしかけた意識が覚醒してしまい、氷上は(ああ、眠いのになぁ)と思いながら車内を見回す。
いつもの電車内の風景だ。
そう言えば雑誌を買っていた。
月刊のカメラ雑誌だ。
カメラバッグに突っ込んでいた筈である。
バッグのジッパーを開け、雑誌を取り出すと裏表紙の広告ページが目に付いた。
大手メーカーから先月リリースされたばかりの高級なデジタルカメラだ。
レンズは今自分が使っているものと互換性があるらしい。
(うーん、欲しいなぁ。こういう時、大手のスタジオ所属であれば経費で買って貰えるのかなぁ)
そんな益体もない事を思いながら広告に目を落とす。
と、その時、列車が急ブレーキを掛けたようだ。
制動に対して慣性が大き過ぎ、氷上は咄嗟に引き寄せた大切なカメラバッグを抱きしめたまま座席の隣に座っていた人に突っ込んでしまう。
そして、衝撃に耐えられず座席から放り出され、列車の先頭へと……。
・・・・・・・・・
その後暫く、氷上は混乱していた。
一体何がどうなったというのか?
多分あの時、乗っていた列車が事故か何かを引き起こしてしまったのだろう、という想像はついたのだが、確かめる術などありはしない。
また、多分ここは病院かクリニックなどの医療施設なのだとは思うが、それもよくわからない。
周りから聞こえる言葉は外国語のようでほとんど意味も掴めなかった。
自分の気持ちも高ぶりを続け、すぐに赤ん坊のような泣き声を上げてしまう。
こうなると気持ちを落ち着かせる事すら困難だった。
しかし、泣き声を上げるとすぐに看護婦らしき女性が側に寄って頭や体を撫でながら何か声をかけてくれる。
驚いた事に抱き上げてくれさえした事すら幾度もあった。
まだ氷上の目は良く物が見えないので、最初はどれだけ力持ちの大女なのだろうと恐怖すらした。
じきに自分自身が赤ん坊になっていることを知り、納得もした(赤ん坊になっている事、ではなく、女が自分を抱き上げられる事に得心したのである)のだが、一体何故自分が赤ん坊に、しかも外国人に囲まれているのか、全く理解出来なかった。
その後、氷上はある程度判断が付くようになると母親らしき女性の乳房を吸っていた。
大きく張った乳房だが、乳の出はあまり良くない。
一つを吸い尽くすとすぐに隣のもう一つ。
それも吸い尽くすと更に下部に一組のちょっと小振りの乳房がある。
四つも吸うと流石に腹が一杯なって眠りにつく。
(なんでこの女には四つもおっぱいがあるんだ?)
氷上はそう思うが、結果としてそのおかげで飢える事なく育てられているのだ。
不満などあろう筈もない。
不満というより単に不思議だったというだけなのだが。
そういえば何時だったか、人間にも昔の名残で複数の乳房を持つ人もいると聞いた事を思い出し、(これがそうなのか)と一人納得していた。
また、自分の名前らしき言葉も覚えた。マーミンだかマルミンだかだ。
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窓ガラスもなければテレビもない。
勿論、電気も、明かりすらない生活はマルミンの心に活力と余裕を取り戻させた。
つまらない日々の仕事に追われる事もなく、新たな人生を踏み出せると理解するまでにどのくらいかかっただろうか。
それらの一切を理解し、同時に地球ではないような場所に生まれ変わった事を理解した。
家族らしき人達は、一見すると人間のようだが、頭の両脇、本来耳がある筈の場所よりも少し上から大きな、そう、セントバーナードやレトリバー犬のような耳たぶがぶら下がり、ご丁寧にふさふさとした長い毛が生えた尻尾まで生えている。
恐る恐る確認すると自分の頭にもまだ小さいが同様の耳たぶがあり、同様に尻尾らしきものまで生えていた。
ちょっとケツに意識を向けるとぷるぷると振れさせる事も出来た。
(宇宙人だ、こりゃ)
家族は父親らしき男と、母親らしき女の二人共、見た目の顔は西洋人のようだが、年齢は二十歳か、それを少し上回る程度だろうと思われる。
自分の上に年の離れていない兄と姉がいた。
多分自分と年子だろう。
自分を含めて五人家族ということか。
幼子を三人も抱えた母親は大変そうだが、いつも幸せそうな表情をしていた。
父親は朝早くから仕事に出かけているようで、昼間はあまり顔を見る事はない。
夕方頃に帰ってきて一緒に夕飯を取ると、家族全員がすぐに就寝する。
娯楽らしい娯楽など殆どない、ギリギリの生活なのだろうと想像したが、あながち外れてもいないだろう。
(ああ、こういうの、スローライフ、と言ったっけ。こういう生活も悪くないんじゃないかな)
勿論マルミンの認識は間違っている(こういうのはスローライフとは言わない)が、マルミンとしては、田舎っぽいところで農業や漁業など一次産業的な仕事に携わるのをスローライフだと思い込んでいるに過ぎない。
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心に余裕が出てくると、それに合わせて好奇心も膨らんでくる。
マルミンは(一体この星は地球からどのくらい離れているのだろう)とか、(夜空に浮かぶ星座で自分が知っているものはある(夜、戸外に出ることなど一度としてないので、星座があるのかどうかは知らない)のだろうか)という気持ちも出てきた。
しかし、そういった差し当たって重要ではない疑問よりも、もう少し差し迫った疑問から解消していくべきだろう、とも思っていた。
この土地で暮らしている人達は何を生業として生活の糧を得ているのか。
