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忌むべき救済

 がちゃり、と音がした。

 盗撮魔は電話に出た。しかも、相手先のウェブカメラは、オンになっている。無防備にも、敵は逆襲されることを全く予期していないのだ。

 盗撮魔の正体、見たり。私は血の滴るような笑みが顔に浮かぶのを感じた。パソコン画面ごしに、その憎い姿を目に焼き付けつつ、挨拶した。

「こんばんは、初めまして。コヅエです。でも、そちらは私のことは一方的によくご存じではなくて?」

 敵はぼさぼさと汚らしい髪の下、ヘッドセットと一体化したヘッドホンとマイクを着けている。丸眼鏡式のアイ・アップ・ディスプレイの向こうで、細い目が光りもせずにこちらを見据えていた。

 不潔な服の上にも、ウェアブル・コンピューターをごてごてと着込んでいて、その姿は邪悪なサイボーグのようだ。そして、男の背後には、ありったけの数のメカが積めるだけ積んである。

 この男……。私は悟った。

 現実世界ではなくて、ネット上の社会にこそ意味を見いだすタイプの人種だ。私の部屋にカメラを仕込んだ後は、指一本動かすでもなく、冷徹に私を見つめ、解析し、この男にしか理解できない方法で喜びを見いだしていた。その姿は変態であると同時に、研究者だった。

 ある意味、究極の観察者なのだ。

 このような人間を表す言葉などあるのだろうか。オタク、マニア、ギーク、ナード、電キチ……いや、そんなレベルじゃない。もっと上のレベルだ。

 サイバー・ピューク(電脳廃人)。これだ。こう呼ぶ他ない。

 私にとって、完全に未知の存在だった。そして、私の登場に対し、パニックを起こして通話を切るでも、激高するでもなく、ただこちらを冷たい目で観察している。

 私は鳥肌が立つのを覚えながらも、どうにか闘志をかき集める。

「あんたは私の私生活を覗いて、決して見てはいけないものを見てしまったのよ。精神への傷は、肉体の傷より深い。大罪よ。許されないわ。逃げたければ逃げればいいけど、貴方の顔は覚えたわ。地の果てまで追いかけてやる」

 敵はやはり、微動だにせずこちらを見つめているだけだった。気味が悪くなってくる。

 もしや、何か奥の手を持っていて、私が罠の中に入り込むのを静かに待っているのだろうか。それとも、完全に正気を失っているため、道理をわきまえた会話は不可能なのか。

 やがて、敵は口を開いた。

『コヅエ……』

 不気味な敵は私の名を呟く。

「そうよ、私はマチ・コヅエよ! その私は怒り狂っていて、あんたを裁きの間に引き出したいわけ。んでもって、生皮剥いで――」

『いや……』

 盗撮魔は首を振った。

『裁きは不要だ。僕が君に提供するのは罪じゃない……救いなんだ』

「はあ?」

『君のことはずっと見てきた。君の知らないところで、僕は誰よりも君の感情に共感し、君と苦しみを分かち合ってきた。君の孤独は誰よりも理解している。もしかしたら君自身よりも、君の孤独を感じているのかもしれない』

「冗談言わないで。あんたごときに私の苦悩が分かってたまるかっていうの!」

 相手の戯けた口を封じる口調で私は言った。

『僕にしか分からないんだ。僕ほど君に時間を費やし、心から湧き出るものを享受した人間はいない。君は僕の全てなんだ』

 画面の向こうからの、激しい感情の吐露に私は気圧された。

『君は僕を変態と責めるだろう。だが、まともな社会は君を満たせない。現実世界に君に適する人間などいない。なら、君は変態を求めるしかないんだ』

 相手は盗撮魔だ。世間一般の観点から言って、ただの変態なのだ。それなのに、この激情はなんだ。

 全く予想だにしていない流れに、私は呆然とした。

『僕のような世界の住人は、避けがたい孤独を紛らわせるためにネットを進化させた。広大なネットは僕たちのために開いている。僕たちを待っているんだ!』

 盗撮魔の目が力を帯びた。

『君の孤独は僕が完全に受け入れる。永遠に見守り続ける。世界のあらゆる所に目はある。僕は自在にハッキングして、君を見守る。ユビキタスな電子社会そのものが、君と僕を祝福しているんだ』

