2.『緋浦』
2.『緋浦』
緋浦と風鶴との出会いは、十年以上も前の話になる。
緋浦は、武蔵族にはあり得ないほどの巨躯の持ち主だ。一般の武蔵族が四尺から五尺なのに対し、緋浦はその倍の八尺近くもある。差別意識の最も少ない種族なので、孤立することはなかったが、不便は日常的にとてつもなく感じる人生を送っていた。
風鶴は、武蔵族の間でも、有名な人物だった。しかし、翠林族のように、地位を数値化して管理したりなどということはないので、ただ、武蔵族と仲の良い大和族の一人、という程度の認識しかなかった。
ある日、風鶴が緋浦を訪ねて言ったのだ。「協力を求めたい」と。
その協力とは、聖印を取り戻すことだったのだが、翠林族に、その事実を知っている者はほとんどいない。一般的に知られているようなことがあれば、緋浦は風鶴に次ぐほどの高い地位点を持っていただろう。緋浦自身が、そのことを口外しないことを条件に協力したのだ。
翠林族と大和族、武蔵族は、それぞれ別の島に住んでいるが、風鶴と緋浦はもう、ほぼ常に翠林族の住む島を居所としている。家こそ持たないが、その広い島を、共に流浪する生活を送っている。大和族の住む島は、もっと広いが。武蔵族は技術者の集団のため、大和族から積極的に交易を持ちかけられ、交流の機会は多いが、武蔵族と翠林族、或いは翠林族と大和族の間にはそういうことはない。世の中には、武蔵族にしか作ることの出来ないものが沢山ある。大和族にとっては、そういうものは喉から手が出るほど欲しいものだが、翠林族にはそういう欲がほとんど無い。そして、翠林族には、大和族にとって、そこまで欲しいものが無かった。強いて言えば、印描術の技術だが、印描術は、本来、翠林族にとって、聖なる儀式だ。翠林族は強硬にそれを拒んだが故、一部の大和族の策略によって、聖印が盗まれるという事態になった。現在、翠林族のほとんどは、大和族そのものを快く思っていない。
熊を素手で狩る。武蔵族でも、なかなかそこまでの豪傑はいない。力が強い割りに、体が小さいからだ。だからといって、八尺あれば、素手で狩れるなどという相手ではない。
見た目は、鬼だ。武蔵族の特徴である赤い髪を腰まで伸ばし、褐色の肌、右目は潰れている。顔など、子供が見たら泣き出すほどの迫力を持ち、しかし、別に怒っているわけではない。むしろ、心優しい青年だ。
しかし、今回は相手が悪かった。ただの羆なら、引けを取ることはなかったのだが。
「クソッ!誰の仕業だよ!!」
表面の炭化した羆。食べるつもりで狩ったのに、炭化した表面を取り除くのが一苦労だ。時間がかかるから手をつけ始めてしまいたいが、この規模の印を使ったのだ、風鶴がすぐにでも駆けつけるはずだ。
周囲も警戒する。この一匹だけとは限らない。……今のところ、気配はない。
ただ、狩りに来たのは正解だった。こんなものを、放置など出来ない。喉に亥の印が描かれている羆など。
何者かが、あの集落を襲撃させるために用意したと考えるのが正解だろう。手遅れになる前に、風鶴に駆けつけて欲しい。
何より、集落の反対側で起きた、アレは何だ!?あんなものが集落を直撃していたら、集落が跡形も無く消し飛び、後には大きなクレーターしか残らない。風鶴は何をやっている!?あんなものを放置したのか!?それとも、風鶴が辛うじて、集落への直撃を避けたのか!?