たまに家の外に出られても、周りに人家は見当たらない。
鬱蒼とした木々が茂っているだけだ。
尤も、数日置きくらいには誰かしら来客はあるようだから、そう大きく人家からは離れていないのだろう。
自分達兄弟を素っ裸のまま庭に設えてある柵の内側に放置して、母親も外出する事も珍しくない。
柵は六畳間程の広さがあるので子供三人が充分に遊べる広さだ。
マルミンが生まれてから一年近くが経過した。
父親の仕事も判った。木こりだ。
森で木を伐採して枝打ちをし、材木として川に流しているらしい。
木を伐採するついでに香木の材料になるという高価な枝を採って来る事もあった。
これは大きなボーナスのようなものだろうか。
人里もそう遠くない場所にあることも判った。
母親の急ぎの時の往復時間を考えると精々二㎞前後しか離れていないだろう。
舗装した道などあるとは思えないからもっと近いのかもしれないが。
会話を聞く機会があまり多くないので言語の習得はあまり進んではいないが、父親と母親の会話内容は半分以上は理解出来るようにもなった。
あるとき、荷車を曳いた馬が来た。
馬はいつも子供を放り出しておく柵の中に入れ、荷車になにか積み込んでいた。
どうやら木の枝のようだ。
どうも値打ち物らしく、荷を積み込み終わると父親は荷車の持ち主らしい男から金を受け取っていた。
これが香木になるのか。
そして、それから更にひと月くらいが経過した。
母親の腹はまた膨らんでいた。マルミンは(流石に犬だけあってよく子供を作るなぁ)と感心していた。
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既にマルミンはとっくに乳離れが出来ており、麦の雑炊のようなものを母親に食べさせて貰っていた時だ。
マルミンは自分の体に異常があることを知った。
顎に妙に力が入り、口が開けにくい。
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前日の件は気のせいかと思っていたマルミンだったが、一夜明けても症状は改善しなかった。
それどころか兄姉の騒ぎ声すら癇に障り、不機嫌になってしまう。
今までは兄姉も幼いので、どちらかというとおおらかな目で見ていたのだが、今日に限っては頭の中にキンキン響く感じで非常に不快だった。
食事もそこそこにふて寝してしまった。
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朝、母親が朝食の用意のため夜明け前に起き出した。
それを横目に見ながらマルミンは明らかに強い倦怠感、顔の引き攣りを感じていた。
冬の朝、大して食欲もないので冷たい水を飲み、さっぱりしようと思うのだが、どうにも口が開き辛く、何とか少量の水を飲んでもさっぱりしなかった。
生まれてからこちら、上の兄姉とは異なり、殆どむずかる事のなかったマルミンの変貌に両親は驚いたが、その時は特に気にしなかった。
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その日の昼、陽気も良かったことから窓を開けた母親は、光に照らされ、歯を食いしばった表情で固まっているマルミンに驚きを隠せなかった。
同時に母親の頭にある言葉が思い浮かんだ。
“テタナス”
オースでは別段珍しくはない。
ごくありふれた病気だ。
ただ、感染・発症時の致死率は非常に高く、乳幼児は八割を超え、九割近い確率で死に至る。
治っても盲目となる事の多い病だ。
なお、テタナスは成人が感染しても死亡確率は半数程度という、非常に恐ろしい病気である。
原因は不明だが、野山で遊ぶ子供や土いじりをする農家、新生児などが比較的多く罹患する。
発症初期であればキュアーなどの治癒魔術を掛けることによって比較的助かりやすいのが救いだ。
母親は一㎞程離れた村の治癒師のところまでマルミンを背負って走った。
事は一刻を争う。
マルミンは発症してから幾日経ったろうか。
妊娠して膨らみかけた腹を気遣いながら山道を全力で駆け下りる。
ようやっと治癒師の家の扉を叩いたとき、母親はすっかり汗だくになっていた。
息せき切って飛び込んできた母親から事情を聞いた治癒師は同時に差し出された幾許かの謝礼を受け取ると、早速キュアーの魔術をマルミンに掛けた。
少しだけ症状は改善したようで、心なしか歯を食いしばったマルミンの表情も和らいだようだ。
マルミンは苦しい体が多少なりとも楽になったことに感謝しながらも、驚きを隠せないでいた。
何しろ、彼が生まれ変わってから初めて魔法を目にしたのだ。
今までは魔法などという非科学的なものがある事すら知らなかった。
治癒師に運び込まれたのも医者に運び込まれたのだろうと思っていたくらいだった。
その考え自体は大きく外れてはいなかったが、母親が医者に症状を説明しながらも、しきりに「マジック」とか「キュアー」とか言っているのを聴いて(まじっく……マジック……手品……まさか魔法!?)と思ったくらいだ。
自分に向かって差し出された医者の掌がぼうっとした青い光を発し、掌が当てられた場所から何か温かいものが体に流れ込んでくるのを感じ、同時に少し体が楽になった。
安心して寝てしまった。
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夕方、医者は再びマルミンに魔法を掛けた。
また少し体が楽になった気がした。
(ああ、良かった。病気だったみたいだけどこれで俺は助かるのかな?)