 誰にも注目されていないという問題に対し、それを恒久的に避ける保証が提示されたのだ。

 私はそれに伴うメリットに思いをはせた。

「申し出はありがたいわ。とってもありがたい……でも」

 それ以前に、生理的嫌悪感が強すぎた。

「気持ち悪いっつうの!」

 私は怒鳴って、パソコンから伸びるケーブルを思い切り引っ張った。

 すると、画面の中で盗撮魔がバタリと倒れ、周囲の機器が雪崩を起こした。

『うわああ!』

 音割れした悲鳴がスピーカーから迸る。

 私はケーブルを強く握りしめた。

 敵はどこにいるのか、それこそ上海にいるのか、ニューヨークにいるのか知る術はない。だが、今握っているこのケーブルは、敵のヘッドセットと直接繋がっているのだ。

 これを引けば、敵は引かれる。

 絞首刑の縄を敵の首にかけたのも同じだった。

 私は凶悪な笑い声を上げると、片足を壁に掛ける。そしてケーブルを力一杯引いた。

 画面の中で男がばたんと倒れ、パソコンデスクに頭を打ち付けた。

『わああ! 暴力反対!』

「下郎、その口つぐむがよい!」

 私はケーブルを緩めては引っ張り、緩めては引っ張る。それに合わせて、盗撮魔は頭を何かに打ち付けた。

 男の周囲で高額な機器がスクラップと化していく。男はどうにかヘッドセットを外そうとするが、もちろん私がそんな余裕を与えない。

『やめるんだ、コヅエ! 僕が君の唯一の希望だぞ!』

「だとしたら、そんな希望はいらぬ!」

 私は叫んでケーブルを引いた。

「盗撮しておいて何が救いだ! 自分の行為と、社会的信用を天秤にかけてみろ!」

 盗撮魔のヘッドホンが壊れて、内部の機械が露出している。だが、私が見たいのは、盗撮魔の脳味噌の露出だった。

 最大のブローを放ってやろう。私はケーブルをぐるぐると拳に巻き付け、壁に押しつけた足に力を込める。

 敵は回復不能なダメージを被るのだ。コヅエの憤怒の炎は、全てを灰にするまで収まらない。

『わあっ!』

 敵が悲痛な悲鳴を発した。予期された己の破滅を悲観してのことだろうか。

『な、なんてことをしてくれたんだ……! とんでもないことになったぞ、コヅエ!』

「まだほんの序の口よ」

『今のショックを、僕のパソコンは直下型の大地震と勘違いしてしまった! 僕の生命が危機に曝されていると判断したんだ!』

「勘違いじゃないわ。危機に曝されてるのよ」

『その結果、僕のパソコンは全てのデータを、保存のためにネット上にアップしたんだ! もうおしまいだ!』

 盗撮魔は悲鳴をあげて、びーびー泣き始めた。

「っさいわね。制裁に水をさすんじゃないわ。あんたのパソコンなんか、どうして私が気にかけると思うのよ!」

『だって……僕のパソコンには、君のデータが山ほど入っているんだ』

 なんだか、嫌な予感がしてくる。

「具体的には?」

 私は尋ねた。盗撮魔は、キーの欠けたキーボードを叩いて、

『えーっと、君の部屋を盗撮した編集済み映像データ140ギガバイトに、要所要所の静止画像と、音声データがこれまたすごい数で――』

「それはネットのどこにアップされたのかしら」

 盗撮魔はこちらを向いて、質問の意図を理解しない顔をした。

『そりゃもちろん、あらゆる場所だよ。バックアップのためだから、安全を期すためには、なるべく大手のサイトに沢山保存するのがいいんだ。当然じゃないか。今回アップしたのは、有名どころだと、YouTube、FaceBook、Myspace、Friendstar、LinkedIn、Google+、Mixi、ニコニコ動画――』

「あんた以外の誰かが閲覧できたりしないでしょうね?」

『できないわけないだろ。誰でも君のデータを好きなだけ見れるさ。ネットは広大だ。世界のどこにいようと、望みさえすれば見ることが出来るんだ」

「ふうん」

 盗撮魔は意気消沈した様子で、ぼやいた。

『ひどい損失だ。君のデータは僕が持っていてこそ意味があったんだ。唯一無二のデータだから、神聖だったんだよ。それが、今では誰にでも気軽にアクセスできる、安っぽい情報に成り下がってしまった。無限にコピーされて、ダウンロードされて修正も不可能だ。残念でならないよ』

 私は彼の顔を見つめて、断罪の言葉を告げた。

「苦しみから、解放してあげるわ」

 私は上体を高速で回転させると、肩にケーブルを当てて体を床に投じた。背負い投げの要領だ。裂帛の気迫が口から出た。

 人間が力学的に発揮できる最大の力が、一本のケーブルに集中される。それはケーブルを伝わり、敵の頭蓋に直接作用した。

 柔道のすごいところは、女の腕でも大の男を投げ飛ばすことが出来ることだ。盗撮魔相手の最高の武術と認めざるを得ない。

 盗撮魔の体は一瞬、宙に浮くと、ケーブルに引かれて飛んだ。

 直後に、男の顔がskypeのウィンドウ一杯になる。そして、画面一面に、蜘蛛の巣のような白いひび割れが生じた。

『うぎゃああ!』

 アイブックの向こうで断末魔の叫びが響き渡る。

 盗撮魔はケーブルに引かれて、己のパソコンに突っ込んだのだ。

 ドカーンと爆音が轟き、skypeのウィンドウがブラック・アウトした。盗撮魔のパソコンが大爆発を起こしたようだ。

 悪者への制裁は、爆発オチと相場が決まっている。私は息をついて、アイブックを閉じた。

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