親指からはじめよう
彼は、凄く近くて、とても遠い所にいる。
どこかっていうと、携帯の中。でも別にアニメのキャラとかそういう訳じゃなくて。
「あ」
メールの着信を知らせる淡いピンクのイルミネーションに、思わず顔が綻んでしまう。
この色は特別。彼だけに設定してあるから。
遠い人。彼は、まだネットの中だけの人だから。
【仕事終わったよ。今日は何してた?】
シンプルなメール。たまに顔文字も使って来るけど、絵文字は今まで見た事ない。
最も、私だって使わないからいいんだけど。
【いつも通り、ちゃんと講義受けてもう帰ってるよ】
【本当? まだこの時間だし、遊びに行ってたりしないの?】
時間は午後八時。確かに大学生だし、遊んでてもおかしくない時間だけど。
【今日は美咲も彩も用事あるし、そんなに毎日出歩きません!! それに、今日はメールできるかもって、タックンさんが言ったから……】
【俺の為? 嬉しいけど、そのせいでちぃが友達と遊ばないって言ったら怒るからね?】
【いーいーまーせーんー!!】
【奈良四氏】
【変換してる(笑)】
【やべ、間違えたw】
こんな他愛もないやり取りが楽しくて仕方ない。
友達と一緒にいるのも大好きだし楽しいけど、でも、こうしてタックンとメールするのも大好き。
タックン……ううん、本当は名前、知ってる。メアド交換した時に、本名教えて貰ったから。
藤宮拓斗さん。
でも、拓斗さんが私を「ちぃ」ってハンネで呼ぶから、私も「タックンさん」としか呼べない。
さんざん呼び捨てしろって言われたけど、そんなの無理だよ。
自分より6歳も年上で、かっこいい男の人を呼び捨てにする勇気なんて、ない。
だから画面上では絶対に使わないけど、でも。
「拓斗さん……」
時々、口にしてみたり、する。
そうするとぎゅうってして、どきどきして、幸せな気持ちになるから不思議。
【ちょっとシャワーしてくるから】
【はぁい、いってらっしゃーい】
そう打って、携帯を閉じようとしたら、またピンクのイルミネーションが灯って。
【いい子で待ってろよ、ちぃ】
……そんなの、反則だと思うの。
そんな風に言われたら、待つしかないじゃない。
「……もうっ!!」
少し考えて、私もメールを打つ。
【だったら私もお風呂入ってきますね】
もやもや。でも、嫌な感じはしない。わくわくに近いもやもや。
変な感じだけど、この気持ちも拓斗さんがくれたものだから。
はじめてメールしたのは四月だったなぁなんて、あったかい浴槽に浸かって、のんびりと思い出す。
大学に入ったばっかりで、はじめての一人暮らしで。
まだ友達も作れてなくて、このまま大学生活できるかななんて不安になって。
それで携帯いじってて、たまたまはじめたSNSで、拓斗さんに出逢って。
きっかけは、MIMIって画家さんの話からだったなぁ。
あまり有名じゃないけど、CGですごく綺麗な神話とか動物とかを描くから、ずっとファンで。
そしたらたまたま拓斗さんもファンで、話が弾んだんだよね。
そのうちいつの間にか仲良くなって、それで色々親身に相談に乗ってくれて。
友達が出来たのも、拓斗さんが頑張れって言ってくれたからだし。
「あ、待たせちゃう!!」
ぼんやりしてる暇なんてないんだった。
慌てて体を洗ってお風呂から上がれば、ほら。
メール着信を伝える、ピンクの瞬き。
【あがったよ】
着信時間は三分前。よかった、あんまり待たせなかったみたい。
【お帰りなさい、私も上がりましたよ】
急いで打って、返信を待ちながらお風呂上がりに一杯の水を飲んで。
そうしたら、またすぐに。
【ただいま。ちゃんとあたたまった?】
ただいま。
そんな言葉が、返って来る。
気遣いと一緒に送られたその言葉が、嬉しいの。
【あったまりましたよ。タックンさんは?】
【俺はいいの。シャワーだから】
【だめですよ、疲れてるならちゃんとあったまって、筋肉ほぐさなきゃ。疲れ取れませんよ?】
【心配してくれてるの?】
【当たり前じゃないですか!!】
【ありがと。なんか、ちぃとメールしてると癒されるな】
どきん。
きっと何の含みもない言葉だけど、でも。
なんて返したらいいの?
【私で癒されるならいくらでも】
【そう? 俺を癒せるのはちぃだけだよ】
……よかった。メールでよかった。
だって今、私真っ赤になってる。
メールだから、顔も声もバレないから。
【なんか、すごいこと言われた(笑)】
【ふふ、でも本当。ちぃとメールしてるの、俺大好きだよ】
大好き。その言葉が、私自身に向けられたものならいいのに。
そう思うなんて、変だよね。
だって、私達は、お互いの声も知らない。
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