そんな風に思えた。
しかし、一時的に小康状態を取り戻したとは言え、これで安心出来るのだろうか?
それとも、日本で子供の頃読み聞かされた絵本などの魔法のように、もう大丈夫なのだろうか?
マルミンには判断がつかなかった。
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翌日、家族が治癒師の家まで来て見守ってくれた。
どうも俺は入院しているという事らしいな、と今更ながらにマルミンは思った。
治癒師は額に脂汗を浮かべながらだいたい一時間おきに魔法を使ってくれた。
その度に体は少し楽にはなるが、症状は改善しないどころかゆっくりと悪化しているようだ。
(この医者、ヤブなんじゃねぇか? もうお呪いはいいから何か薬使って欲しい……)
はっきりした意識が残っているため、マルミンはそう思ったが、口に出す事は出来なかった。
顎の筋肉が張り、どう頑張っても上手く喋れない。
元々大して上手く喋れた訳ではなかったが、歯を食いしばったまま、口を思うように動かせないので尚更だった。
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医者は寝ずの看病(魔法を定期的に使うだけだが)をしてくれていたが、そもそも病状が進行し過ぎていたのか、それとも魔法の力が足りなかったのかは不明だが、マルミンの病状は一段階重くなった。
全身、特に首から背中の筋肉が張っている。
満一歳にも満たない乳児ではあるが、筋肉が全くない訳ではない。
体が弓なりに反るのが感じられた。
(く、苦しい……。痛い……)
マルミンはそう思うが、それを訴える事すら困難だった。
魔法を掛けられた直後は一時的に楽にはなるが、病気を克服する為には十分な栄養が必要だ。
(口が動くうちに何か物を食った方がいい)
そう思って、体が楽になる数分間は物を食べたり水を飲んだりする事に注力した。
苦しみや辛さを訴えたところで状況は改善しないだろう。
マルミンは(出来ることを出来る範囲でやるしかない)と思っていた。
出来ることとは、機会を逃さず栄養を摂取することだ。
そう思って食べられるだけ食べ、飲めるだけ飲んだ。
量はどちらも僅かなものだったが、何も摂取しないよりはマシだろう。
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さらに翌日、症状は更に進行し、マルミンは息も絶え絶えの状況であった。
固く歯を噛み締め、弓なりに体を反らせているマルミンはもう助からないだろう。
肩を落とし、マルミンを抱く両親には悲しみの表情が浮かび、治癒師の施す治癒魔術は気休めと化していた。
(なんだよ、これ!? こんなのありかよ!?)
マルミンは思う。
この世の理不尽を、生まれ変わってこのような苦痛を与える運命全てを呪った。
(俺はこんなに苦しまなくてはならないほど悪いことはしてないぞ!)
意識がはっきりとある分、残酷だった。
顔面はずっと歯を食いしばっているため、苦笑いを浮かべたような表情が張り付いており、筋肉は顔面から足の先まで凝り固まっている。
痛い。
首の後ろから背筋を通して腰までの背筋が引攣れを起こしたかのように固まっている。
すごく痛い。
腰から下、足の指先までは筋肉は攣っており、上半身と合わせて頭の後ろから踵に対して弦が張られたかのような、弓なりになったままの姿勢で固まっている。
もう……ダメだ……いっそ殺してくれ。
そして、マルミンは苦痛のあまり意識を手放すことに“やっと”成功した。