やがて、村の方から、小さな点のようにしか見えない人が、飛んでくるのが見えた。恐らくは風鶴だろうと見当をつける。
風鶴の到着を待ち、無言で羆の喉元を示す。風鶴も、近寄って確認する。
「かなりの使い手だな。亥の印と、何らかの小印を複合している。
……隼那と合流して待っていてくれ。恐らく、これ一体だけではない。全て私が処分しよう。
緋浦は万が一のため、迎撃を図ってくれ」
「……この熊、運ばにゃならんのだぜ?」
「何のために?」
「食うためだ」
事態を考えろと頭を悩ませた風鶴に、緋浦は「コイツへの供養だ」と言う。
「肉を切り出して、必要なだけ運べ。迅速に。
一頭運んだのでは、時間がかかりすぎる」
「大した重さじゃない。切り出す方が時間がかかる」
……どう見ても、その羆は百貫以上はある。しかし、風鶴は問題ないと判断する。議論する時間が今は惜しい。
「少々、派手な印を使うことになるが、気にするな。皆が必要以上に騒がぬよう、後は頼む」
そう言い、風鶴は再び飛び立った。
集落の上空。ここからなら、集落の周囲全てを見回せる。
急いで戌の印を描く。感知系なら、最高の大印だ。
……村へ向かっている、亥の印の呪いを受けた羆が、十数頭。もう、かなり近づかれてしまっている。
「……仕方あるまい」
右手で、左手の甲に『開』の小印を描く。何故か、左手の甲に『封』の字が現れた。それが、解き放たれるように輝いて消える。
次に、空中に辰と寅の印を描く。今回は、その二つの大印の複合術だった。
複合した印が空へと迸り、羆の数に等しい数の雷が落ちた。……全て、羆に命中。封印を解かねば、そこまで完璧に制御する自信が、風鶴ですらなかったのだ。
戌の印は、まだ有効。周囲の気配を探る。今回は、羆の探索ではない。首謀者の探索だ。
集落には、視線を向けてくる者が多数いるが、その中からは特定できない。
しかし、北よりやや東寄りの森の中に、迂闊にも風鶴へ殺気を込めて視線を向ける者がいた。
風鶴は、そいつに対して、ただ殺気を込めて睨みつけただけだった。
心臓を押さえ、倒れるのを風鶴は確認した。恐らく絶命しただろうし、意識を失っただけだとしても、助かるまでの時間には発見はされまい。
事が済んだから、再び封印。と、すぐに行うわけにはいかない。確かに、封印を解いたままでは、殺気を込めて睨んだだけで人を殺せてしまう。しかし、ここは空中だ。突然、制御を失い、落下する恐れがある。
まずは、集落の外れに着地し、それからゆっくり、左手の甲に『封』の印を描く。
訪れる脱力感。立ってすらいられなかった。跪き、呼吸を整える。
「……早く、全てを成し遂げねば」
あとは、呼吸を整えて、何事もなかったかのように隼那の家へ向かうだけ。
そこには既に、緋浦は到着し、軒先で熊を捌いていた。
「片付いたのか?」
「ああ」
隼那は料理を始めていた。
隼那の家は大きい。そして、緋浦の手によって作られたものだ。集落で一番大きいが、決して派手さはなく、質素で頑丈に作られている。長に、「譲って欲しい」と頼まれたこともあるほどだ。
「話は、食事が終わってから聞くから、ゆっくりしてて」
「すまないな。期待させていただく」
緋浦もやがて熊を捌き終え、今食べる分を隼那に渡すと、風鶴と共に囲炉裏を囲って座り、待った。
作られた料理は、熊肉の鍋に近い料理と、少しばかりの米。米は、翠林族が食べることはあまりない。しかし、隼那は米を商う仕事をしているので、食べる習慣があった。それでも、大量に食べることは出来ない。高級食材なのだ。そのため、隼那はこの集落でも屈指の裕福さを誇る。
「さ、召し上がれ」
「「いただきます」」
米を商うということは、この集落では稲作を行っているということだが、その技術も、緋浦がもたらしたものだ。大量の米を運ぶ手段を、翠林族は持たない以上、遠くまで運んで売ることは出来ない。そのために緋浦は、わざわざ、寒冷地に強い品種を作ってまで、翠林族に稲作という文化をもたらした。この集落の餓死者は、それによって激減した。
緋浦に限らず、武蔵族全体が、技術者の集団で、寒冷地に強い品種も、品種改良の技術の追究を目的として行われたことで、例えば、大量生産の技術を追究することはあっても、その技術を利用して、大量生産した米を商うという発想は、武蔵族にはない。食うに困らないだけは作るものの、大抵は技術の追究の過程で生産されてしまうものだけで事足りてしまう。そして、無欲が故に、その技術を無償で他種族に提供する。技術を利用してもらうことの価値は理解しているからだ。
「さて」
三人ともが食事を終えて、さらに器などが片付けられてから、風鶴が口火を切った。
「説明をせねばなるまいな」
食事の後に回したことが、二人に、その話の深刻さを覚悟させた。